本文へスキップ

フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

「天」太陽の投稿記事

『終末と太陽の検証』

諸世紀情報 NO 410008


MFコメント 2008/06/26

「2012年地球崩壊の驚愕大予言」の「ノストラダ ムスの最後を迎えた家の地下室の壁の中に塗り固めて あった」と云う予言の原本が欲しいと、その情報の出自を探している。
この本の著者の名前は無い。
あるとすれば、「歴史予言検証会」と称する集まりのようである。 この「歴史予言検証会」の正体は 調べているが、現時点では 不明である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも =1=の様に、その記述は無い。
ウィキペディアでは ノストラダムスの偽物たちの紹 介もあるが、死の床で残した数十編の予言詩に関する 説明もない。
私としては この原本の全てを見たいと思っている が、現段階では 「歴史予言検証会」という組織その ものの正体が分からないので、本を売るために作た 「ゴ−ストの組織」ではないかとすら思い始めている。
この書籍で取り上げているのが、数十編あると主張し ている内容の6編程度しか取り上げていない。
常識的には 数十編と書けば、少なくとも20〜30 編くらいは最低でもあると受け取れるので、6編以外 の予言詩を知らないと、「死の床で残した数十編の予 言詩のシナリオ・構造」を読み解くことが不正確ということになる。
ノストラダムスおたくの様なHPを見てみたが、これ らの「死の床で残した数十編の予言詩」についての記 述が見られない。
もう少し追跡してみたいと思っている。
皆さんが情報をお持ちであったなら、教えて欲しい。

===1==================
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%
E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9
ノストラダムス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
ミシェル・ド・ノートルダム
Michel de Nostredame

ノストラダムスの肖像画(1614年頃)
ペンネーム ノストラダムス
Nostradamus
誕生 1503年12月14日
プロヴァンス
死没 1566年7月2日(満62歳没)

職業 医師、占星術師、詩人、料理研究家
国籍 フランス
ジャンル 詩、予言
配偶者 アンリエット・ダンコス
アンヌ・ポンサルド
子供 マドレーヌ・ド・ノートルダム
セザール・ド・ノートルダム
シャルル・ド・ノートルダム
アンドレ・ド・ノートルダム
アンヌ・ド・ノートルダム
ディアーヌ・ド・ノートルダム
親族 レニエール(ルネ)・ド・サン=レミ
ジョーム・ド・ノートルダム
影響を与えたもの[表示]
ピエール・チュレル
ジロラモ・サヴォナローラ
ピエール・チュレル
リシャール・ルーサ
表・話・編・歴
ノストラダムス(Nostradamus, 1503年12月14日 -
1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、西
洋占星術師[1]、詩人。
また料理研究の著作も著している。
日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる
詩集を著した。
彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出
し、様々な論争を引き起こしてきた。
本名はミシェル・ド・ノートルダム(Michel de
Nostredame)で、よく知られるノストラダムス(ミシ
ェル・ノストラダムス)の名は、姓をラテン語風に綴
ったものである。
しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記
されることもあるが、後述するように適切なものでは
ない。

目次 [非表示]
1 概要
2 出自
3 生涯
3.1 少年時代および遊学期
3.2 博士号取得とアジャンでの日々
3.3 医師としての活動
3.4 予言者としての成功
3.5 晩年
4 著作
5 学術的な検証
6 予言の典拠
6.1 占星術について
6.2 歴史関連の参考文献
6.3 予言関連の参考文献
6.4 他の参考文献
7 関連年表
7.1 ノストラダムスの存命中の関連年表
7.2 没後の関連年表
8 名前の表記について
9 信仰について
10 ノストラダムスの肖像画
11 脚注
12 関連項目
13 参考文献
14 外部リンク

[編集] 概要
ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年に
プロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で
教養科目を、モンペリエ大学で医学を、それぞれ学ん
だ。
南仏でのペスト流行時には、積極的に治療にあたり、
後年その時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム
論』などを著した。
他方で、1550年頃から占星術師としての著述活動も始
め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』
などを著し、当時大いにもてはやされた。
王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者の中
にも彼の予言を評価する者たちが現れ、1564年には、
国王シャルル9世から「常任侍医兼顧問」に任命され
た。
その2年後、病気により63歳で没した。
彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・
ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』とい
う名称も流布しているが、適切なものではない)。
そこに収められた四行詩による予言は非常に晦渋(か
いじゅう)なため、後世様々に解釈され、その「的中
例」が喧伝されてきた。
あわせて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説
が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちによ
り「大予言者ノストラダムス」が祭り上げられること
となった(「ノストラダムス現象」も参照のこと)。
これに対する学術的な検証は、長らくほとんど行われ
てこなかったが、現在では、伝説を極力排除した彼の
生涯や、彼が予言観や未来観を形成する上で強い影響
を受けたと考えられる文献なども、徐々に明らかにな
っている。
そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の
人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の
作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつ
ある。

[編集] 出自
−−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムス一族の主要人物も参照。

ノストラダムスの父方の先祖は、14世紀末以降、アヴ
ィニョンで商業を営んでいた。
父方の祖父がアンジュー公ルネに仕えた医師・占星術
師だったとするのは、ノストラダムスの弟や長男によ
る粉飾であり、彼も実際には商人であった。
彼の一族を更に遡れば、失われた十支族のイッサカル
族に辿り着くといった話もあるが、これもまた創作で
ある。
父方の曾祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレ
カは、15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗し
た。
改宗した後、クレカは三度目の結婚相手の姓をもと
に、ペイロ・ド・サント=マリーあるいはピエール・
ド・ノートルダムと改名した。
サント=マリーは妻の正式な姓であり、ノートルダム
は妻の通称的な姓であったが、どちらも聖母マリアを
意味する。
祖父は改名後、理由は不明ながら後者の姓をより多く
用いるようになり、それが息子や孫(ノストラダム
ス)にも引き継がれた。
ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョー
ム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンで活動
する商人だったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス
(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエー
ルと結婚した後、サン=レミに居を移した[2]。
出自についての補足事項として、後段の「信仰につい
て」も参照.

[編集] 生涯
下掲の関連年表も参照。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
サン=レミのノストラダムスが生まれたとされる一角
[編集] 少年時代および遊学期
ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時ま
だフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァン
ス地方のサン=レミで生まれた[3]。
幼い頃には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教
育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学な
いし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カ
バラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも
言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が
高いため[4]、
彼が教育を施したとは考えられない。
父方ないし母方の祖父が教育係とされることもある
が、どちらも15世紀中に没しているので問題外である
(これらは公文書類で確認できる)。
結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を
受けていたかは、明らかになっていない。
ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニ
ョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。
この点は実証的な伝記研究でも確実視されているもの
の[5]、
史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。
在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球
の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如
くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体
の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はある
が、裏付けとなる史料はなく、創作と思われる。
このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀な
くされたと推測されている。
ペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏
の大学の講義が停止されたからである[6]。
このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬
草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本
人が語ったこととも矛盾しない[7]。
他方で、遍歴に先立って、ノストラダムスがモンペリ
エ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もある
が、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。
この説は、後にノストラダムスの秘書になったジャン
=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料によ
る確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、
医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算してい
ることとも整合していない[8]。
史料的に裏付けられる同大学入学は遍歴の後である。

[編集] 博士号取得とアジャンでの日々
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
現在のモンペリエ大学医学部1521年からの約8年にわた
る遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモ
ンペリエ大学医学部に入学した。
この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであ
り、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされ
る。
ただし、記録は確認されておらず、むしろ、当時の学
生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があ
り、この傍には、在学中に医師たちを悪く言ったかど
で告発された旨の記述がある [9]。
なお、この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請
われて同大学の教授として教鞭を執ったが、保守的な
教授たちとの軋轢が生まれ、1年で職を辞することとな
ったというものがある。
しかし、これを裏付ける史料は見つかっていない。
従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後
に、エラスムスに比肩しうる学者として知られてい
た、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招
きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへ
と移住した[10]。
彼はアジャンで開業医として医療に携わる傍ら、博識
のスカリジェから多くを学んだらしい。
また、1531年にアジャンのアンリエット・ダンコスと
結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書か
ら窺える。
この発見によって、従来謎だった最初の妻の名前も明
らかになったが[11]、
慎重な見方をする論者もいる [12]。
実際のところ、この時期既にアジャンにいたのだとす
れば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したと
された通説との間に、齟齬を来すことになる。
結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、
アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供[13]をもうけ
たことは、確実視されている。
しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようであ
る。
この死因にはペストが有力視されているが、実態は全
く不明である[14]。
この後に妻の実家から持参金などをめぐって訴訟を起
こされたという話もあるが、これも定かではない
[15]。
同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェと
の仲も険悪なものになっていった[16]。
さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から
召喚を受けたようである[17]。
この理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたとい
う程度にしか分かっていない[18]。
怠惰な姿勢でマリア像を作っていた職人に、不用意に
投げかけた言葉が逆恨みを招いたからと説明されるこ
ともあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが言い出
した根拠のない話のようである[19]。
このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが
召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累
が及んだとする説もある[20]。
ともあれこうした諸状況の悪化が、ノストラダムスに
再度の遍歴を決心させたとされるが、上述の通り裏付
けとなる史料に乏しく、詳細は不明である。
ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそ
れが一因となって旅に出たらしいことは確実視されて
いる。
実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶
える[21]。

[編集] 医師としての活動
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
当時の医師たちのペスト治療時の服装。ノストラダム
スがこのような格好をしていたかは定かではないが、
可能性は指摘されている。
ノストラダムスが晩年を過ごした家 星を見るノストラ
ダムス
アンリ2世の死と結びつけられる百詩篇第1巻35番
(1656年版)。
解釈に都合良く原文が改竄されている。
長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセ
イユの医師ルイ・セールに師事したとされ[22]、翌年
には3人の囚人の診察をした記録がある[23]。
そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流
行した時には、治療のために同市へ赴いた。
伝説では、この時にノストラダムスは、鼠がペストを
媒介することを見抜き、鼠退治を命じたという。
また、アルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのよ
うに、酒や熱湯で住居や通りを清め、更にはキリスト
教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。
しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム
論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識
の範囲を超えるものはないため、殺菌消毒をはじめと
する一連のエピソードは悉く創作であると思われる
[24]。
『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の
処方も載っているが、その効能は疑問視されている。
結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化の因果関
係は不明瞭なままである。
現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みす
る傾向の強かったペストの流行地に、果敢に乗り込ん
で治療に尽力した人物ということだけであり、その実
効性を評価しうるだけの材料には乏しい。
その後、ノストラダムスはプロヴァンス州サロン・
ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に落ち着
き、1547年11月11日にこの地で未亡人アンヌ・ポンサ
ルドと再婚した。
ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1
年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。
最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行
であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴ
ァ、サヴォーナなどを回ったらしいことが窺える
[25]。
この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」
が有名である。
ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団
に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しくひざま
ずいた上で、その修道士が将来ローマ教皇となること
を示唆したために、周囲の失笑を買ったという。
しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノ
ストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世と
して即位し、予言の正しさが証明されたのだという。
この出会いにも裏付けはなく、後世の創作と思われ
る。

[編集] 予言者としての成功
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士と
して、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河
の建設に出資したりするようになる[26]。
こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書
(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者として
の著述活動も本格化させていく。
暦書は大変評判になり、その成功に押されたのか、ノ
ストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作
『予言集』の執筆に着手する(ノストラダムスが『予
言集』をどのような意図で出版したのかははっきりし
ていないが、この点を考える一助として、後段の予言
の典拠も参照)。
1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダム
ス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なも
の(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼
び起こしたとされる[27]。
そのわずか2ヶ月ほど後に当たる1555年7月に、国王ア
ンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受
けた。
『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされる
ことが多いが[28]、暦書の評判に基づくものであっ
て、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘
もある[29]。
翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだ
が、会見内容は不明である。
カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的
に呼んで子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御
子息はみな王になるという答えを得たという。
四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、
「御子息から四人の王が生まれる」という予言だった
とする説もある。
この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーラ
ンド王となっていたため、正確な予言だったことにな
る。
しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエ
リが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノス
トラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言
の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」
という予言は確認が取れていない[30]。
この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰
されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容
を伝える史料は存在していない。
1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリ
ザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行
われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴム
リ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没
した。
現代には、しばしばこれがノストラダムスの予言通り
だったとして大いに話題になったとされるが、現在的
中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には
17世紀に入ってからのことであった[31]。
ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃へ
の献呈文をそれぞれ作成し、1557年向けの暦書に収録
したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年
を「世界的な平和 (la paix universelle)」の年と予
言している。
このため、果たして1559年の悲劇を見通していたかは
疑問である(この予言は同じ年のカトー・カンブレジ
条約になら当てはまる、とする指摘もある)。

[編集] 晩年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱
で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの
予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていた
という。
実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラ
ダムスの名声は更に高まったようである。
このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリ
ャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの
外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられ
る[32]。
なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族など
の有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたこ
とが、現存する往復書簡からは明らかになっている。
事実、1564年に依頼に応じて作成した、神聖ローマ皇
帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現
存している。
ただし、その予言の的中度、信頼度という点では、必
ずしも芳しい評価ばかりではなかったようである。
もちろん、カトリーヌのようにノストラダムスに心酔
していた人物はいた。
彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわ
りしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アル
バの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄している
くだりを見いだすことができる[33]。
しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中で
は、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにし
ばしば苦情も出されていたことが明らかになっている
[34]。
なお、1559年の処方箋も現存しており、医師としての
活動も継続していたことが窺える。
ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル
9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、
1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街
を訪れた。
この時シャルルは、ノストラダムスに会うためだけに
立ち寄った、と語ったという。
カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及し
ているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっ
ている。
それによればノストラダムスは、モンモランシー公が
90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生
きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳
で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳
で没したことで外れた)[35]。
他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行して
いた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、
その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲
を当惑させたというエピソードもある。
この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世と
してフランス王位に就くことになった。
このエピソードはパリ市民ピエール・ド・レトワルの
日記(1589年)に見出すことができ[36]、史実かどう
かはともかく、当時の人々に知られたものであったよ
うである。
さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留
した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医
兼顧問」の称号を下賜したようである[37]。
なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが
宮廷に出仕したわけではない。
また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これ
が唯一である。
後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エ
メ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2
世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介してい
たこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮
廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、
事実に反する。

現存するノストラダムスの墓銘碑(1813年)その後の
ノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる
症状に苦しめられていたようである。
そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼ん
で遺言書を作成した。
7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きてい
る私を見ることはないだろう」と語ったとされる
[38]。
ノストラダムスは予兆詩で寝台と長椅子の間で死ぬこ
とを予言しており、翌朝予言通りに寝台と長椅子の間
で倒れているのが発見されたというエピソードが有名
である。
しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつ
けたシャヴィニーは、寝台と長椅子の間で倒れていた
などとは述べておらず、ノストラダムスの死を発見し
た長男セザールもそのようなことは語っていないた
め、後代の創作であると考えられる[39]。

[編集] 著作
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
化粧品とジャム論
1555年向けの占筮
現存最古の『予言集』完全版ノストラダムスは私信を
ラテン語で執筆しているので、当然ラテン語に通じて
いたはずだが、ドイツ語訳された瓦版を除けば著作は
全てフランス語であり、ラテン語で執筆したものはな
い。

『オルス・アポロ』
ホラポロのヒエログリフに関する著書を翻訳した1540
年代の手稿。
1967年に発見され、翌年公刊された。当時数多く作成
されたホラポロの訳書の一つだが、韻文形式で訳すと
いう他に例のない手法を取り入れているため、ホラポ
ロの研究者からも注目されたことがある[40]。
暦書類
1550年向けから1567年向けまで、1551年向けを除き毎
年刊行された翌年1年間を予測した著書。
韜晦的な内容ではあったが、非常によく売れたようで
あり、占星術師ノストラダムスの存命中の名声は、主
としてこの一連の著作によって確立された。
『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で
多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』(1554
年)
1554年のこの日に見られた流星についてクロード・
ド・タンド伯に報告した書簡(1554年3月19日付)をド
イツ語訳したという瓦版。オリジナルのフランス語ま
たはラテン語の書簡は未発見だが、真筆と見なされて
いる。
現存が確認できるノストラダムスの出版物としては最
古だが、1556年頃の刊行と推測する者もいる。
『化粧品とジャム論』(初版1555年)
医師・料理研究家としての著作。2部構成になってお
り、前半で様々な薬品類の処方を説明し、後半で菓子
類のレシピを紹介している。
後半はフランス人による最初のジャムの製法指南書と
される。
第一部には恐らくは倫理上の問題から早々と削除され
た章があるものの、1572年までに少なくとも7版を数
え、他にドイツ語訳版も3版刊行される人気作となっ
た。
『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(初版1555
年)
3797年までの予言を収めたと称する、ノストラダムス
の主著。
現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩
句・散文は、基本的にこの著作のものである。
本来は「百詩篇集」と呼ばれる四行詩と散文体の序文
からなる著書であったが、17世紀に「予兆詩集」「六
行詩集」が追加された。
『ガレノスの釈義』(初版1557年)
正確には『メノドトゥスによる人文科学研究ならびに
医学研究への勧告に関するガレノスの釈義
Paraphrase de C. Galen, sur L'exhortation de Menodote, aux etudes des bonnes Arts, memement
Medicine』。
ガレノスの著書をフランス語で翻案したもの。
これも医師としての著作と言えるが、内容的には、医
学的というより哲学的であるとも指摘されている
[41]。
『王太后への書簡』(1566年)
王太后(国王の母后)、すなわちカトリーヌ・ド・メ
ディシスに捧げられた1565年12月22日付の書簡。占星
術師の立場からカトリーヌに助言を行うものとなって
いる。
内容はわずか3ページであり、分量的には暦書類で有力
者たちに捧げられていた献呈文と大差がない。
『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』(執筆
時期未詳)
現存しない草稿。シャヴィニーが言及しているほか
[42]、ノストラダムス自身が私信の中でその要約版の
手稿について言及している[43]。

[編集] 学術的な検証
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムスを大予言者と位置づける立場からの
「ノストラダムス現象」の広まりに比べて、歴史学、
文学、書誌学といった領域からの研究は長い間非常に
限定的なものでしかなかった。
しかし、20世紀半ば以降、主として英語文献と仏語文
献では、専門的な研究も着実に蓄積されてきている
[44]。
グラヌムの死者記念塔。ノストラダムスの詩にも何度
か登場する。
ノストラダムス本人や先祖の伝記については、20世紀
半ばにエドガール・ルロワやウジェーヌ・レーが古記
録を丹念に調査し、実証度を飛躍的に高めた[45]。
この結果、伝説的な要素はかなりの程度排除できるよ
うになった。
レーはノストラダムスの往復書簡についても抄録の形
ながら紹介を行い、この面でも実証的な伝記の形成に
貢献した[46]。
また、ルロワも古文書での実証だけでなく、地元サン
=レミの精神科医という利点を活かし、ノストラダム
スの詩篇には、幼年期の記憶、すなわちサン=レミの
景色や近隣のグラヌムの遺跡と一致するモチーフが存
在することを初めて指摘した。
書誌研究の分野では、ミシェル・ショマラとロベー
ル・ブナズラが、1989年と1990年に相次いで記念碑的
な書誌研究を発表している[47]。
前者の研究対象は18世紀までの文献ではあるが、フラ
ンス語文献に留まらず英語、イタリア語、ドイツ語、
オランダ語などの文献も幅広く網羅した労作である。
後者の研究は基本的にフランス語文献に限定されたも
のであるが、対象時期は1989年までと幅広く、また重
要な文献については詳細な分析を付加している点にも
意義がある。
『予言集』の原文校訂および分析に関しては、多少粗
い形とはいえ包括的な分析を行ったエドガー・レオニ
の先駆的研究(1961年)[48]のほか、『予言集』初版
収録分を主たる対象とするものであるが、ピエール・
ブランダムール(1993年、1996年)、アンナ・カール
ステット(2005年)などの研究がある[49]。
ブランダムールは、予言詩のモチーフに、ルーサや
『ミラビリス・リベル』といった同時代の予言的言説
や様々な西洋古典からの借用が含まれていることを指
摘したほか、同時代の事件や風聞に題材を採ったと思
われる詩があることを示すなど[50]、16世紀フランス
史の文脈から手堅い研究を展開した(後述)。
他方、カールステットは、モチーフの分析もさること
ながら、モーリス・セーヴら同時代の詩人との文体の
比較を丁寧に行うことで、内容分析に比べて十分な蓄
積がなされてこなかった文体論研究の分野にも貢献し
ている。

[編集] 予言の典拠
−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここでは、彼が『予言集』、暦書類、顧客への私信な
どで予言を行う際に、何に基づいていたのかを、現在
までの研究で明らかになっている範囲で扱う。
なお、暦書類や私信よりも『予言集』の方が研究の蓄
積が大きいため、例示は『予言集』のものが多くな
る。
この点については有名な予言詩の例も参照のこと。

[編集] 占星術について
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムスは、『予言集』や暦書類での予言の基
礎を、判断占星術(Astrologie judiciaire, 予期され
る未来の発展の「質」の占星術的な評価)に置いてい
る、と主張していた[51]。
しかし、彼の占星術は、ローラン・ヴィデルのような
同時代の占星術師からは、彼の星位図作成上の問題
(後述)や、過去の星位と未来のそれを比較すること
で未来を予言しうると仮定していることなどを、強く
批判された。
また、彼の占星術のオリジナリティには疑問が呈され
ている。
少なくとも、リシャール・ルーサの『諸時代の状態と
変転の書』(1550年)が主要な参照元であったことは
確実である。
これは、同書からほとんどそのまま引用している箇所
が少なくないことからも明らかである。
さらに、彼が顧客向けに手ずから作成したホロスコー
プ(出生星位図)にしても、既に公刊されていた他の
占星術師の星位図を下敷きにしたものであり、自身で
星位の計算を行っていたわけではないようである。こ
のため、オリジナルからの誤写も指摘されている。
なお、文献の性質上、暦書については星位やその影響
に関する叙述が多いものの、『予言集』では、占星術
的な言及はそれほど多くない。
「第二序文」では相対的に記述量が多いが、「第一序
文」では12回、940篇以上の四行詩から成る「百詩篇
集」自体でも41回言及されているに過ぎない。

[編集] 歴史関連の参考文献
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
実証的な研究の蓄積は、『予言集』や暦書類といった
彼の予言作品が、古代の終末論的預言(主たる基盤は
聖書)を敷衍したものであると示唆している。
彼は、これに、前兆に関する記録や過去の歴史的事件
などを加味した上で、星位の比較も一助として、未来
を投影したのである。
例えば、彼の予言には「空での戦闘」や「太陽が2つ現
れる」といった記述がある。
信奉者は、それらを現代ないし近未来の戦争や核爆発
の描写と解釈するが、こうした現象は、当時の「驚
異」(prodige) としてはありふれた言説であった(当
時の人々がそれらをありうる、または実際に見聞した
と認識していたことと、実際にそれらが起こったかは
当然別問題である)。
当時の人々はそうした「驚異」を何らかの変事の前兆
と捉えていたのであり、ノストラダムスの予言には、
当時の風聞やユリウス・オブセクエンスの『驚異の
書』に基づく形で、そうした「驚異」が多く反映され
ている。
また、彼の予言に反映されている歴史的題材の分かり
やすい例としては、スッラ、マリウス、ネロ、ハンニ
バルといった古代の人名が織り込まれている詩や散文
の存在を挙げることができる。
こうした歴史関係の叙述にあたっては、ティトゥス・
リウィウス、スエトニウス、プルタルコスら古代の歴
史家たち、及びヴィルアルドゥアンやフロワサールら
中世の年代記作家たちの作品が参照されている。
このことは、それらからの引用句を容易に同定できる
ことから明らかである。

[編集] 予言関連の参考文献
−−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムスの予言は、独自に組み上げられたもの
だけではなく、先行する予言関連の著書からの借用も
含まれていることが指摘されている。
そうした彼の予言的な参考文献の中で最も重要なもの
は、疑いなく『ミラビリス・リベル』(1522年に出さ
れた編者不明の予言集)である。
同書にはジロラモ・サヴォナローラの『天啓大要』の
抜粋が含まれており、『予言集』第一序文には、そこ
からの引用が少なくない。[52]
『ミラビリス・リベル』は1520年代に6版を重ねたが、
その影響は持続しなかった。
一因としては、ラテン語で書かれた第一部の分量が多
く、かつ読み辛い古書体で印刷されていたことや、難
解な省略が多かったことなどが挙げられる。
ノストラダムスは、この書を最初にフランス語で敷衍
した一人と言える[53]。
『百詩篇集』第1巻1番(マセ・ボノム、1555年)さら
に異なる引用元として、クリニトゥスの『栄えある学
識について』を挙げることができる。
ここには、ミカエル・プセルロスの『悪魔論』や、4世
紀の新プラトン主義者ヤンブリコスがカルデアやアッ
シリアの魔術について纏めた『エジプト秘儀論』から
の抜粋を含んでいる。
「百詩篇集」の最初の2篇は、それらの翻案である
[54]。
なお、彼の引用や借用については、当時と現在とで著
作権の概念が異なる点に留意する必要がある。
当時は謝辞や断り書きなしに、他の著者の作品からの
借用を行うことは珍しくなかったのである。

[編集] 他の参考文献
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムスは、第一序文で、自身の神秘学系の蔵
書を焼却したと語っている。
これが事実だとしても、火にくべられた書物が何であ
ったかは特定されていない。
とはいえ、彼の蔵書の追跡調査も、1980年代以降行わ
れており、その結果、彼の蔵書には、スコットランド
の神学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス、イスラム
世界の占星術師アルカビティウス、パドヴァ大学の医
学者コンファロニエリらの著書や、トマス・モアの
『ユートピア』が含まれていたことが明らかになって
いる。[55]
こうした出典の研究が進んだことで、かつて言われて
いたように、ノストラダムスが予言の際に何らかの魔
術的な儀式を行ったり、トランス状態に陥ったりした
かどうかは疑問視されている。
「百詩篇集」の最初の2篇には儀式的なことが書かれて
いるが、既に見たように、これは他の文献からの翻案
であり、本人の行動と一致するとは限らない。
また、顧客向けの私信に儀式を行ったように書いてい
るものもあるが、神秘化の一環として誇張している可
能性もある。
他方で、これをもって彼の詩が「予言詩」(「預言
詩」)でない、と言い切ることには慎重さが求められ
る。当時の詩人にとって「詩を作ること」と「預言を
すること」とが近しいものと捉えられていた点には、
留意が必要だからである[56]。
そして、カールステットはまさにこの点において、ノ
ストラダムスがプレイヤード派に影響を及ぼした可能
性をも示唆している[57]。

[編集] 関連年表
−−−−−−−−−−−−−−−−−
以下では、裏付けの取れるものを中心にとりあげた。

[編集] ノストラダムスの存命中の関連年表
−−−−−−−−−−−−−−−−
1503年12月14日(木曜日) - 誕生。
1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだと
される
1520年 - 学業を中断したと推測されている。
1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の
収集につとめる(- 1529年)
1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学
1531年 - アジャンでアンリエット・ダンコス
(Henriette d'Encosse)と最初の結婚。
1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペストで失う。
以降放浪したとされる。
1545年前後? - 手稿『オルス・アポロ』を執筆。
1546年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療
に当たる。
1547年 ? サロン・ド・クローに転居。以降、定住。
1547年11月11日 - アンヌ・ポンサルド(Anne
Ponsarde)と再婚。
1549年頃 - 1550年向けの暦書類を刊行する。以降、
1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。
この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の
名を用いたとされる。
1551年頃 - 長女マドレーヌ誕生。
1553年11月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組
んだ業者とトラブルになる[58]。
1553年12月18日 - 長男セザール誕生。
1554年 - 『3月10日の7時から8時の間にフランス・サ
ロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光
景』がニュルンベルクで出版される。
1555年 - 『化粧品とジャム論』の初版を刊行する。
1555年5月4日 ? 『ミシェル・ノストラダムス師の予言
集』の初版を刊行する。
1555年8月 - 国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メ
ディシスに謁見。
1556年頃 - 次男シャルル誕生。
1556年 - アントワーヌ・クイヤールが『ル・パヴィヨ
ン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言
集』のパロディであり、最初の風刺文書である。
1557年 - 『ガレノスの釈義』初版を刊行する(翌年に
は再版される)
1557年9月6日 - 『予言集』の増補版を刊行する。
1557年11月3日 - 三男アンドレ誕生。
1557年11月3日 - 『予言集』増補版の粗雑なコピーが
刊行される。
1557年頃 - イタリア語訳版の暦書が刊行される。初の
イタリア語訳版。
1557年 - 『ノストラダムスに対するエルキュール・
ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この
頃からノストラダムスを非難する文書が複数刊行され
る。
1558年 - 『予言集』の完全版が出されたという説もあ
る。

ノストラダムスへの批判書の一つ(1558年)1558年 -
『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が
再版される(タイトルが「モンストラダムスに対す
る」になる)。同じ年にジャン・ド・ラ・ダグニエー
ル、ローラン・ヴィデルらも中傷文書を刊行した。
1559年 - 英訳版の暦書類が刊行される。初の英訳
版。
1559年7月10日 - アンリ2世が没する。ノストラダムス
はこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧伝さ
れていた詩(百詩篇第三巻55番)は、現在結び付けら
れている詩(百詩篇第一巻35番)とは別の詩である。
1559年12月15日 - 次女アンヌ誕生。
1560年 - ロンサールが『ギヨーム・デ・ゾーテルへの
エレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込
む。
1561年 - 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちの
ジャン=エメ・ド・シャヴィニー)を秘書として雇
う。
1561年 ? 三女ディアーヌ誕生。
1561年頃 - パリで『予言集』の海賊版が刊行される。
この版を刊行した業者バルブ・ルニョーは、前後する
時期に、暦書の偽版2種類と海賊版と思しき版1種類も
刊行している。
1563年頃 - この頃から「ミシェル・ド・ノストラダム
ス Michel de Nostrdamus, Mi. de Nostradamus」と名
乗る偽者が著作を発表し始める
1564年10月17日 - フランス全土を巡幸していた国王シ
ャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサロン
を訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスはア
ルルで、「常任侍医兼顧問 Conseiller et Medecin
ordinaire au Roy」の称号を受けたとされる。
1566年 - 『王太后への書簡』を刊行する。
1566年 - オランダ語訳版の暦書が刊行される。初の、
そして唯一のオランダ語訳版。
1566年6月17日 - 公証人を呼んで遺言書を口述(6月30
日に追補)。
1566年7月1日 - 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)が
ノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたとさ
れる。
1566年7月2日未明 - 長男セザールによってノストラダ
ムスの死が確認される。

[編集] 没後の関連年表
1568年 - 現存最古の『予言集』完全版が刊行され
る。
1570年頃 - この頃から偽者アントワーヌ・クレスパ
ン・ノストラダムスが著作を発表し始める。
1572年 - ドイツ語訳版の『化粧品とジャム論』が刊行
される。この版は1573年と1589年にも再版された。
1589年 - シャヴィニーが手稿『ミシェル・ド・ノート
ルダム師の散文体の予兆集成』を作成。これにより、
暦書類の内容がかなりの程度保存された。
1590年 - アントワープで『予言集』が出版される。フ
ランス以外で刊行された初めての版(対訳等はな
し)。

シャヴィニーによる最初の伝記(1594年)
『予言集』偽1568年版(1649年頃)1594年 - シャヴィ
ニーが『フランスのヤヌスの第一の顔』を出版する。
これは、ノストラダムス予言の最初の解釈本に当た
る。また、冒頭の伝記は最初の伝記といえるが、誤り
が少なくない。
1605年 - 1605年版『予言集』が刊行される。「予兆
集」「六行詩集」が初めて組み込まれた版。
1614年 - 長男セザールが『プロヴァンスの歴史と年代
記』を出版する。父ノストラダムスにも言及しており
伝記的証言として重要だが、明らかな粉飾も含む。
1649年頃 - フロンドの乱の影響で、ジュール・マザラ
ンを貶めるための偽の詩篇を加えた偽「1568年リヨン
版」『予言集』が刊行される。この時期は、ノストラ
ダムスを主題とするマザリナードも多く刊行された。
1672年 - テオフィル・ド・ガランシエールによる英訳
と解釈が収録された『予言集』が出版される。初の翻
訳された版。
1789年 - フランス革命が始まる。それから10年ほどの
間に10種以上の『予言集』の版と夥しい数の関連パン
フレットが刊行された。なお、『予言集』の中には10
篇ほどの詩を偽の詩に差し替えた版もあった。
1791年 - ノストラダムスの墓が荒らされる。その後、
遺体はサロン市のサン=ローラン教会の聖処女礼拝堂
に安置し直された。
1813年7月 - 新たな墓所に墓銘碑が飾られる。現存す
る墓銘碑はこの時のものである。
1939年 - 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよ
い解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布し
た。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発
禁処分にしたという[59]。このほか、特にアメリカで
は、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。
1966年12月 - パリのオークションに『1562年向けの暦
書』の異本の手稿が現れる(暦書類で存在が知られて
いる唯一の手稿)。現在の所有者は未詳である。
1967年 - フランス国立図書館で手稿『オルス・アポ
ロ』が発見される。
1973年11月 - 五島勉の『ノストラダムスの大予言』が
刊行される。刊行から3か月余りで公称100万部を突破
するベストセラーとなり、日本における最初のノスト
ラダムスブームが起きる。
1980年 - フランスでジャン=シャルル・ド・フォンブ
リュヌが『歴史家にして予言者ノストラダムス』を刊
行する。フランスでベストセラーになり、他国語版も
相次いで出版された(ほとんど話題にならなかったも
のの、日本語版も存在した)。
1982年 - ウィーンのオーストリア国立図書館で『予言
集』初版が発見される。初版本は1931年6月17日のオー
クションで現れたのを最後に所在不明となっていた。
1983年 - アルビ市立図書館でも『予言集』初版が発見
される。
1983年 - フランスでノストラダムス協会が創設され
る。
1991年 - 日本では湾岸戦争にあわせ、ノストラダムス
関連書が急増し、その年のベストセラーランキングに
登場するものも出た。
1992年 - サロン市にノストラダムス記念館 (la
Musee de "La Maison de Nostradamus") が開設され
る。これは、彼が晩年を過ごした家を改築したもので
ある。設立当初は私設だったが、1997年からは公立博
物館となっている。
1996年 - オランダのユトレヒト大学図書館で1557年版
の『予言集』が確認される(2006年現在で現存はこの
一例のみである)。
1999年 - 日本ではノストラダムス関連書が急増し、関
連商品なども(単なるジョークも含め)多く発売され
た。ただし、1999年を境に日本のノストラダムス関連
書はほぼゼロと言ってよい水準に落ち込む(2001年を
除く)。これは、アメリカ、フランス、ドイツなどと
比べて落差が最も顕著である。
2001年 - アメリカ同時多発テロ事件。アメリカ、フラ
ンス、日本などでこれに便乗した解釈本が何冊も出さ
れた。また、インターネット上でノストラダムスの詩
と称する偽物が出回った。
2003年 - ノストラダムスの生誕500周年。サロン=ド
=プロヴァンスでは記念の展覧会が開催された。これ
に合わせて、サロン市の市長が序文を寄せる形でカタ
ログが出版された。

[編集] 名前の表記について
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ミシェル・ド・ノートルダムが本格的な著述活動に入
るのは1550年頃からであり、ミシェル・ノストラダム
スというラテン語風の表記をまじえた筆名を用いるの
はこの頃以降のことであったとみなされている。
公刊されたものとして現在確認できる最古のものは、
1555年向けの暦書の表紙に書かれているものである
(公刊されたものに限らなければ、現存最古は手稿
『オルス・アポロ』に書かれた署名である)。
日本語文献の中には学生時代から用いていたとするも
のもあるが、史料的に裏付けることができない[60]。
学生時代の自署としては、モンペリエ大学入学時の入
学宣誓書が現存するが、そこでは、ミカレトゥス・
デ・ノストラ・ドミナ (Michaletus de Nostra
Domina) という正式なラテン語表記が採られている
(ただし、このミカレトゥスは、ミシェルを愛称化し
た上でラテン語表記したものである)。
また、日本では、ミ(ッ)シェル・ド・ノストラダム
スという表記もしばしば見られるが、「ノストラダム
ス」の前に「ド」を付けるこのような表記は、ノスト
ラダムス本人の著作には見られない。
本来これは、同時代の偽者の一人であるノストラダム
ス2世が用いたものであった。
ゆえに、不正確な表記ではあるのだが、同時代人にと
っても紛らわしいものであったらしく、ノストラダム
スの実弟ジャンの著書(1575年)や秘書シャヴィニー
の著書(1596年)でも、「ミシェル・ド・ノストラダ
ムス」と書かれてしまっている(この種の誤用の現在
確認できる最古のものは、1556年10月14日付で暦書に
与えられた特認の文面である)。

[編集] 信仰について
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上
記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。
父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である(三婚に
先立って祖父が二人目の妻と離婚したのは、彼女が改
宗を拒絶したからだという)[61]。
母方については未解明の部分も多いが、曾祖父はキリ
スト教徒であったことが明らかになっている。
母レニエールもキリスト教徒であったと推測されてい
るので[62]、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当
てはまらない。
一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに
すぎず、ユダヤ教の信仰を捨てていなかったとする者
もいるが、史料的裏付けはなく、彼の一族がユダヤ教
の秘儀に通暁していたといった類の話も俗説である。
ノストラダムス本人は、公刊された文献等ではカトリ
ック信徒の姿勢を示しており、『1562年向けの暦』も
ピウス4世に捧げていた。
他方で、私信の中ではプロテスタントに好意的な姿勢
を示していたことが明らかになっており、彼の信仰の
姿勢について安易な断定が出来る状況にはない[63]。
かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰
が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であっ
た可能性を示唆していた[64]。

[編集] ノストラダムスの肖像画
−−−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムスの肖像画は、冒頭にも掲げた息子セザ
ールによるものをはじめ、絵画や版画、『予言集』の
挿し絵などで数多く描かれている[65]。

息子セザールによる肖像画。メジャヌ図書館所蔵(エ
クス=アン=プロヴァンス)
望遠鏡を携えるノストラダムス。望遠鏡の発明は彼の
死後だが、後代の肖像画ではしばしば用いられる。
ジャン・ブーランジェ(1608年-1680年)による画を模
倣した銅版画(パリ、1742年頃)
レ・ザルピーユ・ピエール=ド=ブラン博物館(サン
=レミ・ド・プロヴァンス)等に所蔵されている版画
ベッソン版『予言集』(リヨン、1690年頃)の口絵。
四行詩の著者は不明。
バレスト著『ノストラダムス』(1840年)所収の肖像
画。エメ・ド・ルミュ筆。
サロン=ド=プロヴァンスのノストラダムスを描いた
壁画

[編集] 脚注
−−−−−−−−−−−−−−−−−
[ヘルプ]^ ノストラダムス本人は、「占星術師」
(Astrologue) ではなく「愛星家」(Astrophile) とい
う肩書きを名乗ることが度々あった。
^ 以上、出自に関しては主にLeroy [1941], Lhez
[1968] に拠っている。
^ この点は、墓銘碑と私信(12月12日を誕生日の2日前
と語っている私信がある)などが裏付けになってい
る。
出生そのものや洗礼の記録は確認されていない。
なお、2006年になって、墓銘碑の再検討などから正し
い誕生日を12月21日とする説が登場した ([1])。
^ 曾祖父は地元の名士であるがゆえに記録に頻出する
が、1504年を境に記録から完全に消えているため、こ
の年に没したと推測されている (cf. Leroy[1960])。
^ ラメジャラー[1998] pp.36-37, Wilson [2003]
p.21 etc.
^ Leroy[1993] p.57 etc.
^ Nostradamus[1555]p.3
^ Chavigny[1594] p.2, Lhez[1961] p.140
^ cf. Wilson[2003]p.22, Marcel Gouron, Matricule de l'universite de medecine de Montpellier
(1503 - 1599), Droz, 1957, p.58. この点、はっきり
と大学から除籍されたと位置づける者もいる
(Bracops [2000] p. 151)。
^ 実際、本人は、トゥールーズ、ボルドー、カルカソ
ンヌのほか、アジャン周辺にいたことがあると後年語
り、スカリジェのことも高く評価している
(Nostradamus[1555]p.218-219)。
^ 竹下[1997]pp.70-71。妻の名前をアドリエット・
ド・ルーブジャックと紹介している文献もあるが、こ
れはスカリジェの妻アンディエット・ド・ラ・ロッ
ク・ルーブジャック(オーディエット・ラ・ロック・
ローベジャック)と混同された誤伝のようである。
^ ex. Wilson[2003] p.59
^ シャヴィニーの伝記では、子どもは男児と女児が1人
ずつとされている (Chavigny [1594] p.2)。しかし、
これも実証されておらず、はっきりしたことは分かっ
ていない。
^ ノストラダムスの最初の結婚について語っている同
時代の証言はシャヴィニーの伝記しかないが、彼は死
因について何も語っていない。
これに関する実証と伝説の開きについては Wilson
[2003] pp.58-59 なども参照のこと。
^ Leroy [1993] p.61
^ これを伝える最古の記録は17世紀の歴史書だが
(Leroy [1993] p.61, Schlosser [1985] pp.85-86)、
スカリジェの遺作となった詩集にノストラダムスを悪
罵する詩が複数収録されていることも傍証になる
(Brind'Amour [1993] pp.85-86)。
^ 19世紀にまとめられたアジャンの古文書集に書かれ
ているようである (cf. Lhez[1961] p.135)。
^ Lhez,ibid., Brind'Amour [1993] p.118
^ Leroy [1993] p.61, LeVert [1979] pp.4-5 ^ Pierre Gayrard, Un dragon provencal, Actes Sud, 2001, p.180 ; 類似の見解として Boulanger [1943]pp.54-55, LeVert [1979] p.5 ^ 例外的に、1539年にボルドーの薬剤師レオナール・
バンドンの薬局を訪れたと、後にノストラダムス自身
が語っている (Nostrdamus [1555] p.110)。これにつ
いては、信憑性を疑問視する見解 (Leroy [1993]p.62-
63) と、特に問題視しない見解とがある
(Brind'Amour [1993] p.118)。
^ Leroy [1993] p.66, Wilson [2003] p.62 ^ ブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館の展覧会のカ
タログ (Archives. Tresors et richesses des Archives des Bouches-du-Rhone, Marseilles, 1996)
に、この記録の写真が載っているという (Laroche
[1999], p.95)。
^ Nostradamus [1555] pp.48-54, ラメジャラー
[1998] pp.93-98, ランディ [1999] pp.116-122, 伊藤
和行 [2000] pp.245-250, 山本 [2000] pp.83-84 ^ Leroy [1993] p.70, Wilson [2003] pp.69-70 ^ Leroy [1993] pp.78-79 ^ Nostredame [1614] p.776, Parker [1923] p.101, Leoni [1982] p.26, Bracop [2000] p.152 ^ これを最初に述べたのはシャヴィニーである
(Chavigny[1594] p.3)。
ただし、シャヴィニーは召喚を1556年7月のこととして
おり、この時期の状況を正確に把握できていたかは定
かではない。
^ Brind'Amour[1993] p.24
^ cf. Brind’Amour [1993] p.41
^ 高田[2000]pp.292-296、山本[2000]pp.240-244
^ Leoni [1982] pp.30-31, Brind'Amour [1993] pp.39-40 etc.ただし、それらは18世紀から19世紀に再
編集されたものであるため、信憑性を疑問視する者も
いる
^ Leoni [1982] pp.34-35, Brind'Amour [1993]
pp.51-53
^ ex. ランディ[1999]p.79, p.145
^ 以上の大巡幸の様子についてはLeroy [1993] pp.97-
100, Brind'Amour [1993] pp.48-50 などによる。
^ Pierre de L'Estoile, Memoires journaux 1574- 1611, t.5, 1878, pp.245-247; Parker [1923] p.104 etc. レトワルの日記は生前公刊されることがなく、版
によって異同があるが、ここで問題になっている記述
は1719年版で付け加えられたものである。
^ この時期は確定できていないが、息子セザールの証
言通りアルルでのことだったのなら、1564年11月16日
から12月17日の間だったことになる(cf. E. Graham
& W. Mc Allister Johnson, The royal tour of France by Charles IX and Catherine de Medici, University of Toronto Press, 1979, p.97)。
^ Chavigny[1594] p.4
^ Chavigny[1594] p.154, Nostredame[1614] pp.803-
804
^ Claude-Francoise Brunon, "Lecture d'une lecture : Nostradamus et Horapollon", La litterature de la Renaissance, Geneve ; Slatkine, 1984 ^ Allemand [2000] ^ Leroy [1993]pp.146-147 ^ Dupebe [1983]pp.132,135 ^ 英仏語以外でも、数は少ないが、優れた研究として
評価されているものはある。
例としてElmar Gruber[2003], Nostradamus: sein Leben, sein Werk und die wahre Bedeutung seiner Prophezeiungen, Scherzなど。
^ Edgar Leroy[1941], Edgar Leroy[1993] ; Eugene Lhez[1968] ^ E. Lhez[1961]. レーの紹介は、重要な書簡の全訳と
他の書簡の要約から成っていたが、後にジャン・デュ
ペーブが全ての書簡の紹介と分析を行っている。cf.
Jean Dupebe[1983]
^ Michel Chomarat[1989] ; Robert Benazra[1990] ^ Edgar Leoni[1961/1982] ^ Pierre Brind'Amour[1993] [1996] ; Anna Carlstedt[2005] ^ ノストラダムスの予言の中に、『予言集』刊行当時
から見て、過去に属する事柄が含まれている、とする
指摘自体は、18世紀には出されていた(1724年の『メ
ルキュール・ド・フランス』紙に2度に渡り掲載された
匿名の書簡で、こうした視角からの分析が行われてい
る)。
^ 日本では、ノストラダムスがラテン語の詩で占星術
師を批判していることなどを以て、彼は占星術全般に
否定的だったと主張する者がいる。
しかし、第一序文では、判定占星術とその他の占星術
を区別した上で前者を評価しているため、日本以外で
は、立場に関わらずそうした主張は殆ど見られない。
^ ちなみに、第一序文には、聖書からの引用句が24あ
るが、2つを除いてサヴォナローラの引用と重複してい
る。
^ 『予言集』と『ミラビリス・リベル』との対照につ
いては、Lemesurier[2003]が参考になる。
^ かつてはマルシリオ・フィチーノ訳の『エジプト秘
儀論』などから直接借用したとされていたが、現在で
は否定されている(Brind'Amour [1996] pp.48-49,
n.5 etc.)。
^ いずれもミシェル・ショマラによる。彼はノストラ
ダムス自身の署名がある現存する文献や、息子セザー
ルの私信を基に、ノストラダムスの蔵書12点を特定し
ている(うち推測が4点)。
本文で例示したものは、いずれも署名つきで現存する
文献。cf. Michel Chomarat, "La Bibliotheque de Michel Nostradamus" in Laroche[2003] ^ 高田・伊藤 [1999] pp.342-352, ドレヴィヨン・ラ
グランジュ [2004] pp.39-43, Petey-Girard [2003]
pp.7-8
^ Carlstedt [2005] ch.7
^ Leroy [1993]p.148
^ Laroche [2003] p.99 & p.105, ドレヴィヨン・ラグ
ランジュ [2004] p.88
^ 一応、『1525年にエクス=アン=プロヴァンスで出
版されたミシェル・ノストラダムスの四行詩』と題す
る17世紀末頃の瓦版は現存するが、このオリジナルが
1525年に刊行されたと見なせる史料的裏付けはない。
^ Leroy [1941] pp.13-18, Lhez [1968] p.404 ^ Leroy [1941] p.32 ^ cf. ランディ[1999]pp.109-111, 高田・伊藤[1999]
pp.22-24
^ 渡辺[1992]p.140
^ 以下の肖像画の紹介に当たっては、Chomarat
[1976], Benazra [1990] などを参照した。

[編集] 関連項目
−−−−−−−−−−−−−−
ノストラダムス関連人物の一覧
ノストラダムス_(偽者)
ジャン=エメ・ド・シャヴィニー
ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ - エーツの伝記は、
伝説的なノストラダムス像の形成に影響があった。
ノストラダムス現象
恐怖の大王
アンゴルモア
ノストラダムスの「予言者」とされる側面との関連か

予言
世紀末

[編集] 参考文献
−−−−−−−−−−−−−−−−
より詳しく知るための文献、および本記事作成にあた
り参照された文献。
ノストラダムスを主題としていない文献は、注記の中
で書名も表示してある。
以下のうち、Nostradamus[1555], Chavigny[1594], Nostredame[1614] はガリカデジタル図書館(フランス
国立図書館)で見ることができる。

ピエール・ブランダムール校訂、高田勇 伊藤進 編訳
[1999]『ノストラダムス予言集』 ISBN 4000018086
樺山紘一 村上陽一郎 高田勇 共編 [2000] 『ノストラ
ダムスとルネサンス』 ISBN 4000018094
伊藤和行 [2000]「ノストラダムスと医学のルネサン
ス」
高田勇 [2000]「ノストラダムス物語の生成」
竹下節子 [1997]『ノストラダムスの生涯』 ISBN
4022572213
山本弘 [2000]『トンデモ大予言の後始末』 ISBN
4896914694
渡辺一夫 [1992]『フランス・ルネサンスの人々』岩波
書店
エルヴェ・ドレヴィヨン、 ピエール・ラグランジュ
[2004]『ノストラダムス―予言の真実』 ISBN
4422211781
伊藤進 [2004] 「人文主義者ノストラダムス」(上掲
書 pp.102 - 107。日本語版監修者による解説)
ジェイムズ・ランディ [1999]『ノストラダムスの大誤
解―イカサマまみれの伝説43の真相』 ISBN
4872334590
ピーター・ラメジャラー [1998]『ノストラダムス百科
全書』東洋書林
Robert Benazra [1990], Repertoire chronologique nostradamique(1545-1989), Guy Tredaniel Jacques Boulanger [1943], Nostrdamus et ses Propheties, Editions Colbert.
Martine Bracops (ed.) [2000], Nostradamus Traducteur traduit. (Actes du colloque international de traductologie, Bruxelles, 14 decembre 1999), Hazard Jacqueline Allemand, "D'Horapollon a Galien :
Nostradamus medecin, philosophe et traducteur", in Bracops (ed.) [2000] pp.35 - 64 Martine Bracops, Nostradamus, un humaniste eclaire, in Bracops (ed.) [2000] pp.147 - 157 Pierre Brind'Amour [1993], Nostradamus Astrophile, Klincksieck Pierre Brind'Amour [1996], Nostradamus : Les Premiere Centuries, ou, Propheties (edition Mace Bonhomme de 1555), Droz Anna Carlstedt [2005], La poesie oraculaire de
Nostradamus: Langue, style et genre des Centuries, Stockholms universitet Jean-Aime de Chavigny [1594], La Premiere Face de Janus Francois, Les heritiers de Pierre Roussin Bernard Chevignard [1999], Presages de Nostradamus, Seuil Michel Chomarat [1976], Supplement a la Bibliographie lyonnaise des Nostradamus, Centre culturel de Buenc Michel Chomarat [1989], Bibliographie Nostradamus XVIe-XVIIe-XVIIIe siecles, Valentin Koerner Jean Dupebe [1983], Nostradamus: Lettres inedites, Droz Jean-Paul Laroche [1999], Fonds Michel Chomarat : Catalogue Nostradamus et Propheties, Tome 4 Jean-Paul Laroche [2003], Propheties pour temps de crise, Edition Michel Chomarat Peter Lemesurier [2003], Nostradamus: The Illustrated Prophecies, O Books Edgar Leoni [1982], Nostradamus and His Prophecies, Bell Publishing Edgar Leroy [1941], "Les origines de Nostradamus", Memoires de l'Institut historique de Provence, tome XVIII- No.1, 1941 Edgar Leroy [1960], "Jean de Saint-Remy, bisaieul de Nostradamus", Provence Historique, T.10 Edgar Leroy [1993], Nostradamus: ses origines, sa vie, son oeuvre, Jeanne Laffitte (reimpr. de
1972)
Liberte LeVert (i.e. Everette Bleiler) [1979], The Prophecies and Enigmas of Nostradamus, Firebell Books Eugene Lhez [1961], "Apercu d'un fragment de la correspondance de Michel de Nostredame", Provence Historique, T.11 Eugene Lhez [1968], "L'ascendance paternelle de Michel de Nostredame", Provence Historique, T.18 Michel Nostradamus [1555], Excellent & Moult Utile Opuscule a tous necessaire..., Antoine Volant.
Cesar de Nostredame [1614], L’Histoire et Chronique de Provence, Simon Rigaud Eugen Parker [1923], "La legende de Nostradamus et sa vie reelle", Revue du Seizieme Siecle, tome X, pp.93-106, 148-158 Bruno Petey-Girard [2003], Nostradamus: Les Propheties, Flammarion Louis Schlosser [1985], La vie de Nostradamus, Pierre Belfond Ian Wilson [2002/2003], Nostradamus The Evidence, Orion

[編集] 外部リンク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ウィキメディア・コモンズには、ノストラダムス に関
連するマルチメディアがあります。Le C.U.R.A.
(Centre Universitaire de Recherche en
Astrologie)
Corpus Nostradamus
Prophecies on Line
Espace Nostradamus
ノストラダムス研究室
ノストラダムスサロン
Nostradamus Wiki. Translations in 7 languages and original texts



ページナビゲーション
  投稿記事目次集 >>40万代目次>>諸世紀情報 NO 410008