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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

「天」太陽の投稿記事

『終末と太陽の検証サイト』より転載

大数学者岡潔の予言情報NO n440001

−−−−コメント 2012/01/03−−−−

{新44_その他の予言_大数学者の岡潔の予言_01}

0294・大数学者の岡潔博士は 預言者?2012年にアマテラスが降臨する

コメント

 今まで知らなかったのであるが、日本を代表した大数学者の岡潔博士は 幾つもの予言的な内容を残しているようです
ただ、問題は 彼の予言を一覧にしたようなサイトが見つからず、下記の内容について原書を確認できなかった

・・・・
 実は、日本人でこれに似た科学者もいた
それが、日本を代表した大数学者の岡潔博士であった
岡博士は時々夜の内に部屋を抜け出し、どこかの野原で過ごしたという奇妙な伝説がたくさん残っている
そして、「2012年にアマテラスが降臨する」という謎の予言も残している
ところが、岡潔博士には、ある可愛らしい少女が見え、いつもその少女が手招きしていっしょに散歩しただけだというような話を返答したというのである
いったいこの「少女」とは何だったのか?その少女が時に未来を見せてくれたというのである
・・・・・

この中で、「2012年にアマテラスが降臨する
」、来年のいつ頃かは分からないが、宇宙のどこからかは分からないが、アマテラスが地上へ降臨すると言うことである
年代は 未確認ながらアマテラスとは 3_<天照大神(あまてらす・おおみかみ)>の事であろうと調べてみた
ここで問題は アマテラス=天照大神であるとすると、天照大神が男神なのか?女神なのか?と言うことを知る必要が出てくることである
3_<天照大神(あまてらす・おおみかみ)>によれば、女神であるとのことである
私が、予言された女王の地球への到着を待つていることは 私の情報からご存知の方もいると思う
この女王の到着を待って、何らかの活動を開始することになると考えているからである
ただ、殆どの予言からは 女王が地球へ到着(当然、それなりのサイズのUFOに登場して人型の生物に搭乗しているであろうと考えている)の予言的な情報はみつかっていない
もし、最近気が付いた岡潔博士の予言が本物であるのなら、そのアマテラスが、予言された女王と考えられるからである
(「諸世紀」も降臨、アマテラスも降臨であれば共通しているところがある)「予言された女王」の情報を十余年探していたが分からないはずである
まさか、日本を代表した大数学者の岡潔博士と言われ、予言などは語っていても殆どの人は 余興位にしか受け取らないので、私の所などへは 情報が到着するはずも無しということである
この推論が正しくて、岡潔博士の「2012年にアマテラスが降臨する
」が本物であるのなら、来年には 彼女に会えそうである
そして、前年の2011年の末頃になって、私が気が付いたことは 言い換えれば、いよいよの時期が来ていることを意味していることかもしれないし、来年の地上は 思いがけないドタバタ騒ぎになりそうである
そうであれば、待ちこがれた方にあえると思うし、「貴女か!分けの分からない所から、私の頭の中をかき回していたのは!それでどうゆう手順で始める?」と質問したいものだと考えている今日この頃である
今の住居は 避難地と考えているが、「避難地に女王が手下をつれて来る・・」が実現するのかもしれない

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NO n440001参考資料の目次

001:<「沈黙の年」:人はなぜ啓示を受けるのか?だれが与えるのか?実に不思議だ?>
002:<岡潔出典: ウィキペディア(Wikipedia)>
003:<天照大神(あまてらす・おおみかみ)>

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参考資料の詳細

001:<「沈黙の年」:人はなぜ啓示を受けるのか? だれが与えるのか? 実に不思議だ?>


http://quasimoto.exblog.jp/17066680/

あなたにはあなた自身を抹殺する権利はない
あなたはあなたのものではなく、宇宙のものである

バックミンスター・フラーの受けた啓示
バックミンスター・フラー(マーティン・ポーリー著)より
みなさん、こんにちは
風雲急を告げてしまった、この日本・この世界、あまりにいろいろなことが起きすぎてETの手も借りたいほどである
さて、今回はちょっと趣きを変えて、私個人がいつも不思議だと感じていることをメモしておこう
その昔、というより、いわゆる聖書生誕以前の時代、モーゼという人物がいたというのは有名な話だが、残念ながらこのモーゼ自身については私はあまりよく知らない
しかし、ある時、「モーゼの十戒」The Ten Commandments (1956): "Prelude" by Elmer Bernstein

モーゼの十戒

主が唯一の神であること
偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
神の名を徒らに取り上げてはならないこと
安息日を守ること
父母を敬うこと
殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
姦淫をしてはいけないこと
盗んではいけないこと
偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
隣人の家をむさぼってはいけないこと
の出来事として後世に知られるようになった出来事が起こったということは知っている
ある時、自分の人生に絶望し一人で立ちすくんでいる時、突然自分の心の中に何ものかの声が響く
そしてその声に連れられていくと、驚くべき啓示を受ける
すると、これまでの謎や混乱がうそのように晴れ、これからの自分の生きて行く道筋がはっきり見えるようになる
モーゼの場合は、雷電と共に、石版に「十戒」が刻まれた
そして、モーゼの民のリーダーとなり、出エジプトを果たす
とまあ、こんなストーリーである
私がいつも不思議に思うこととは、このストーリーと非常に似たような経験を西洋人(コケイジアン)の中ではしばしば受ける人間がいるのはどうしてだろうか?ということである
20世紀でだれよりもこれに近かったのは、アドルフ・ヒトラーとリチャード・バックミンスター・フラーの2人である
もちろん、他にも大なり小なり似たような人々がいる
例えば、デービッド・アイクもそういう1人であると言える
ヒトラーの場合、若き青年ドイツ兵として第一次世界大戦の時に従軍
その敗戦の悲惨な状況下で、「ある存在」に出会う
その「存在」の言う通りに行動すると、過酷な戦乱の中を生き延びることができた
それ以来、その謎の存在が身体に取り憑き、離れなくなる
その存在は自分の言う通りにしろ、そうすれば、お前は世界史を変えるというようなことをいう
そして、この体験の後は、それまでのヒトラーとは全く別人として生まれ変わった
そして、だれにも知られた、独裁者アドルフ・ヒトラー総統へと変貌して行った
一方、リチャード・バックミンスター・フラーはどうかというと、フラーは大学は2度の退学
従軍して事業を興すが、あまりうまく行かず失敗
スペイン風邪で最初の娘を失い、今度は1920年代の世界恐慌に巻き込まれ、最後の事業も失敗
すべてを失う
あとは自殺するだけだとミシガン湖に趣いた
身を投げようかという時、頭の中で声がして、「ある幻影」が見えた
そしてその「幻影」がこういったという
あなたにはあなた自身を抹殺する権利はない
あなたはあなたのものではなく、宇宙のものである
それでフラーは自殺を思い留め、それから「沈黙の1年」の間、だれとも口をきかず、妻とも話さず、無言で一心不乱に勉強や読書や思考や創作に没頭した
そして、1年が経つと、「フラーは全くの別人となって現われた」というのである
それからは、我々が知るバックミンスター・フラーとなる
ついでにメモすれば、デービッド・アイクの場合も似ている
イギリスのプロサッカー選手で駆け出したが怪我で引退
スポーツキャスターとして有名になる
それで、グリーンピースのメンバーになり救済地に趣く
そこで現実の南北問題を目の当たりにする
どうしたものかと世界中を旅している時、南米の地で、一人で瞑想していると突然電撃が脳天から襲う
その電撃の存在から、この宇宙はハーモニーでできている
全ては愛である
そのバイブレーションの現れなのだ
というようなメッセージの啓示を受ける
この特別な1年の後にアイクが、イギリスのマスコミに登場した時は、それまでのスポーツキャスターとは全くの別人となり、世界の陰謀を暴露する救世主のような人物に変身していたのである
それ以来、アイクはこの世界の支配者の構造を世界中で説き回るようになった
さらに付け加えれば、イエス・キリストの物語も似たようなものである
また、「宇宙人ユミット」の本を書いた、フランス人理論物理学者のジャン・ピエール・プチ博士の場合も、ある時期から枕元にへんな存在が立つようになり、それ以来、まるで自分が大天才になったかのように、それまで一度も学んだことがない分野でもどんどん論文にできるアイデアが生まれるようになったと書いている

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実は、日本人でこれに似た科学者もいた
それが、日本を代表した大数学者の岡潔博士であった
岡博士は時々夜の内に部屋を抜け出し、どこかの野原で過ごしたという奇妙な伝説がたくさん残っている
そして、2012年にアマテラスが降臨する
という謎の予言も残している
ところが、岡潔博士には、ある可愛らしい少女が見え、いつもその少女が手招きしていっしょに散歩しただけだというような話を返答したというのである
いったいこの「少女」とは何だったのか?その少女が時に未来を見せてくれたというのである
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この現象はどのように理解したらいいのか?というのが、私がいつも不思議に感じていることなのである
どうしてこういうことが起こるのか? 「謎の存在」、「幻影」、「天使」などなど、こういう姿で登場し、実に適切な啓司やメッセージ、時には、人類の未来をかいま見せてくれるらしい、かなりおせっかいな存在とはいったいなんなのか?これを知りたいのである
連中は宇宙人、エイリアン、ETなのか? あるいは、神や天使なのか? あるいは、悪魔やその化身なのか?一体何か?
とまあ、こんな風なことに私は実に興味を持っているために、「ETの手も借りたい」というようなフレーズを時々付けるというわけだが、まったくその予兆はない
おそらく、1つの脳構造の違いか、1つの脳の成長過程か、あるいは、単なるひらめきなのか、あるいは、1つの才能のようなものであるのかもしれないです

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002:<岡潔出典: ウィキペディア(Wikipedia)>


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%BD%94

岡 潔(おか きよし、1901年4月19日 - 1978年3月1日)は、日本の数学者
奈良女子大学名誉教授
理学博士(京都帝国大学、1940年)
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目次
1 略歴
2 受賞歴・叙勲歴
3 生涯
3.1 通史
3.2 数学者としての挑戦
3.3 教育者の側面
3.4 性癖
4 主著
4.1 共著
4.2 論文集
4.3 公表論文
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
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略歴
1907年4月 柱本尋常小学校入学
1913年3月 柱本尋常小学校卒業
1913年4月 紀美尋常高等小学校高等科へ進む
1914年4月 和歌山県立粉河中学校入学
1919年3月 和歌山県立粉河中学校卒業
1919年9月 第三高等学校理科甲類入学
1922年3月 第三高等学校卒業
1922年4月 京都帝国大学理学部入学
1923年3月 二年生進級時に、それまで物理学志望だったのを数学志望に変更
1925年3月 京都帝国大学理学部卒業
1925年4月 京都帝国大学理学部講師
1927年4月 第三高等学校講師兼任
1929年4月 京都帝国大学理学部助教授 フランスに留学 ソルボンヌ大学ポアンカレ研究所に通う
1932年3月 広島文理科大学助教授
1932年5月 留学終え帰国
1935年1月 前年の暮れ 多変数解析函数の分野の現状を展望したベンケ、トゥルレン共著の冊子を入手、ここで取りあげられた問題の解決に取り組む
1935年9月 数学上の最初の発見があり、これを元に論文TからXまで次々に成る(論文Tは1936年5月、広島文理科大学紀要に発表)
1938年1月 広島文理科大学休職
1940年6月 広島文理科大学辞職
1941年10月 北海道帝国大学理学部研究補助嘱託
1942年11月 北海道帝国大学理学部研究補助辞職
1949年7月 奈良女子大学理家政学部教授(のち、理学部と家政学部が分離し、 理学部教授)
1951年10月 論文[を発表
1953年10月 論文\を発表
1954年4月 京都大学理学部非常勤講師を兼ねる
1962年9月 論文]を発表
1964年3月 奈良女子大学定年退職 京都大学非常勤講師退職
1964年4月 奈良女子大学名誉教授 奈良女子大学非常勤講師
1969年4月 京都産業大学教授[1]
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受賞歴・叙勲歴
1951年 日本学士院賞
1954年 朝日文化賞(多変数解析函数に関する研究)[2][3]
1960年 文化勲章
1963年 毎日出版文化賞
1973年 勲一等瑞宝章
1978年 従三位
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生涯
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通史
岡潔は1901年4月19日に大阪府大阪市で生まれた[4]
父祖の地は和歌山県の山村、和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)である
1925年、京都帝国大学卒業と同時に同大学講師に就任、1929年、同大学助教授に昇進
1929年より3年間、フランスに留学
1932年、広島文理科大学助教授に就任したが、1938年、病気で休職、のち辞職
郷里にもどり、孤高の研究生活に身を投じた
1941年秋から翌年にかけて北海道大学に赴任
札幌市在住の、終生に亘る心腹の友であった中谷宇吉郎と旧交を暖めた
後、再び帰郷し、郷里で終戦を迎えた
1949年、奈良女子大学教授に就き、1951年から晩年までは奈良市に住まいした
奈良市名誉市民
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数学者としての挑戦
フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数解析函数論に出会うことになる
当時まだまだ発展途上であった多変数解析函数論において大きな業績を残した
一変数複素関数論は現代数学の雛型であり、そこでは幾何、代数、解析が三位一体となった美しい理論が展開される
現代数学はこれを多次元化する試みであるということもできよう
解析の立場から眺めると一変数複素関数論の自然な一般化は多変数複素関数論であるが、多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう
これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡潔である
具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう
および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した
岡はその過程で不定域イデアルという概念を考案したが、アンリ・カルタンを始めとするフランスの数学者達がこのアイデアをもとに層という現代の数学において極めて重要な概念を定義した
また、(解析関数に関する)クザンの第2問題が解けるためには、それを連続関数の問題に置き換えた命題がとければよいとする「岡の原理」も著名である
その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという
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教育者の側面
京都大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている [5]
一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った
広中平祐も、多様体特異点の解消問題を、制限条件を付けて学会発表した
その時、岡潔が立ち上がり、問題は一般的に制限なしで解かなければ解けないと言った
その後、広中は制限なしで解き、フィールズ賞の成果となる
京大の講師をしているとき、学生が黒板いっぱいに式を書き、岡は数学ではないと言って、教授会か何かのために飛び出したそうである
その会で、岡は問題を考え続け、みんなが立ち上がった時、そのままだったので、秋月康夫(代数幾何の闘将)が岡の腕を持って立ち上がらせた
その場で、岡は短い本質をえぐる答えを得たということである
奈良女子大退官後、京都産業大学の教授となり、「日本民族」を講義した
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性癖
岡は仏教を信仰しており、特に弁栄に帰依していた
岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した
岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている
三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている
岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい
この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる
作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲『雨のひまわり』を製作するために密着取材をした事があり、著書『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している
藤本によると、岡は起床してすぐ自己の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという
プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察 - 例えば、柿本人麻呂の和歌を見ると、内容は元より人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで自論を展開 - するのだが、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」等と怒鳴る有様であった
岡のこの行動を見た藤本は「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている
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主著
春宵十話、毎日新聞社、1963年 のち角川文庫、1969年
のち改訂新版、毎日新聞社、1972年
のち光文社文庫、2006年 ISBN 4-334-74146-0
風蘭、講談社現代新書、1964年
紫の火花、朝日新聞社、1964年
春風夏雨、毎日新聞社、1965年
のち角川文庫、1970年
のち毎日新聞社、1972年
月影、講談社現代新書、1966年
春の草 私の生い立ち、日本経済新聞社、1966年
春の雲、講談社現代新書、1967年
日本のこころ、講談社〈思想との対話;2〉、1967年
のち講談社〈名著シリーズ〉、1968年
のち講談社文庫、1971年
一葉舟、読売新聞社、1968年
のち角川文庫、1971年
昭和への遺書、月刊ペン社、1968年
のち再版、1975年
日本民族、月刊ペン社、1968年
のち再版、1975年
葦牙よ萠えあがれ、心情圏、1969年
神々の花園、講談社現代新書、1969年
曙、講談社現代新書、1969年
岡潔集 全5巻、学習研究社、1969年
わが人生観〈1〉、大和出版販売、1972年
心といのち、大和出版〈わが人生観〉、1984年 ISBN 4-8047-3000-1
岡潔 日本の心、日本図書センター〈人間の記録;54〉、1997年 ISBN 4-8205-4297-4
情緒の教育、燈影舎、2001年 ISBN 4-924520-44-6
情緒と創造、講談社、2002年 ISBN 4-06-211173-X
日本の国という水槽の水の入れ替え方 憂国の随想集、成甲書房、2004年 ISBN 4-88086-163-4
岡潔/胡蘭成、岡潔・胡蘭成、新学社〈新学社近代浪漫派文庫;37〉、2004年 ISBN 4-7868-0095-3
情緒と日本人、PHP研究所、2008年 ISBN 978-4-569-69552-5
共著 [編集]対話人間の建設、小林秀雄、新潮社、1965年、新版1978年、新潮文庫、2010年3月 ISBN 978-4-10-100708-3
心の対話、林房雄、日本ソノサービスセンター、1968年
論文集 [編集](1984) KIYOSHI OKA COLLECTED PAPERS. Springer-Verlag. ISBN 0387132406. / 1998. ISBN 3540132406
公表論文 [編集]Oka, Kiyoshi (1936). “Domaines convexes par rapport aux fonctions rationnelles”Journal of Science of the
Hiroshima University 6: pp. 245-255. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1937). “Domaines d'holomorphie”Journal of Science of the Hiroshima University 7: pp. 115-130. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1939). “Deuxieme probleme de Cousin”Journal of Science of the Hiroshima University 9: pp. 7-19. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1941). “Domaines d'holomorphie et domaines rationnellement convexes”Japanese Journal of Mathematics 17: pp.
517-521. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1941). “L'integrale de Cauchy”Japanese Journal of Mathematics 17: pp. 523-531. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1942). “Domaines pseudoconvexes”Tohoku Mathematical Journal 49: pp. 15-52. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1950). “Sur quelques notions arithmetiques”Bulletin de la Societe Mathematique de France 78: pp. 1-27. PDF

TeX
Oka, Kiyoshi (1951). “Lemme fondamental”Journal of Mathematical Society of Japan 3: pp. 204-214, pp. 259-278. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1953). “Domaines finis sans point critique interieur”Japanese Journal of Mathematics 27: pp. 97-155. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1962). “Une mode nouvelle engendrant les domaines pseudoconvexes”Japanese Journal of Mathematics 32: pp. 1-

12. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1934). “Note sur les familles de fonctions analytiques multiformes etc.”Journal of Science of the Hiroshima

University Ser.A 4: pp. 93-98. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1941). “Sur les domaines pseudoconvexes”Proc. Imp. Acad. Tokyo 17: pp. 7-10. PDF TeX
Oka, Kiyoshi (1949). “Note sur les fonctions analytiques de plusieurs variables”Kodai Math. Sem. Rep. Nos.5-6: pp. 15-18.

PDF TeX
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脚注
「略歴」の記述は「岡 潔 略年譜」、岡潔『情緒の教育』、株式会社燈影舎、2001年11月1日、296ー299頁
“朝日賞:過去の受賞者”. 朝日新聞. 2009年11月3日閲覧
高瀬正仁(2008:31) 岡潔文庫の年譜 朝永振一郎「わが師・わが友」 岡潔と秋月康夫に関する記述 http://wiki.yukawa100.org/index.php?%B2%AC%B7%E9%A4%C8%BD%A9%B7%EE% B9%AF%C9%D7%A4%CB%B4%D8%A4%B9%A4%EB%B5%AD%BD%D2 湯川秀樹の岡の教育についての記述もある
参考文献 [編集]帯金充利 『天上の歌 岡潔の生涯』 新泉社、2003年3月
ISBN 4-7877-0306-4
高瀬正仁 『評伝岡潔 星の章』 海鳴社、2003年7月
ISBN 4-87525-214-5
高瀬正仁 『評伝岡潔 花の章』 海鳴社、2004年4月
ISBN 4-87525-218-8
高瀬正仁 『岡潔 数学の詩人』 岩波書店〈岩波新書〉、2008年10月
ISBN 978-4-00-431154-6
吉行淳之介「奇人外伝」(『不作法対談』 角川書店〈角川文庫〉、1973年
) −−−−−−−−−−−
関連項目
好人好日:岡をモデルにした数学者をえがいた1961年の日本の映画

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外部リンク
岡潔文庫
Kiyoshi Oka in The MacTutor History of Mathematics archive (英語)

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003:<天照大神(あまてらす・おおみかみ)>


http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/amaterasu.htm

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天照大神(あまてらす・おおみかみ)は日本の神様の中で最高神の地位を占める神様で、太陽の神であり、高天原(たかまがはら)の主宰神です
古来より男性神説と女性神説とがありましたが近年は女性神説が有力です
その根拠の一つは日本書紀の神代(上)の巻で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神を「姉」と呼んでいるところによります
(古事記には性別を匂わす記述はありません) また弟の乱暴に起こって天岩戸(あまのいわと)に閉じ篭ってしまうというエピソードも女性的です
男性神説を取る人たちは、これを推古天皇即位をスムーズに行なうために「こんな偉い女性の神様がいるのだから女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため蘇我一族あたりが捏造したものである、と主張しているようです(ただし推古天皇以前にも清寧天皇崩御の後、顕宗天皇と仁賢天皇が互いに譲り合って天皇が定まらなかったため、飯豊皇女が事実上の天皇として執務なさったことがあります
またそれ以前に神功皇后の例もあります)
まぁ男性中心主義者の「最高神が女だとはけしからん」調の議論は論外ですが
しかし、もともと日本は農耕民族で女系社会ですので、私は最高神が女性神であるのはむしろ自然なことではないかと考えます
天照大神はイザナギの神から生まれました
この話はイザナギの神の所にも出ましたが、イザナギ神が亡き妻イザナミ神を慕って黄泉の国に行くも、結局逃げ帰り、その時戻ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます
この三柱の神を三貴子といいます
そして イザナギ神の指示で天照大神は高天原を治め、月読尊は夜の世界を治め、須左之男命は海を治めることになります
しかし須左之男命は泣いてばかりいて全く仕事をせず、イザナギ神に自分はイザナミ神のいる根の国に行きたいといいます
イザナギ神が呆れて須左之男命を海から追放すると、須左之男命は姉に別れを告げてから根の国に行くと行って高天原におもむきます
ところがこの時の須左之男命の勢いが凄まじかったため、天照大神は須左之男命が高天原を乗っ取りに来たのかと武装して待ち受け、須左之男命に対峙して「何をしに来たのだ」と問いただします
これに対して須左之男命は自分は単に別れを言いに来ただけで他意は無いといいます
そして子供をもうけてその証を立てましょうということになり、細かい話は省略しますが、須左之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)から宗像の三柱の女神、天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)から天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱の男神が生まれたため、須左之男命はこの誓約(うけい)に勝ったことになり、高天原にしばらく滞在を許されます
ところが須左之男命は元々荒っぽい神である為、高天原滞在中にたんぼの畦道は壊すわ、神殿に糞はするわ、乱暴な行ないを続けます
最初は天照大神も弟のことだからいろいろとかばっていましたが、やがて天照大神の配下の機織娘が須左之男命の乱暴のために事故死するに至って、とうとう機嫌を損ねて、天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまいます
太陽神に隠れられてはたまりません
世の中真っ暗闇になってしまいました
そこで困った神々は一計を案じ、岩戸の前に八尺勾玉をさげ、八咫鏡(やたのかがみ)をぶらさげて、天宇受売神(あめのうずめのかみ)がその前で踊りを踊りました
その踊りが余りおかしかった為、居ならぶ神様はどっと吹き出します
その笑い声を聞いた天照大神は「いったい何事?」と少し岩戸を開けて様子を見ようとしました
すると天宇受売神が「あなた様よりもっと尊い神様がいらっしゃったのです」といいます
そして天児屋命と布刀玉命が鏡をそばに寄せますと、そこに映った自分の姿が輝いて見えます
どんな神なのかと思い、もう少しよく見ようと岩戸をもう少し開けますと、そこで控えていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出し、布刀玉命(ふとだまのみこと)がサッとしめ縄を渡して中に戻れないようにしました
かくして高天原に光が戻ったのです
天照大神は現在伊勢神宮に祭られています
その時の八咫鏡も天皇家の三種の神器の一つとして、そこに祭ってあります
八尺勾玉は皇居に祭られています
天照大神の信仰が日本書紀に最初に登場するのは崇神天皇の巻で、天皇の娘である豊鍬入姫が天照大神を大和の笠縫邑に祀ったという記事があります
そして次の垂仁天皇の代になって、今度は垂仁天皇の娘である倭姫(やまとひめ)が天照大神を祀るのにふさわしい場所を探して各地を尋ね歩く話が出てきます
倭姫は宇陀の篠幡、近江の国、美濃、とめぐった後で伊勢に入りますが、その時「ここは辺鄙な土地だけど波が打ち寄せる美しい国である
私はここに留まりたい」という神託があります
そこで倭姫はそこに宮を建てて天照大神をお祭りしました
この天照大神を祀る仕事は次の景行天皇の代になると、またまた景行天皇の娘である五百野皇女に引きつがれています
この天皇家の娘が伊勢で天照大神を祀るという制度は「斎宮(さいぐう)」または「斎王(いつきのみこ)」と呼ばれ、この時代に始まって後醍醐天皇の皇女祥子内親王まで続きました
その後は祭主が代って神宮を主宰しています
(時々斎宮は五百野皇女のあとはずっと中断していて、実質的には天武・持統朝あたりから始まったのでは、という人もありますが、聖徳太子頃の時代にも酢香手姫皇女が選任されていますし、やはりずっと続いていたと考えた方が妥当だと思います
)斎王の条件は未婚の皇女または王女で、人選は占いによります
任が解かれるのは天皇の譲位又は崩御の時、両親の喪や病気の時、などですが、過失により退官することもありました
むろん在任している限り結婚はできません
同様の制度に賀茂斎院というのもありました
選任規準も同様で、嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王が最初、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王が最後です
斎宮は天照大神に仕える訳ですが、祭主であると同時に天照大神の「よりしろ」でもあったと考えられます
少なくとも最初の頃はかなり霊的な力のある皇女が選ばれていたのではないでしょうか
いわば、物質の世界で天皇(昔は大王と言ったが)が人民を治めるとともに、精神の世界ではその近親者である斎宮が神の世界との交信をするという、二重構造の中で天皇家は日本の中核になって来たのでしょう
なお、天照大神を祀る神社(正確には天照大神の場合は全て遙拝所である)は神明社、皇太神宮などで全国で18,000社ほどあると言われています

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