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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

「天」太陽の投稿記事

『終末と太陽の検証』

その他・つれづれ・近況 NO 90026


MFコメント 2008/07/13

過日、田舎へ帰り、墓の手入れをした。
その理由は 下記にも掲載されているが、我が家の墓
は 土葬形式の墓であることによる。
今は 火葬が本流であるから、土葬の墓と云われても
分からない方たちが多い。
現代の火葬形式の墓の側に、代々の墓の側に、墓の2
〜3倍くらいの土葬エリアがある。
死ぬと、一連の葬儀の後、死体は 土葬のエリアに埋
められる。
そうすると、日本の湿気のある土質では 半年もする
と白骨のみになる。
その白骨を掘り出し、その骨を荼毘に付す。
そうすると、火葬にしたと同じような骨の状態になる
ので、それを骨壺にいれ、先祖代々の墓に入れること
になる。
この土葬エリアは ただの広場のような存在であるた
めに、土葬エリアという神聖な地域なのにそれを知ら
ない無知な不届き者たちがゴミ捨て場にしてしまうの
である。
問題は 先祖代々の墓の近くに住んでいてしばしば墓
参りをしていればゴミ捨て場にするような不心得者の
付け入ることも少ないが、家族全員が古里を離れて生
活している現在では それが困難となり、神聖な土葬
エリアがゴミ捨て場と化してしまうことである。
そこで、代々の墓と土葬エリアを囲む柵を作り、ここ
は ゴミ捨て場でないと云う意志表示と家紋入りの物
置を設置して、牽制できるように対策しにいったもの
である。
この効果は 将来の墓参りに行ったときの様子で分か
るが、困ったものである。
私の両親は 既に亡くなり、随分前に土葬できないよ
うにコンクリ−トで固めているので昔の土葬形式では
なく、現代の火葬形式で実施され荼毘にふされこの墓
に納骨されている。
このような日本の葬儀などの背景を知っていれば、下
記の日本人の家族観の記述も納得いくのではないかと
思うのである。
土から戴いた食物をいただき、死して、土葬され土に
帰っていくのである。
それは 自らの身体を材料にして天地を想像した大神
の基に帰ることに他ならないし、このことをひふみで
は幾度も説明しているのである。
蛇足であるが、土葬しているころは 墓の近くで火の
玉を見ることが多かった。
その理由は 土葬されている死者の骨から燐が出た
り、腐敗している死体から発生するガスが燃えて光る
もので、雨降りの夕方などは ポ−ポ−と火の玉が墓
の周囲を飛ぶことになるからである。
ただ、火葬オンリ−になった墓地では これらの現象
も最近は 見られなくなったようである。

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■■ Japan On the Globe(556)■ 国際派日本人養成講
座 ■■■■
国柄探訪: 日本人の家族観

先祖から子孫への連綿たる生命のリレーの中間走者と
して自分がいる。

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■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体
感」■

秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が
自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。
父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を
述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭を
うなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくな
った。

両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた
道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感
覚であろう。

かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の
前に晒す、という異常な事件が起きた。
これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉
教授は、こう書いている。

・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、
自裁(自殺)をする可能性がある。
私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立し
た人格であるというような、欧米人流の個人主義的行
動をとることはとてもできない。
それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処
置する可能性さえある。[1,p6]

殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がい
ても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の
沙汰」とは見なさない。

加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運
命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは
絶対に生まれない感覚や意識」だとする。

こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧
米とはまったく異なるという事が窺われるのである。

■2.家族観の違い■

日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも
随所に姿を現す。

たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が
広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とす
る宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサイ
ンまでするというのは、どうにも違和感がある。
日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビ
ジネス行為であって、それが家族の中で行われるとい
うのは、どうしてもなじめない。

欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個
人間の契約を基盤としている。
そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。

また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでも
なれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。
ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人と
してつきあっていこう」などと語るシーンが出てき
て、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と
感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なけれ
ばならない、などという義務感は薄い。
子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人た
ちはいかにも淋しげである。

実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時
代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先
の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのであ
る。
それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観
はその伝統を色濃く受け継いだものである。

■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている

古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が
祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られる
ものと信じた。
日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれ
るのである。

「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不
安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続
け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与
えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててく
れた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、という
のは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であっ
た。

先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対
神として祀る、ということではなく、先祖の霊ととも
に生きている、という生活感覚なのである。
それがわが国においては古神道となり、中国において
は儒教に発展した。

キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂
は天国か地獄に行く。
仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、
次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀
などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂
がどうなるか、ということについては、それぞれが違
う「物語」を持つ、というだけのことであって、どち
らが高等かなどと比較できるものではない。

■4.インド仏教と先祖祭祀の生死観の違い■

魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしま
う、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国
や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝
突を引き起こした。

インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生ま
れ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗
り物に過ぎない。
だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしま
う。
これが本当の火葬である。

日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾
い、墓に収める。
これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なので
ある。
古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と
呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼ん
だ。
人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に
行く。
「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。

これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死
者の「魄」を感じる。
戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集
に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄
を供養できないと考えるからだ。

これについて興味深い話がある。
昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北
朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7
(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」と
いう気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日
本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬さ
れることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づ
くと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底
には日本人の死生観が根づいている証左である。

■5.拒否された仏教の死生観■

輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、
遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先
祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるも
のではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の
魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れ
た。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このよう
に先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになってい
たので、比較的抵抗は少なかった。

それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人
はいた。
鎌倉時代初期の親鸞である。
親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがっ
て、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると
説いた。
となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・
墓・先祖供養を続けた。
その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、
葬儀や先祖供養を行っている。

今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているの
は、墓・葬儀、先祖供養である。
そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は
例外的であろう。
これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いてい
るのである。

■6.仏壇に向かう■

仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。
中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)
という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。
これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)とな
り、それを仏教が取り入れた。

日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さら
にはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるよ
うになった。
各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもな
い、日本独特のものであるそうだ。
[1,p191]

仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。
灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、
明るくするためのものである。
線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りて
きて、位牌に依りつく。

そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に
対して
「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろ
しくお願い申し上げます」
などと挨拶をするのである。

今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなっ
たご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応え
て、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろう
と、心を新たにする。
これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。

核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。
しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時など
は、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良
い。
幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。
自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということ
を教える何よりの機会である。

■7.「出家」と「在家」の衝突■

もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突
した点は、出家を説いた点である。
「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家
族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることで
ある。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の
霊を祀る子孫がいなくなってしまう。
個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫
の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでも
ない「不孝」と考えられたのである。

そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族
の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。
聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩
経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(し
ょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をと
りあげて注釈書を書かれた。

前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでお
り、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけ
ている。
今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を
営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修
行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説い
た。
それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたち
を、親が返せと叫ぶ。
これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。

■8.家族制度は利己心の抑制力■

「在家」とは、家族の一員として生きていくことであ
るから、まことに不自由なものである。
「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅
を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育
てられて、大人としての生活を送る能力を身につけて
いく。
まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人
として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なので
ある。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝
や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人
間に育てる義務を学ぶ。
このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や
義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の
利益しか考えない利己主義者になってしまう。

西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに
個人の自由と権利の拡大を図ってきた。
しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れ
があり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力と
なってきた。

わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑み
にして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制
度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への
抑止力となってきたのであり、それを破壊すること
は、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与
えることになる。
都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な
姿ではないのか。

■9.「なぜ生命は大切なのか」■

こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を
大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝
わらない。
それがわが国の家族観に従えば、
「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様か
ら君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫
に受け継いでいくべきものなのだから」
と教えることができるのである。

先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化し
た「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、そ
れらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのであ
る。
そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの
中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一
言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともで
きずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人
ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢
雅臣)

■リンク■
a. JOG(528) 正月行事と先祖の祈り
正月は子孫に無病息災と豊穣をもたらす歳神様を
お迎えする
時。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog528.html
b. JOG(374) いのちの結び〜 現代科学と日本文明
現代科学の自然観は、日本古来からの世界観に近
づいている。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog374.html
c. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの
ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた
「まがたま」
に秘められた宗教的・政治的理想とは

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog1
71.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向
け)
   →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛
びます。

1. 加地伸行『家族の思想』★★、PHP新書、H10
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22


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