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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

「天」太陽の投稿記事

『終末と太陽の検証』

http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/newmurmur_db/n400001/n400002.htm
より

その他・つれづれ・最近のあれこれ NO n400002

−−−−コメント 2016/06/04−−−−

{新40_予言一般情報_アラカルト_世見_02}
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<:世見で心境の変化・大災害?:>

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コメント:

★ 世見で心境の変化で災害について纏める様な雰囲気なので関連がありそうなところを纏めてみた

最近やっかいな問題に直面している
問題は マイクロソフトが勝手にWin10に書き換えた為に、セットが変わり、操作を調べるために無駄な時間を過ごしていることである
加えて、操作に慣れないために苦労している
基本的には 怒りの中にいる
それはさておいて、幾らか操作をできるようになってきたので再開始することにした

課題が地震などの災害と限定しているようなので、興味のある年代と関係するものに関係を見てみると
9項の「慶長」は 慶長の大地震
10項の「明応520〜523」は 明応の大地震
を指摘していると考えられる
特に、「明応520〜523」は 明応の大地震のことと考えられるので、「明応の大地震」と同じものが発生すると考えられ
そうすると、素直に受け取れば、「520〜523」から「X年5月20日〜5月23日」が推定される
問題は X年が何時かと云うことになるが、具体的に指摘していない
解読と幻視などが正しいとすれば、2016年・2017年・2018年の何れかが該当することになる
早ければ2016年となり、要注意年と考え、様子を見ていたが本年では無いようだ
世見の女史の記述をチェックを進めていきたいと考えている

それにしても、マイクロソフトに対する怒りは私だけで無く多くの方にあるようで・・・


===NO n400002:参考文献の目次===

001:世見:松原照子:2016/05/01
002:世見:松原照子:2016/05/02:
003:世見:松原照子:2016年05月03日:
004:世見:松原照子:2016/05/04:
005:世見:松原照子:2016/05/05:
006:世見:松原照子:2016/05/06:
007:世見:松原照子:2016/05/07:
008:世見:松原照子:2016/05/08:
009:世見:松原照子:2016/05/09:
010:世見:松原照子:2016/05/10:
011:明応地震:wikipedia:
012:鎌倉大仏を襲ったとされる津波について:naver:2013年08月14日:
013:世見:松原照子:2016/05/11
014:世見:松原照子:2016/05/16:
015:慶長大地震:wikipedia:

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===NO n400002:参考文献の目次詳細===

===1===============

::世見:松原照子:2016/05/01::

案内 
翻訳 
原稿 

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<世見>2016/05/01

あなた様を恐がらせようと思ってはいません
自分の書くことを「当てたい」などと、とんでもないことを思ったりもしていません
むしろ書くことで大難が小難になり、何も起きないことをよしと思っています

東日本大地震から5年目、熊本が大変な被害に遭いました
私のお役目がどこにあるのかわかりませんが、今まで気になっていたことをどれだけ書けるのか、これから毎日“災害”に絞って書いて行こうと思います

有料サイト地球家族会員の皆様は、『月刊SYO』の「世の中の動き」の続きとしてお読みください
又、会員ではない皆様には大変申し訳ございませんが、昨日までの世見はお読みいただけませんのでご了承くださいませ

突然このようなことを書くのはおかしいのですが、私は今年の10月で70才になります
いつまでこうして世見を書き続けられるかわかりません
それ故なのか、私の書くことで勇気ある行動と身を守る的確な判断を身に付けていただきたく、心の内にあるものを全て書いておきたくなりました
人というのは正直です

災害のことは気になるものの、我身が遭遇しないことが重要なことです
私がこの度書こうと思った理由のひとつに、もしかすると立て続けで大災害が来た時、私達はどの様にしのげばいいのかが気になったからです

首都直下型地震・東南海・南海地震だけではなく、これからも大災害を私達は体験し続けるでしょう
その為にも、日頃からの暮らし方で、その時その瞬間の気構え方で、人は身を守れると信じています
明日何を書けるのかはわかりませんが、災害をテーマに暫くの間毎日書いて行きます

戻り


===2===============

:世見:松原照子:2016/05/02:

案内 
翻訳 
原稿 

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<世見>2016/05/02

連休を如何お過ごしですか?
私達は、素晴らしいと申し上げたくなる“勘”を日本列島の地下のエネルギーから与えられています
私は勘のことを、感じる意味で“感”と言っています
阪神淡路大地震で私の生まれ育った街は火の海になりました
新潟を強風が襲いました
東日本大地震では大津波が人々を飲み込みました
日本列島は1995年の阪神淡路大震災から地下が活発になった思いがします
1995年から21年
けっして短い年月ではありません
今度再びどこかで大地震が発生すると、私がとても気になるのが「ダム」です
ダムに土砂が勢いよく流れ込む映像を今見ていますと、次には津波にしか見えない水がダムを乗り越えて轟音を響かせながら集落を襲います
今の映像が日本かどうかはわかりませんが、ダムの大津波の高さは数百メートルもあるかのように見えました
スマトラ沖地震の時、16万人以上の犠牲者が出たといいます
瀬戸内海もいつ津波の被害を受けるかわかりません
原子力発電所の今後の存在意義はどこにあるのでしょう
活発になっている日本の地下
「想定外」だったとは言って欲しくありません

戻り


===3===============

:世見:松原照子:2016年05月03日:

案内 
翻訳 
原稿 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ご自分の未来を考えて見ることってありますか?
私など自分の未来は元気なら一番くらいかもしれませんが、夢というかチャレンジというか、やってみたいことがあり過ぎます
泳ぐこと、自転車に乗ることはお手上げなので諦めましたが、もっともっと書けるだけ書き続けてお読み下さる方がほんの少しでも心が軽くなってくれるのが一番でもありますし、未来の子供達が笑顔いっぱいに暮らせる地球家族が出来るように出来る限りのチャレンジがして見たいです
あなたもご自分の未来に心の中に花を咲かせる何かをお持ちになってください
―――★―――★―――★―――★―――

<世見>2016/05/03

私が埼玉県に住んでいますので、ついつい関東の載っている地図を開けてしまいます
5月のスタートにあたり、今後起きて欲しくない災害について真剣に書きあげて見たいと思い、5月1日から書き始めました
けっして当てることが目的ではありません
むしろ、全てが外れて欲しいと思っています
私も人の子
災害を書き過ぎると「狼少年」のように思われないかと気掛かりになります
この度の熊本大地震の時の反省をどうしても書いておかないと、自分が後悔するのがわかりました
今後、日本で起きうるかも知れないことを書き連ねますが、不安で心が落ち着かなくなるようなことだけはどうか止めてください
日本国民全てが犠牲者にはなりません
むしろ、私が書くことをお読みになり、ご自分を守る感(勘)を磨いてほしいと思います
今日お伝えしたいのは、「ニュータウン」に住まわれておられる方にご自分の住まわれておられる地盤をチェックして欲しいのです
春の雪解け水が土に浸み込んでいる場所や、傾斜を埋め立てて平地にした場所や、その他がどのような条件なのかはわかりませんが、高速地滑りが起きているのが見えました
勿論、今見えた映像はニュータウンに限られたことではないでしょう
でも、表層というのでしょうか、本来の地面とは違う傾斜に土を盛った感じの場所が気になります
これからの雨量は年々集中型が増える為に、液状化が原因と書きたくなってもいます
地震によってなのか、まるでフルイにかけた時のように細かい砂と小石が分けられて、土の面積が今までより小さくなっているのが見えました

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===4===============

:世見:松原照子:2016/05/04:

案内 
翻訳 
原稿 

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超高層ビルで働いておられる方も多いと思いますが、あなたがおられる超高層ビルは長周期地震動といわれる揺れには充分対応出来ていますか?
恐ろしがる必要はありません
いつ何が起きてもおかしくないかのように、日本は大地震が相次いで起きています
だからこそ怖がって待ってはいけません
それより日頃からご自身がご自分に言い聞かせるように“名前を言う癖”を付けてください
不思議な世界の方は、ご自分の名前を言ってから行動をとる時、身を守ろうとする動物的勘が磨かれるといいます
冒頭に書いた超高層ビルの高い階で長時間過ごすと、気圧のせいか本来の動物的勘と申しますか、今までに体験したことのない環境下で過ごしますと、この勘どころは鈍るようです
このことを少しでも解消する方法は、ご自分の名前を言って行動をとることが一番だと言います
一日中自分の名前を言い続けるのは難しいですが、トイレとか食事とかで気になった時は、名前と次の行動を短く言ってみる癖が閃きにも繋がるようです
もしかすると、震度0でもどこかが大きく揺れると船にでも乗っているかのような揺れを感じるかもしれません
震源が栃木県だとしたら東京はどうなるのでしょう
関東平野は堆積層なので伝わりやすいようです

首都圏が抱える弱い部分をもう一度見直して欲しいと思います
もしも震度7が当たり前になったら大変ですが、過去の震度の経験を今活かさせなくてはいけません
それ故にご自分の“勘磨き”が重要になるのです

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===5===============

:世見:松原照子:2016/05/05:

案内 
翻訳 
原稿 

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熊本大地震から半月が過ぎようとしています
これからも大変なことが続くと思います
「頑張ってください」この言葉しか見付からないのが悔しいのですが、どうかお体をご慈愛なさって明日に向かって頑張ってください
大変な毎日なのに、さらに気になるのが今年の梅雨です
集中的に降る雨が見えています
熊本に被害が及ばないことを心から願わずにおれません
台風並みの強風がとても気になります
インド洋や南太平洋でも強風が吹き荒れているのが見えました
九州はそれでなくても台風が多いと聞いたことがありますので、例年より以上に注意をなさってください
今年の台風の数は少ないかも知れませんが、風が強く人が歩くのが大変なようにも思います
発電用の風車に被害が出るくらいの強風を目にしています
沖縄 奄美とその周辺の島々も強風には充分気を付けてください
今聞こえた「宮之浦岳」がどこにあるのか、もしかするとないのかはわかりませんが、聞こえたので何か意味があるのか、書いておきます
今日は地図の阿蘇山と書かれたところを触りながら、「今は動かないで」と言ったところです
「今は」と言いたくなるくらいに元気が伝わりました
私はこうした大災害を目にする度に自分の力量のなさを痛感すると共に、皆様にお役立ちが出来ていないのが悔しくて仕方がありません
地震大国故の恵みを受けているのもわかります
温泉だけではありません
日本列島に住む人々は、感性と申しますか、勘と申しますか、「感じる能力」は優れています

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===6===============

:世見:松原照子:2016/05/06:

案内 
翻訳 
原稿 

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首都直下型地震と書くだけでも緊張が体中を走ります
ここまでしか書いていないのに東京湾がとても気になりました
東京湾に石油のタンクってありますか?
長周期地震が、まさかと思いますが石油タンクを襲うと書きたくなりました
もしかすると、東京湾に限ったことではない気もします
液体が空気に触れても大丈夫ですか
もしも、可燃性ならどうなるのでしょう
屋根がどのようになっているのでしょう
地震がもたらす災害のひとつに石油タンクがある気がして来ました
タンクが壊れて海上に石油が流れ出し、火災が起きるとどうなるのでしょう
福島原発事故のように“想定外”ということで片付けるのでしょうか
現在、心配されている東海・東南海・南海地震が起きたら、石油タンクは大丈夫でしょうか?
もしも同時に爆発炎上したら、海は火の海になります
きっと、近い将来、今見えた映像が現実になるのでしょう
アレ、言い切って書いてしまいましたが、私の意志ではない気がしています
もしかすると、どなたかが私の手を借りて書いた?
まさかとは思いますが、今までとは違う感触で現実になると書いてしまいました
人間が作り出した多くの品々
原子力発電所も石油タンクも、災害の時、人的被害の差はあるものの恐ろしい武器になるのは間違いがありません
東日本大地震も私にはまだまだ余震のような揺れが起きると思っています
危険は、地震が直接とは限りません
私達は、先人の教えを今一度学びとして受けとめる時ではないでしょうか

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===7===============

:世見:松原照子:2016/05/07:

案内 
翻訳 
原稿 

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日本地図を開くと気になる場所の多いこと
私が書くことの中に何度となく出て来る地域がありましたら、もしかすると不思議な世界の方々の思いが入っているのかもしれません
いつも申し上げているのですが、書き終えると殆ど覚えてはいません
だからよけいに思うのですが、何度となく書くことには意味があるのでしょう
読み手のあなた様が判断なさってくださるといいのかもしれません
書き方も、あっちに行ったりこちらに来たりとわからないかもしれませんが、書いていると急に書きたくなったりするのでお許しください
今日も手元の地図はいつもと同じです
何となく指を突っ込み開けると北海道でした
勇払平野が他の字より大きく見えます
「ムカワ」 アレ〜漢字よりムカワが大きく見えました
近くには苫小牧があります
富良野までのこの辺りの沖で大きく揺れると影響を受けますが、夕張岳って火山なの? それとも普通の山なの?

大雪山は今日も美しいことでしょう
でも、どこなのかなぁ〜
湖が見えたかと思うと小噴火しています
北海道の地図を開けて見ているのですから、北海道のどこかでしょう

「石狩は巨もゆっくりと動く日を待っています」
当別(とうべつ)ってどこですか?今こんな地名のような言葉が聞こえました
十勝 根室沖は揺れやすいと思いました
「空地支庁」と赤字で書いてある辺りは揺れとは違う何かが気にかかりましたが、今ひとつ文章にはなりませんでした

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===8===============

:世見:松原照子:2016/05/08:

案内 
翻訳 
原稿 

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東日本大地震後2016年から2018年頃が次に何かが起きる気がしていました
熊本で大地震が起きて私は泣きました
私は何ひとつお役立ちが出来ていないことが辛かったのです
それと多くの皆様に不安を与えるのも気になり、少し臆病にもなっていました
後3回、10日までに何が書けるのかはわかりませんが、お読み下さるあなた様がもしもの時の為に備えることを含め、本来の動物が身を守る勘を磨いて欲しいと思っています
勘を磨く方法のひとつが、時折でいいのでご自分の言動を自覚することです
ゲーム・スマホ・パソコン・その他、心を忘れる時間の時は「心を忘れます」ということを自覚してください
悩んだり考えたりすることを回避する為にのめり込み過ぎると、「いざ」その時、勘が働きません
日頃から行動の度に、始めるときには「スタート」、終わりには「終了」、この言葉を言うようにしてみてください
行動のON―OFFは必ずあなたの身を助けますし、大切な人も守れる勘を手に入れられます
毎日このように災害について書いていますと、多くの皆様が「次は近いのか」と思われることでしょう
私自身いつどこで大災害が起きるのか今日はわかりませんが、月初めには大災害に備えることを世見で書いて行かなくてはと思っています
あまり書き過ぎると、これだけ書けば「当たるだろう」と言われるかもしれませんが、同じことを書くのが続いた時は、このことは「当たらない」と願ってください
私はけっして当てることが目的ではありません
一人の方でもいい
大難が小難になって下さればそれだけで充分です

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===9===============

:世見:松原照子:2016/05/09:

案内 
翻訳 
原稿 

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私は毎日こうして書いている原稿を読み直すことをしません
理由は、読み直すと文章が上手くないのが気になり書き直したくなるからです
私の書く時の心の内は特別な感情はあまりありません
ただ、今日も書けたことが生きているのを実感できて清々しい気持ちだけが残りますが、書き終えた時内容によっては心が痛むことも多々あります
今日このような前置きの文を書いたので、もしかすると自分でも嫌だなぁと思うことを書くのかもしれません
毎日こうして書いていますと、今日このことを書こうと思ったことがありません
何故なのかもわかりません
でも、書きたくなって来ます
大災害の後には必ず、私達には残された宿題があると思うのです
自然界の力は脅威と云うより偉大です

1000kmもの破壊が地殻で起きたりします
1000kmといったら日本列島ではどこからどこまでなのでしょう
スマトラ沖地震がまさに1000kmに渡っての被害でした

南極にプレートがあるとしたら起きるであろう地殻の歪
この場所で大地震が起きると、今まで見たことのない大津波が世界中に押し寄せると思います
書くことが飛びますが、神戸から新潟にかけて地図が薄いピンク色で塗られているかのように私には見える、線で囲んだ場所があります
歪も感じます
慶長の頃はどこに大きな揺れがあったのか
「慶長」と今書きたくなりました
参考にはならないかもしれませんが、今日も自分が書いているのか、どなたかの指示かわからずに書いています

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===10==============

:世見:松原照子:2016/05/10:

案内 
翻訳 
原稿 

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「濃尾地方は地震って起きないのかなぁ〜」
こんな思いもします
「明応の頃とよく似たことも起きる日が‥‥」

この後は聞こえなかったのですが、明応って何のことなのだろうと地図を見たら、三河湾の字が大きく見え矢印が湖西の下辺りの先で止まっていました
「明応520〜523」
−−−−−−−−−−−−−−−−−
初めて私の世見をご覧の方もおられるかと思います
今日書いたことはお読みいただけますが、昨日までの世見は有料サイトでしかお読みいただけません
誠に申し訳なく思います
首都直下型地震をご心配の方も多いことと思います
不思議な世界の方は「東京 横浜は柔らかい堆積層にある」と言われました
「やわらかい」これだけでも気になります
地震が起きるところに「岩盤と柔らかい堆積層」の関係があるのでしょう
不思議な世界の方が話されていてこのように思いました
伊豆半島が揺れると相模湾、東京湾の堆積層に影響があり、又、反対もあるようです
神戸の時のようなことが起きるかもしれません
伊豆半島は岩盤です
堆積層に地震が発生すると波が起き、帯のような物が出来る気がしています
もしも関東平野に大きな揺れが来た時、東日本大地震の時のように日本列島は揺れることでしょう
逆断層という言葉があるのだろうか?
この言葉を書きたくなったので参考にはならないだろうか?
帯状に広がる歪のようなものを神戸から新潟にかけて感じるのも参考にならないだろうか?

「濃尾地方は地震って起きないのかなぁ〜」
こんな思いもします
「明応の頃とよく似たことも起きる日が‥‥」

この後は聞こえなかったのですが、明応って何のことなのだろうと地図を見たら、三河湾の字が大きく見え矢印が湖西の下辺りの先で止まっていました
「明応520〜523」
この言葉の意味はわからないが書いておきます
いつ起きるかわからないのが地震です
怖がらずにご自分の感(勘)磨きをしてください

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===11===============

:明応地震:wikipedia:

案内 
翻訳 
原稿 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E5%9C%B0%E9%9C%87

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明応地震の震度分布[1][2]
明応地震(めいおうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)に発生した地震である
南海トラフ沿いの巨大地震と推定される

記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており[1]、震源域は東海地震・東南海地震と思われるものであった[3]
一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が発見され、また発掘調査から同時期の南海地震の存在の可能性が唱えられるようになり、南海トラフ巨大地震の一つとされる

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目次
1 東海地震の記録
2 津波
 2.1 日本最古の高台集団移住
 2.2 地震痕跡
3 明応4年8月15日の地震
4 明応7年6月11日の地震
5 南海地震連動の可能性
6 関連項目
7 脚注
 7.1 出典
 7.2 参考文献

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東海地震の記録

明応7年8月25日辰刻(ユリウス暦1498年9月11日8時頃、グレゴリオ暦1498年9月20日)、東海道沖に大地震が発生した

『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『実隆公記』、『言国卿記』および『大乗院寺社雑事記』等に京都や奈良など畿内付近の記録が見られる
『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には閏10月まで、『実隆公記』には11月7日まで余震と思われる地震の記録がある
畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある興福寺と見られる地蔵堂の庇が崩壊した記録である
『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある
しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、遠江や駿河で記された記録も確認されるようになる[4]

紀伊から房総にかけて太平洋側で震動が強い
山梨県山梨市の窪八幡神社別当・普賢寺の『王代記』明応7年(1498年)条には「天地振動シテ国所々損、金山クツレ(崩れ)」と記されており、甲斐国でも強い揺れであったと考えられている
なお、『王代記』に記される「金山」は地理的関係から甲州市塩山の黒川金山と考えられている
各地の揺れは江戸時代の安政東海地震や宝永地震に共通するが震害の記録は少ない
熊野本宮の社殿が倒壊、那智の坊舎の崩壊、遠江では山崩れに地割れがあった
『熊野年代記』の記録によれば紀伊湯の峯温泉の湧出が10月8日まで42日間停止した

河角廣により規模MK = 7.5 が与えられ[5]、マグニチュードはM 8.6 に換算されている
またM 8.3[6][7]前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから地震モーメントはM0 = 7 × 1021N・m[8] (Mw 8.5[9])と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、江戸時代の地震より記録が少ない歴史地震であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は低い[8]

−−−
津波

津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった
津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた

南海トラフから東よりに津波の波源域が拡大している可能性があり、震源域を銭洲断層に仮定すると、志摩半島から御前崎、伊豆半島、房総半島に至る波高が説明できるとする説もある[10]

−−−
津波の被害状況

地域

推定波高・遡上高

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古文書の記録

羽鳥(1975)[11]

飯田(1985)[12]

都司(2011)[13][14]

安房小湊 現・千葉県鴨川市 誕生寺、明応七年八月二十三日地震大海嘯のため土地陥没精舎も亦尽く没す、朱印も共に失う『安房郡誌』
5m 4-5m

相模鎌倉 現・神奈川県鎌倉市 水勢入大佛殿破堂舎屋『鎌倉大日記』
8-10m

江ノ島 現・藤沢市
5-6m

伊豆八丈島 現・東京都八丈町 ナガクラにて、同月廿五日津浪上り、船、荷物諸共浪に払被『八丈島小島青ヶ島年代記』
4m

仁科 現・西伊豆町 仁科郷海溢レテ陸地ニ上ル事凡十八九町、寺川、ノ以下ノ田園皆水ニ浸ス / 戊午歳海嘯ニハ、波頭寺川ノ大堰ニ到ル『佐波神社沿革』
5m 4-5m

佐波神社
10m

八木沢 現・伊豆市 津浪、大門まで来る(妙蔵寺の宝永津浪?の伝承)妙蔵寺
22m

土肥 現・伊豆市 一瞬にして当村三十数名の命を奪い財産をなくした『栄源寺由来』 栄源寺
18m

戸田 現・沼津市 ヒラメが打ち上げられる(伝承)
20m

平目平
36.4m

江梨 現・沼津市 未刻江梨村津浪寄来而、庶人海底沈没不知数『江梨航補院開基鈴木氏歴世法名録』 航補院
16m

清水 現・静岡市清水区 海辺の堂社仏閣人宅はことごとく水没し死す『日海記』
5-6m[15]
村松
10m

焼津 現・焼津市 而溺死者大凡二萬六千人也、林叟之旧地忽変巨海也『林叟院記録』
6-8m
会下島
7-8m 10m

浜岡 現・御前崎市 洪濤滔天来、而一弾指頃、掃地総巻去『円通松堂禅師語録』
8m

遠江新居 現・湖西市 一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス『東栄鑑』
6-8m 6-8m

三河渥美 現・田原市 辰剋大地震、地破同時大海嘯満来『渥美郡史』
5-6m 5-8m

伊勢大湊 現・伊勢市 今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々『内宮子良館記』
6-8m 6-10m

国崎 現・鳥羽市 去八月廿五日大地震ニ、彼島家人大略流失『内宮子良館記』
8-15m

塩屋 現・志摩市 大地震高浪来リ、其上宮川の上山ぬけにて大水一度に押来り、塩屋村家員百八拾軒余内御塩取役人百軒余、何れも補任頭戴の者共にて、内宮権禰宜荒木田姓ニ御座候、一時に大海へ押流、塩浜・田畑も一面の荒野と成候事『元田由来』
8-15m

紀伊熊野 現・熊野市、新宮市 浦々浪入新宮鐘楼堂ヲ崩ス『熊野年代記』
4-5m 4-6m

『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている
津波は鎌倉の鶴岡八幡宮参道にも襲来し、また高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある[16](後述、異説有)
「高徳院」も参照

また、当時伊豆国では、同国に進出していた駿河今川氏の重臣・伊勢盛時(北条早雲)と堀越公方・足利茶々丸が争っており、盛時が茶々丸討伐のために伊豆出兵を計画していたが、津波によって伊豆・駿河の沿岸は大被害を受けた
だが、津波による混乱で戦いが不利になることを恐れた盛時は8月末までに動員可能な兵だけで伊豆の深根城にいた茶々丸を襲って皆殺しにし、これを攻め滅ぼしたとされる[17](異説有)

仁科では海岸から十八九町(約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)
八木沢の妙蔵寺(現・伊豆市)には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内の杉に海草がかかったとも伝えられている[18]

この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる[13]

沼津市戸田地区の平目平にはヒラメが打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている[14]

『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌
而溺死者大凡二萬六千人也
林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の志太郡付近で水死2万6千とされるが[6]、明治時代の志太郡の人口も2万6千人には満たず、信憑性は不明であるとされ[2][4]、あるいはこの数はこの地震全体の犠牲者数を林叟院が纏めたものであると考えるのが妥当とされる[19]

また安政東海地震では焼津付近は隆起しているが、この記録は本地震で沈降したことを示唆している[15]

『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した[3]

かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永津波により今切が拡大し再び移転を余儀なくされた[4][20][21]

湊町として栄えていた安濃津(現・津市)は遺跡の発掘から16世紀初頭から18世紀初頭頃まで空白期が見られ、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受けて荒廃し、宝永地震以降に復興が始まったと推定されている
また大永2年(1522年)に安濃津を訪れた宗長は『宗長日記』で「この津、十余年以来荒野となりて四五千軒の家、塔あとのみ」と記している[4][21]

『内宮子良館記』には「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」とあり、伊勢大湊で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされ[2][6]、宮川河口付近にあったと推定される塩屋村では塩浜が被害を受け塩業が成立しなくなったとされる[4][21]

紀伊では紀ノ川は、かつて河口付近で南流し現在の和歌川が本流で和歌浦に注いでいたが、『紀伊続風土記』の記述から現在の河口位置に変化したのは明応から寛永年間の間と考えられ、明応年間に住民や寺社が和田浦(現・和歌山市)から湊村に移転したとする伝承があり、明応津波で被害を受け、紀ノ川が現在の河口位置に移ったとされる[21]

ただし『紀伊続風土記』の記事は「明応ノ比津浪」、また『和歌山県神社寺院明細帳』では「明応ノ海嘯」とあるのみで具体的な年月日の記述はない
熊野本宮の社殿が倒れた[22]

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日本最古の高台集団移住

志摩半島の三重県鳥羽市国崎町[23]は最大波高15mに達したとされ[24]、大津集落は明応地震津波で死者1万人という壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった
漁師は高台から浜に通うのが普通だという[25]
1707年の宝永地震津波や、1854年の安政東海地震津波では溺死者を少数に抑えた
特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津波流失塔」の碑文によれば7丈5尺(22.7m)にも達したと記録されている[26]

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地震痕跡

静岡県磐田市、元島遺跡[27]
浜名湖岸 : 津波堆積物

湖西市、長谷元屋敷遺跡 : 津波堆積物[28] 愛知県稲沢市、尾張国府跡

三重県紀伊長島町 : 津波堆積物

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明応4年8月15日の地震

『鎌倉大日記』には明応4年8月15日(ユリウス暦1495年9月3日、グレゴリオ暦1495年9月12日)に大地震が発生し、由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある

明応四年乙卯八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢入大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘

『大日本地震史料 増訂』では、この記録は明応7年8月25日の地震の誤記の可能性有としている[29]
宇佐美(2003)も、この記事は疑わしく明応7年8月25日の地震との混同の可能性有としている[2]

一方で同日、『御湯殿の上の日記』に「地しんゆる」、『後法興院記』にも「十五日乙丑晴、酉刻地震」との記録もあり、少なくとも京都においてこの日、有感地震があったとされ[2]、また、古代・中世には未だ巨大地震が隠されている可能性があり、1495年の地震は相模トラフ巨大地震の検討候補とされている[30]
『熊野年代記』にも同日に「鎌倉大地震」とあり、複数の史料からこの日の地震の存在が裏付けられている

静岡県伊東市教育委員会の金子浩之主査を中心とした宇佐美遺跡の発掘調査で見出された砂層が15世紀末頃の津波堆積物であることが判明している
この堆積物は標高約7.8m付近に存在し、南海トラフの地震津波では説明できないことから、明応関東地震のものである可能性が高いとされた
また、878年の元慶地震と887年の仁和地震、1703年の元禄地震と1707年の宝永地震を例に相模トラフと南海トラフが震源と推定される巨大地震が連続しており、1495年と1498年の地震も同様に連動した可能性が示唆される[31]

北条早雲が小田原城を奪取した時期には諸説あるが明応4年9月とする説が有力であり、明応4年8月に発生した地震津波によって小田原が壊滅的な被害を受け、その混乱に乗じて小田原城を奪取した可能性も考えられるとされる
さらに早雲は明応7年の東海地震後に伊豆半島西岸も占領した可能性があるという[31][32]

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明応7年6月11日の地震

『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『続史愚抄』など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)、畿内付近における大地震の記録がある
ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる[4]
一方、1854年の安政地震については京都付近は東海地震と南海地震は同程度の揺れであったと記録され、京都における震度は共に4 - 5程度と推定されている[2]

同日の巳刻(10時頃)に日向灘が震源とされる地震があり、宇佐美(2003)は別の地震と考えるとし[2]、『九州軍記』には以下のように記されている[33]

戊午六月十一日卯ノ中刻ヨリ九國ノ大地震隙ナク震フ巳ノ刻ニ至テハ天大ニ鳴渡リ地夥フ弥揀j震フ山崩テハ海川ニ入リ地裂テハ泥湧出ル神社仏閣ノ鳥居石碑過半ハ顛倒セリ民屋ハ一宇モ全カラス

(中略)

今度ノ地震ハ九國ノミニ不限四國中國畿内東海北國奥州ノ果迄モ殘ル所ナシ

詳細は「日向灘地震 (1498年)」を参照

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南海地震連動の可能性

明応地震の歴史記録は、東海・東南海地震のみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高い南海地震の記録を欠いたものとなっている
この時期は応仁の乱以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性が高いとされる[34]

1988年、高知県中村市(現・四万十市)四万十川支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から15世紀末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された
アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない
徳島県板野町の吉野川沖積低地では14世紀後半から16世紀初頭までに存続した集落跡の調査で、液状化現象による噴砂の痕跡が発見された[35]
加えて、愛媛県新居浜市の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、四国における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている[36]

また、明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)には九州において家屋倒壊被害の記録があり、伊予では陥没などの地変を筆頭に日向灘地震と推定される地震の記録があったが、同日には畿内でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている[37]
紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海地震の可能性が高く、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、蘇州で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり[38]、中国の江蘇省、浙江省では揚子江を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や安政南海地震でも観測されていることから、上述の日向灘地震は南海地震に含まれる、あるいは南海地震と連動した可能性も指摘されている[6][39][40]
これが事実ならば、南海地震が東海・東南海地震に73日先行して発生したことになる

一方で6月11日の地震を南海地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海地震および南海地震が連動した可能性も検討すべきとされる[41]
また、都司(1997)が南海地震の根拠としている上海付近のセイシュと推定される水面の震動は、南海地震に限らず安政南海地震の最大余震である豊予海峡地震の時も見られた[38]ことから、6月11日の地震はフィリピン海プレート内地震の可能性も考えられ、このプレート内地震が京都付近で強震動をもたらすことも充分有り得るとされる[42]

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関連項目

災害記念碑 - 常福寺津波流失塔(三重県鳥羽市国崎町)
災害記念碑 - 佐波神社(静岡県西伊豆町仁科)

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脚注

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出典

1.
a b 宇佐美龍夫(1986) (PDF) 宇佐美龍夫(1986): 東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震), 地震予知連絡会報, 35, 343-351.
2.
a b c d e f g 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
3.
a b 小山真人(2008) (PDF) 小山真人:(2008) 東海地震はどんな地震か?, 『地震防災』 学術図書出版, 1498年明応東海地震 -津波で外海とつながった浜名湖-
4.
a b c d e f 矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年
5.
Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482
6.
a b c d 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
7.
宇佐美龍夫 『日本被害地震総覧』 にあるM 8.2 - 8.4の中間値を採用
8.
a b 相田勇(1981) 相田勇(1981): 東海道沖に起こった歴史津波の数値実験, 東京大学地震研究所彙報, 56, 367-390.
9.
力武常次 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年
10.
中田高(2013) (PDF) 中田高, 徳山英一, 隈元崇, 渡辺満久, 鈴木康弘, 後藤秀昭, 西澤あずさ, 松浦律子(2013): 南海トラフ南方の銭洲断層と1498年明応地震,日本地球惑星科学連合2013年大会予稿集,SSS35-03.
11.
羽鳥徳太郎(1975) 羽鳥徳太郎(1975): 明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源, 東京大学地震研究所彙報, 50, 171-185.
12.
飯田汲事(1985) (PDF) 飯田汲事(1985): 3. 明応7年8月25日(1498年9月20日)の明応地震の震害と震度分布, 東海地方地震・津波災害誌
13.
a b 都司嘉宣(2011) (PDF) 都司嘉宣(2011): 歴史記録の上のミレニアム津波
14.
a b 都司嘉宣(2012) (PDF) 都司嘉宣,小網汪世(2012): [講演要旨]明応東海地震(1498)による、駿河湾沿岸の津波被害, 歴史地震, 第27号, 62.
15
a b 飯田汲事 (PDF) 飯田汲事: 5. 明応・慶長・宝永・安政・昭和の各東海地津波の比較
16.
菊地勇次郎 「高徳院」『国史大辞典5』 吉川弘文館、1984年
17.
家永遵嗣「北条早雲の伊豆征服」(初出:『伊豆の郷土研究』24集(1999年)/所収:黒田基樹 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7)
18.
羽鳥徳太郎(1977) 羽鳥徳太郎(1977): 27. 静岡県沿岸における宝永・安政東海地震の津波調査,地震研究所彙報,52, 407-439.
19.
都司嘉宣 『千年震災』 ダイヤモンド社、2011年
20.
藤原治(2010) (PDF) 藤原治,小野映介,矢田俊文,海津正倫,佐藤善輝,Vanessa Heyvaert(2010): 1498年明応地震による遠州灘沿岸浜名川流域の地形変化, 歴史地震, 第25号, 29-38.
21.
a b c d 矢田俊文(2005) (PDF) 矢田俊文(2005): [講演記録] 1498年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災, 『歴史地震』 第20号, 9-12.
22.
神奈川県公式サイト(明応型地震による津波浸水予測図)
23.
伊勢神宮に献上する熨斗あわびで知られる
24.
中日新聞2011/4/7 中日新聞 500年前の明応地震 識者「想定見直しを」
25.
日本経済新聞 2011年9月28日朝刊33面首都県経済「地域再生 震災が問う 安心への備え どこまでA集団移住、先人の教訓」
漁師の通いについては常福寺幸谷賢光住職談
26.
災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案 (PDF) 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案「1854年安政東海地震・安政南海地震」−明応7年(1498)東海地震による志摩国大津集落の高所移転−
27.
寒川旭 『地震の日本史 -大地は何を語るのか-』 中公新書、2007年
28.
熊谷博之(1999) 熊谷博之(1999): 浜名湖周辺での東海沖の大地震に伴う津波堆積物の調査, 地學雜誌, 108, 424-432.
29.
文部省震災予防評議会 『大日本地震史料 増訂』 1940年
30.
石橋克彦(1998) 石橋克彦、佐竹健治(1998): 総合報告:古地震研究によるプレート境界巨大地震の長期予測の問題点 -日本付近のプレート沈み込み帯を中心として, 『地震』 第2輯, 50, 231-243, JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/50.appendix_1
31.
a b 金子浩之「特集:首都直下地震」『日経サイエンス』2013年4月号
32.
金子浩之、戦国時代の伊豆
33.
武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年
34.
安藤雅孝(2005) (PDF) 安藤雅孝 「1605年慶長地震のメカニズム」『歴史地震』第20号、2005年
35.
寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年
36.
寒川旭 『地震 "なまず"の活動史』 大巧社、2001年
37.
国立天文台 『理科年表』 丸善、2012年版
38.
a b 宇津徳治(1988) 宇津徳治(1988): 日本の地震に関連する中国の史料, 『地震』第2輯, 41 , pp.613- 614.,JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/41.613
39.
都司嘉宣、上田和枝(1997): 明応(1498)南海地震の存在とその日付について, 地球惑星科学関連学会1997年合同大会講演予稿集, 169.
40.
2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓東京大学地震研究所
41.
石橋克彦(2002): フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震 -史料地震学による概要-, 京都大学防災研究所研究集会13K-7, 報告書, 1-9.
42.
石橋克彦 『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会-』 岩波書店、2014年
−−−
参考文献

『大日本地震史料 上巻』 震災予防調査会編、丸善、1904年
pp.151-157 国立国会図書館サーチ
『大日本地震史料 増訂 一巻』 武者金吉、文部省震災予防評議会、1941年
pp.446-459 国立国会図書館サーチ
『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1981年、pp.109-124
『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1989年、pp.44-56
『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1994年、pp.19-20
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺』 東京大学地震研究所、1999年3月、pp.6-8
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺二』 東京大学地震研究所、2002年3月、pp.8-31
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺三』 東京大学地震研究所、2005年3月、pp.15-29
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』 東京大学地震研究所、2008年6月、pp.7-26
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺五ノ上』 東京大学地震研究所、2012年6月、p.12

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===12==============

:鎌倉大仏を襲ったとされる津波について:naver:2013年08月14日:

案内 
翻訳 
原稿 http://matome.naver.jp/odai/2134689126864005201

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鎌倉の大仏は現在は野ざらしの状態になっていますが、以前は大仏殿の中にあり、その大仏殿は明応地震の際の津波で流されたとされています

更新日: 2013年08月14日
一杯のコーヒーさん

鎌倉大仏の仏殿は津波で流された?

鎌倉の大仏(高徳院)の仏殿は1498年の明応地震の際に、津波で流されたとされています

津波の情報は諸説ある

高徳院(鎌倉の大仏)の津波について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%B3%E9%99%A2

高徳院 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた
この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とするが、『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年)9月20日(明応地震)が正しいと考証されている

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鎌倉の大仏殿を襲ったとされる明応地震の検証開始

津波が鎌倉大仏まで至った「明応地震」検証へ
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110903-OYT1T00041.htm

東日本大震災後の想定見直し

鎌倉に14メートル超の津波も 神奈川が被害想定見直し
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120327/dst12032718580019-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/images/news/120327/dst12032718580019-n1.jpg

南海トラフ巨大地震による被害想定

近い将来に発生が予想されている南海トラフ地震によって、大仏自体が流されてしまうことが懸念されてします

鎌倉、最大10メートルの津波の恐れ 「大仏流されてしまうかも」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120830/dst12083007120004-n1.htm

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関連記事

鎌倉大仏の大仏殿を流した大津波は想定しなくていいのか?: 三日画師のかすかだり
http://mikkagashi.cocolog-nifty.com/kasukadari/2011/06/post-3929.html

鎌倉大仏の津波被害を忘れるな
/ Slownet -SNS-
http://www.slownet.ne.jp/note/detail/201104132353-3000000

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:世見:松原照子:2016/05/11:

案内 
翻訳 
原稿 

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災害につきましては勇気を持って今後も批判を気にすることなく書いて行くことに致しますが、書いている時は昨日までに自分が何を書いたのかを殆ど覚えていません
この「覚えていない」ことの意味を改めて考えて見ますと、同じことが何度となく出て来るところは“要注意”のように思えてまいりました
書かせていただく災害につきましては、お読みいただく皆々様はご心配をなさらずに「備えあれば」と受け止めて下されば、私も今までにない書き手になれると思いますので、今後共にどうかよろしくお願いいたします
又、有料サイト『月刊SYO』も併せてお読みいただけますと、私の本音もおわかりいただけると思います
地球に住む私達は地球家族です
私が書かせていただくことでほんの少しでも心が和まれると嬉しく思いますし、そのことが70才を目の前にした私の生甲斐でもあります
偉大なる御方のイエス・キリスト様も人間として生きておられました
イエス様がユダヤ教をどのように感じたかはわかりません
モーゼが示した律法が人々の心をどのように育てたのかもわかりません
ただ、不思議な世界の方から教えられた一説には心をうたれました

「心の汚れは 伝染する」

この言葉って奥が深く思いませんか
ユダヤ教では、不浄に関することの教えが明確に法で定めていると言います
どのように素晴らしい教えも、学ぶ側の捉え方によっては本来の教えと違うことにもなります
清めの儀式には生贄を捧げることもあった時代がありました
もしかすると、現在も「いけにえ」的な考えがテロにあるとしたら悲しいことです

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===14==============

:世見:松原照子:2016/05/16:

案内 
翻訳 
原稿 

−−−−−−−−−−−−−−−−−
月初めに必ず感じ取ることに決めた災害についてですが、決して当てるのが目的ではありません
東日本大地震後、災害について書くことに対して、私の心の中にかなり臆病風が吹いていたので控え目でした
ただ、この度の熊本大地震を見ていて感じたことで書くことに決めました
だからと言って全てが起こるとは思ってもいません
そこで、お読み下さるあなた様にお願いなのですが、私が書くことが何度も出て来るのかどうかをチェックしていただきたいのです
申し訳ありませんが、今日の前日の世見までは会員様以外お読みいただけません
私自身、恥ずかしながら自分のブログを見られません
パソコンの操作が出来ないからです
会の規約にも、会員様しか前日以前の掲載記事は読めませんと記しているようです
その為に会員様以外の皆様には当日しか私の文章をお読みいただけません
ごめんなさい
私が出来ることは何があるのかわかりませんが、強風は年々強烈になりますし、お山が火を噴くかもわかりません
地震も起きるのが当たり前になっています
干ばつがやって来るかもしれません
洪水 土砂災害 津波は山でも起きます
私は東日本大地震後、実に申し訳ないことを続けてしまっていました
災害が気になると、ついつい我身が住む関東を中心にして見る癖が付いていました
それ故に「大丈夫」と云う言葉は関東でのことへの思いが強かったのです
でも、これからは日本だけではなく世界中にも目を向けてまいりますので、どうかお読み下さるあなた様が私の感じる力をアップさせる意味でも「ガバジャラミタ」とエネルギーを送ってくださいませ

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===15===============

:慶長大地震:wikipedia:

案内 
翻訳 
原稿 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87

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慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震
慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう
ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されている

なお、1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、豊後地震を9月1日とするものもある
また、1605年慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され[1][2]、さらに従来三陸沖が震源とされてきた1611年の地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出されるなど[3]、震源域に諸説あって不明なものも多い

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慶長年間の主な地震

慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震
M 7.0、寺社倒壊等
中央構造線沿いで発生したと推定される地震

慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震
M 7.0?7.8、死者700人以上
中央構造線と連続している可能性もある、別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる

慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震
M 7.0?7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上
伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く
有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる
上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある

慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある
M 7.9?8.0、紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4?8.5ともされる
津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1?2万人を数えた

会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震、M 6.9
寺社損壊、死者約3,700人
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)
ただし、津波の痕跡の範囲などからこの従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹(北海道太平洋)沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある
この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大
地震被害の記録はほとんど無い
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震
従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明

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出典
1.
松浦律子(2013): 1605年慶長地震は南海トラフの地震か?, 第30回歴史地震研究会(秋田大会)
2.
石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21?03
3.
平川一臣(2012) (PDF) : 千島海溝・日本海溝の超巨大津波履歴とその意味, 応用地質学会北海道支部, 札幌
4.
今村 明恒(1946): 大寳元年及び慶長元年の陷沒性本邦大地震に就て, 帝國學士院紀事, Vol.4 (1946) No.3 P369-384
5.
永島福太郎(1997): 世紀末と慶長大地震, 日本歴史 (584), 89-91, 吉川弘文館
6.
谷弥兵衛(2001): 吉野材木業史試論, 林業経済研究 47(2), 1-8.
7.
大森房吉(1920): 有馬温泉ノ温度變化ニ就キテ, 震災豫防調査會報告, 88(丙), 34-39.
8.
内藤昌, 大野耕嗣, 高橋宏之(1971): 伏見城(II):武家地の建築:近世都市図屏風の建築的研究:洛中洛外図・その4, 日本建築学会論文報告集 (182), 65-75, 90.
9.
渡辺偉夫(1983): 改訂日本およびその周辺の津波の表, 地震 第2輯, Vol.36 No.1, 83-107, JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/36.83
10.
杉本賢司(2011): 巨大地震の調査と対策(建材探訪) , Finex 23(136), 38-42, 日本建築仕上学会
11.
飯沼勇義 『仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う』 宝文堂、1995年

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