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良い宇宙人と悪い宇宙人の話地球編

NO10「すばらしい透視能力をもつ子供」

  • 「あのね、はるね、こういうことね」

    「いままでできなかったんだけど、いつできるようになったかっていうとね」

    「ここ(八ケ岳)に来てからなの。」

    「あのね、それからね、いまは、いまって今の今ね」

    「もうヨガのポーズとらなくても見えるようになったよ」

    「それからね、頭っていうか、心っていうか、言いたいことを思うじゃない」

    「そうすると話せるんだよ」

    「聞こえるし・・・・」「できるでしょう? お父さんも」

    と言われて、私は言葉に窮した。

    どこでヨガのポーズなんかいつ覚えたのだろうと思い、それを聞いてみたら、

    「少年アシベ」というマンガの中に出てくるチベットの修行増がそうゆう格好をしていたからだという。
    子供の柔軟性と吸収力に、ただただ敬服するばかりだった。

    翌日、近くのプールに行く途中の自動車の中で、
    また、はるは急に、後ろの座席から運転している私の耳元までニューッと体を伸ばして、話をし始めた。

    あのね、きのうさ、月とか他の星のこととか、遠くの友達のこととかが見えるってはなしたでしょ」

    「あれはね、こーゆーことなの・・・・」

    「あのね、あたしという人間ね、ね、あたし、このあたしね(と言って自分の胸を平手でポンポンとたたく)」

    「このあたしが二人いるってことなの。」

    「一人はいま話しているあたしなんだけど、もう一人は透明っていうか、透き通っているの」

    「その人が・・・・、」

    「それはあたしなんだけど、その人が見るのよ、いろんなもんを」

    「遠くのものとか、月とか」

    「そうするとこのあたしが分かるの」

    「あのね、その透き通っているあたしはね・・・・」

    「だからあたしは二人いるんだけど、いつも一緒で」

    「そうゆうときだけスーッと離れることもあるんだけどね」

    「そうやって見えたりするんだけどね」

    「でもいつも一緒でさ、あたしのこの中にいるの」

    「あのね、だからその透き通ったあたしは、『こころ』なの、こころっていうこと」

    私はそのとおりだと思った。

    私にはそうした体験は無い。

    でも、彼女はごく自然に私に自分の身に起きたことを解説していて、眼は澄んでいて、それがなによりの説得力だった。

    「今は、すごく暑い星にきているの。

    すごいよ、暑くて。

    燃えているからこれはタイヨウだな、太陽」

    「ヘエー、じゃ、ものすごく暑いんだね、きっと」

    「うん、スッゴーイ暑い」

    「太陽にも人がいるの?」

    「ウーンと・・・・
    (と言ってまた2〜3秒考えてから)、
    うん、いるよ。

    暑いのが平気な人たちがいるの」

    「どんな人たち?」

     「あたしたちみたいだよ、

    洋服着ているし、町もあるし、

    暑っつーい町だよね。

    でもね、そこの人たちは冷たいものに弱いんだよ。

    だから、水はないんだよ。

    水は大敵なんだって。

    アイスクリームもだめなんだよ」

    「へーえ、そうか。おもしろいね。 (宇宙には)いろんな人が住んでいるんだね」

    そこへ三女の“もも”が口を挟み、

    「あのねえ、冷たい星もあるんだよ」という。

    すかさず“はる”が、

    「そうそう、あるよね。

    冷たくて凍っているような星」

    「そこにも人が住んでいるんだよね」と“もも”。

    またしばらく自動車を運転していると、また、はるが思い出したように、

    「お父さん、東京にミニクーパー
    (私達のもう一台の自動車の車種の名前です)
    置いてきちゃったじゃない。

    ミニちゃんのところにいま行ってみたら、淋しがっていたよ。

    あのね、自動車はね、乗って欲しがっているんだよ。

    そうゆうものなの。

    (人が)乗ってくれると喜ぶんだよ。

    うれしいって。

    それとか『物』ってね、(人に)使ってもらいたいんだって。わかるよ、そうゆうの、はる」

    その後東京に戻ってからも彼女の能力は消えず、わくわくすることを話続けてくれた。

    九月末の頃のはるの話から。

    「あのねえ、前にお父さんに話したでしょ?

    月の海の話。 月の海はねぇ、ショッパイの!(塩辛い)

    すごーくしょっぱいの!

    あのさ、前、ハワイに行ったときにさぁ、海で泳いでてさ、間違って飲んじゃう事あったけど、あんなのじゃなくて、もうちょっとしょっぱいの」

    「ヘェー、味が違うんだ」

    「うん、そーなの」

    「ヘェー、おもしろいね。 はるは月に行けて、月の海の水、飲めちゃうんだ」

    「うんうん、それでね、なんかね、月に住んでいる人はね、色が変わったりするんだよ」

    「色が変わるの?

    それって体の色?」

    「うん。 いつも見ている月と同じなの。

    あのさ、月っていろいろ色が変わるじゃない。

    その色はねぇ、月の人間たちの色と同じなの。

    オレンジと、白と、黄色かな」

    「ふーん」

    「あ、そうそう、思い出した。

    あのね、月のまん中あるでしょう?

    まんなかね。 まんなかは・・・・、

    なんていうんだっけなぁ・・・・、

    そうだ、いのち! 

    いのちなんだよ。

    自分のいのちだ。

    いのち。

    月たちの、その月の人たちのいのち」

    「いのち?  ふーん」

    「うん、いのちがあって、その月の人たちを守っているの」

    「ふーん。 じゃあさ、地球の真ん中は、何かあるの?」

    「地球の真ん中もいのちがあるんだよ。

    みんなのいのちが。

    人が死ぬでしょ、そうするとそこへ行けるの・・・・、

    なんだっけな・・・・、あ、そうだ、天使がいるんだ・・・・

    あ、そうだ、さっきね、言い忘れたんだけっど、天使のところにはねぇ、天使の『先生』がいるんだよ」

    「へーぇ」

    「天使のところの先生は、いろんなこと教えるの。

    よくねぇ、なんか、よく、役に立つ天使になりたいって、天使の子たちは言っているのね。・・・・

    子供なんだよ、天使って。

    先生は大人なんだけど」

    「ヘェー、はるは天使が大人か子供か分かるの?」

    「うん、あ、もうひとつ言い忘れたけど、天使のところにはね、死んだ人が電話するのね。

    そして、むかえに来てくれるんだよ、天使が。

    だからね、こっちだよって、教えてくれるの」

    「天使が?」

    「うん」

    「はるはさぁ、どうして見えちゃうの?」

    「透明のはるがいるから」

    「それからねぇ、月の海にはねぇ、クジラとかイルカとかいるんだよ。

    クジラはイルカと同じ大きさで、いつも一緒に話ししてんだよ。・・・・

    あ、それからね、イルカとかクジラはねぇ、なんかね、月の人間と同じ・・・・

    色が変わったりするんだよ、海の色といっしょに・・・・」

    「地球の海とちがう?」

    「うん、ぜんぜん違う!」

    「あ! それとねぇ、月の人は死なないんだよ。

    でも地球の人は死ぬことがあるの」

    「うんうん」

    「からだがあるでしょう?

    そのからだの中にね、もうひとつ透明なからだの人がいてね、その人はしなないんだよ。

    でーもねー、お父さんの透明のからだはねー、あんまり出かけたりしてないんだよ、お父さんはいつもネボスケでしょー、そんな感じなんだよ、(家族の中では)はるだけ目を開けているみたいだよ、おとうさんはいつも眠っちゃってるよ」

    「とうめいのお父さん?

    とうめいのおとうさんも、いっしょにネボスケなわけ?」

    「うん・・・・、いつも眠っちゃってるよ」

    「どうやると起きるの?

    オイオイ、ってやると起きるの?」

    「うん、おきない、ぜんぜん起きないの」

    はるは、どうして透明なはるのこと、わかったの?」

    「・・・・、それは、聞いてない・・・・」

    「でも、八ケ岳に行ってから、分かるようになったんでしょ?」

    「うん」

    「いいなあ、はるは。

    透明なはるは、パッとハワイなんかに行けるでしょう?」

    「うん、いけるよ。 

    とうめいなはるがね、すぐにね、天使みたいにね。

    パッと行けるの。

    かべみたいなのは、スッと通り抜けられるし、いきたいところはスグに行けちゃうんだよ、

    なんかロケットみたいにね、すぐに・・・・

    あ! 言い忘れた、

    あのね、月の人間たちはねぇ、ドラえもんのポケットみたいな、バッグもってるんだよ。

    いろんなものが、出て欲しいってお祈りするとその中に用意されているの。

    でも月には、あんまり人がいないんだよなぁ。

    地球みたいに、たくさんの人はいないの。

    だから、なんでもいっぱい作らなくてもいいの。

    それとねぇ、とうめいのはるねぇ、あんまり食欲がないの。

    たべたくないんだよ」

    「そうかぁ。行きたいなぁ、お父さんも月に」

    「いけるといいのにね。

    でもね、お父さん、おこしてもおきないんだもん」

    「ほんとう?」

    「うん、起こすんだけど、起きない。

    いつも起こしてるよ。

    あ、そうそう、月の海はね、病気の人がねぇ、なんか、海に入るとねぇ、良く治るの。

    でも、あんまり入らないんだよなぁ。

    あんまり病気の人がいないの」

    「あのね、月の海にはサメはね、いないんだよ、さかなはいるよ。

    だからねぇ・・・・、東京の海じゃなくてねぇ・・・・、

    なんか海が白いときとか、黄色いときなんてね、キラッてしてねぇ・・・・キレイなんだよ!!」

    その後も、はるのこの能力が消えることはなかった。

    十月に入って、私達は、その日は夕食を外ですることになった。

    長男の史朗が、ちょっと体調がすぐれなかったことと、長女はおなかがすいていなかったので、その子供たちと妻は居残り組となった。

    私は、はると三女の“もも”を連れて、近くの満福飯店という、いつもの行きつけの中華料理屋で食事をした。

    久しぶり、ではなく、よく考えてみると、我が家の家族構成が六人になってから初めての顔ぶれでの外出だった。

    次女も三女も、初めてのパターンになにかワクワクしていて、食事の間も帰りの車の中でもはしゃぎ通しだった。

    私の自動車は、ミニクーパーという小さな車だから、中で騒がれると耳がつんざけるのではないかというくらい、実は辛い。

    でも、あまりに子供達が楽しそうだったので、ま、いいか、いつか静かになってくれるだろう、と腹をすえた。

    そしてひとしきり騒いだら、案の定静かになり、ももはふと後席の窓から夜空を見上げた。

    ほぼ満月の月が出ていたのを見て、お父さん月が出てるよ、と教えてくれた。

    それを聞いて、はるは、

    「お父さん、あのさぁ、はるさぁ、このごろねぇ、あんまり月に行けないの」

    と言い出した。

    私は、どうして?と聞いてみた。

    「あのねぇ、脚の股のところがちょっといたくてねぇ、ヨガのかっこうができないんだよ、

    ほら、こうすると
    (と言ってヨガのポーズをとろうとするが、何故か痛そうであぐらがかけない)、
    イテテテ、ね、出来ないの」という。

    私は、ヨガのポーズが出来ないと、月に行けないの? と聞いてみた。

    「うん、そーなのよ。 あのね、あのかっこうが出来るとね、かんたんにいけるんだよ。

    スッとね。 でーもねぇー、いま、なんだか痛くて出来ないんだなぁ」

    「そうかぁ、残念だね。 でも、ぜんぜんできないの?」

    「うーんとねぇ、そうだな、ちょっとやってみようかな。

    あのね。 もう一つやりかたがあんのね。

    あるんだけど、そっちは、ちょっとむずかしいの。

    でも、ちょっとやってみようか」

    と言って、その場で目をつぶってみた。

    数秒の後、パッと目を開けて、

    「あ、行けたよ。 行けた、行けた。

    出来たよ。

    月に行ったらね、月の人たちがいたよ。

    あの月の色と同じだった」

    といって空を指さした。

    (注 なぜか、はるは、いつも「色」のことを話す。

    月が、白っぽい色だったり、オレンジ色だったり、黄色っぽかったりする、その変化をいつも話す。

    そして月に住む人も、月の海も、そこに住むイルカたちも、月のように色が変化するのだと言っている。

    何故そのようなことを必ず私に話すのか、わからない)

    私は急に、はるの能力を確かめたくなって、それがすぐに分かる方法は、ないかと思った。

    はるを疑うつもりは断じてなかったが、もしかして私は、このことについて、本に書くかもしれないと心のどこかで感じていたので、一つくらい確証があったほうがよいかな、

    逆に、ないと読者は納得しないのでは、などと非常に客観的な気持ちを、ふと持った。

    そこで私が考えたのは、今、妻は何をしているかということを、「透明なはる」に行って見てきてもらうことだった。

    「ねえ、今お母さんは何をしているか、見てこれる?」

    と聞いてみた。

    するとはるは、今まで見たこともないような速い反応を示し、

    「失敗することだってあるんだよ・・・・。

    でも、やってみる」

    と言って、真剣に目をつぶった。

    私は、私の方こそ失敗したと思った。

    こんなことを聞くべきじゃなかったと、少し後悔した。

    私自身は、はるのことをまったく疑っていないのだが、彼女は自分を試しているのだということを敏感に察知したのだろうか。

    悪いことをしてしまったな、と思うやいなや、

    「たぶん、お母さんは・・・・、

    なおと(長女)、なんかテレビかなんか・・・・、

    見てる・・・・と思うけど、多分そうだと思うけど、わかんない」

    と言った。

    私は後悔をしても始まらない、こうなったら、あとはきっちりとこのことを最後まで確かめようと思った。

    自動車の中の時計を見た。

    デジタル時計で六時四十分キッカリだった。

    そして、その七分後の六時四十七分に私たちは、家に着き、自動車の鍵を抜いた。

    家に入り、居間に行くと、なおがテレビの前の床に寝ながら、テレビは見ずに、漫画雑誌を見ていた。

    多分鍵を抜いてから、ここまでは一分、そして真弓は居間にはいず、なおにお母さんの所在を聞くと、二階で、史朗に乳をあげているんじゃないかと思う。

    史朗が泣いていたから、と言った。

    少なくとも、今、そして多分数分前は、二人ともテレビは見ていなかっただろう、そんな雰囲気が部屋を漂っていた。

    でも、七〜八分前は分からない。

    なぜか、がぜん確かめることが、はるに対しての義務のように思えてきた。

    二階の寝室に行くと、ちょっと風邪気味の史朗は真弓の乳首をくわえながら半分寝かかっていた。

    私は今は聞けないと思い、真弓が階下に降りてくるのを待つことにした。

    十分ほどして、真弓は史朗をねかしつけて居間に降りてきた。

    私は、すぐさま事の経緯を話し、真弓の六時四十分の「アリバイ」を聞いてみた。

    すると彼女は、出来る限りの当時の情景を思いだそうと天井に視線を移した。

    「うーんと、たしかね、六時からね、ニュースを見るのでテレビをつけてね、でも、その後すぐに三チャンネルに変えて、六時半まで「天才テレビ君」を見て、それが終わって、それからまた、ニュースに戻して、しばらくなおとニュースを見ていて、

    史朗が泣いたので、二階に行ったのは、晴之たちが帰ってくるほんのちょっと前だから、そう、だから、その時間は、確かになおとテレビ見てたよ」

    と言った。

    はるの言葉は当たっていた。

    親の対応。

    以上は私の1994年の日記からの引用です。

    私には、前述の、はるの「月の状態」などの話の真偽を確かめる術(すべ)がありません。

    信じるも、信じないも、あくまでフィルティー・フィフティーということに、現時点ではなると思います。

    私は自分の娘の言葉を弁護するつもりもありませんし、読者の皆さんに信じてください、というつもりもありません。

    ただ、その後も何度かこのような会話があったのですが、その度に彼女の話はいつもディーティールを含めて変わることはなかったことを、ここに記しておきます。

    私は親として、はるを疑うこともしなかった代わりに、ことさらに肯定もしませんでした。

    ここで私が言いたいことは、我が家では、子供達の言動に対して、親の一方的な考え方を押しつけることはしなかったことです。

    それはたとえば、こういった出来事があったときでも

    「なにをオバカなことを言ってんの」

    という態度では、接しなかったことです。

    そしていつもの日常的な話をしているときと同じように、あくまでもニュートラルな態度で接しました。

    なぜならば、べつに彼女の立場として、嘘を言わなければならなかったり、

    「ウケを狙わなければならない」

    理由などまったくなかったからです。

    兄弟姉妹の間でライバル意識を持っていたわけではありませんでしたし、鬱積した何かがあるわけでもありませんでした。

    私たち夫婦は、こうした親側のニュートラルな態度は大事なことだと認識しています。

    「そんなバカな」

    と言っただけで、貝が危険を回避するために硬く蓋をとざすように、子供達は口を塞いでしまうでしょう。

    口を塞ぐばかりでなく、思考回路も閉じてしまうことがあるかもしれません。

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