yuru63様
〇十SUNです。
どうもごぶさたしております。
今回御サイトの情報を勝手に拝借いたしました。
以下のアドレスです。
http://123.ent10.jp/?eid=2099
もし問題があるようでしたらいつでもおっしゃってください。
すぐに削除させていただきます。
事後報告になりましたことをお詫び申し上げます。
ひふみ神示黎明編から大摩邇サイトは海に沈む予告どおりの結果となりました。
そのサイトと全く別物の沈まない大摩邇百宝船の立ち上げをいたします。
【大摩邇(おおまに)合宿stay-sandwich-sound ~3S参~】
合宿とは元気丸さんが使用していたコメントから拝借です。そこからstayをあてはめました。
sandwichは大摩邇サイトの記事を<コピペ開始>と<コピペ終了>で挟み込むスタイルを思いついたからです。
soundは音(おと[五十])と言波から思いつきました。
総合した意味は、外道の善と外道の悪を抱き参らせる方法ということになります。
合宿とは行者が滝に打たれる姿を連想させます。
英語の意味もよくわからず書いてしまいましたが、そのような合宿する行為を音(おと[悪土])で挟み込んでしまおうという意味で表現しました。
当初は大摩邇サイトの記事を片っ端からサンドウィッチしてしまおうと考えていました。
ところが、今回3S参として表現してからわかったことですが既存の大摩邇サイトに干渉するのは不要です。
海に浮かぶフネであればわざわざ海底にいる存在に触れることもありません。。
また、小船でありながら最も力のあるフネにすることが可能です。
小(こ[九])型の方(箱[八九])舟にすれば空白を開く力が得られます。。
その名も九八九(こばこ[空白])舟です。
題して【大摩邇小方舟(はこぶね)】でいかがでしょう。
ご指摘等アイデアがございましたら大歓迎です。
乱筆にて失礼いたします。
<参考の帖>
863+137=1000→1(一)
扶桑の巻 第14帖 (014)→8自分のことを善だと信じている外道に悪をぶつけると善の働きをするのを期待するしかありません。
それを通過しないと、神示でいう善悪のない心境になかなかたどりつけないと思います。
63 32-14
青海原 青垣山の内(宇宙)に 御子生る。
神の御座(みくら)のまわりには十の宝座があるぞ、十の宝座は五十と五十、百の光となって現れるのであるぞ、大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあろうがな、五十種の光、五十種の色と申してあろうがな、光の中に百億の化仏(けぶつ)ぢゃと申してあろう、百が千となり万となり億となるのであぞ、今迄は四の活物(かつぶつ)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであぞ、五が天の光であぞ、白、青、黄、赤、黒、の色であぞ。 |
天つ巻 第30帖 (137) 4-30
富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ。神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ、まつりがあるだけぞ。まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ。これは政治ぞ、これは経済ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になるのぞ、分ければ分けるほど分からなくなって手におへぬことになるぞ。手足は沢山は要らぬのざぞ。火垂(ひだり)の臣(おみ)と水極(みぎり)の臣(おみ)とあればよいのざぞ。ヤとワと申してあろうがな、その下に七七ゝゝゝゝと申してあろうがな。今の臣民 自分で自分の首くくるやうにしてゐるのぞ、手は頭の一部ぞ、手の頭ぞ。頭、手の一部でないぞ、この道理よく心得ておけよ。神示は印刷することならんぞ、この神示説いて臣民の文字で臣民に読める様にしたものは一二三(ひふみ)と申せよ。一二三は印刷してよいのざぞ。印刷結構ぞ。この神示のまま臣民に見せてはならんぞ、役員よくこの神示見て、その時によりその国によりて それぞれに説いて聞かせよ。日本ばかりでないぞ、国々ところところに仕組して神柱つくりてあるから、今にびっくりすること出来るのざぞ、世界の臣民にみな喜ばれるとき来るのざぞ。五六七(みろく)の世近づいて来たぞ。富士は晴れたり日本晴れ、富士は晴れたり日本晴れ。善一すぢとは神一すぢのことぞ。この巻を「天つ巻」と申す、すっかり写して呉れよ、すっかり伝へて呉れよ。九月十四日、ひつ九のか三。 |
869+131=1000→1(一)
碧玉の巻 第05帖 (020)→869 33-5
七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけると と九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこと、これでよく判るであろうが、マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、摩邇(マニ)の宝珠(タマ)であるぞ、五十は伊勢であるぞ、五百は日本であるぞ、五千は世界であるぞ、このほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな。 |
天つ巻 第24帖 (131) 4-24
今の臣民めくら聾ばかりと申してあるが、その通りでないか、この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らんのざぞ、それでこの世をもちて行く積りか、分らんと申しても余りでないか。神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出て来るぞ、神は大難を小難にまつりかへてゐるのに分らんか、えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること分らんか、ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪(じゃ)のみたまぞ、そんなことでは神の臣民とは申されんぞ。臣民は、神に、わるい事は小さくして呉れと毎日お願ひするのが務めぞ、臣民 近慾(ちかよく)なから分らんのぞ、慾もなくてはならんのざぞ、取違ひと鼻高とが一番恐いのぞ。神は生れ赤子のこころを喜ぶぞ、みがけば赤子となるのぞ、いよいよが来たぞ。九月十日、ひつ九のかみ。 |
118+882=1000→1(一)
天つ巻 第11帖 (118) 4-11
この神示 言波としてよみて呉れよ、神々様にもきかせて呉れよ、守護神どのにも聞かして呉れよ、守護神どのの改心まだまだであるぞ、一日が一年になり百年になると目が廻りて真底からの改心でないとお役に立たんことになりて来るぞ。九月四日、一二(ひつぐ)か三。 |
碧玉の巻 第18帖 (033)→882 33-18
氷と水と水蒸気ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ、総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。 |
多くの文書を内蔵する小方舟(はこぶね)をノストラダムスは次の絵のように表現したのでしょうか。
未だに謎です。