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太陽(ミロク)原理・ひふみ解読編

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シオンの賢人議定書の検討終末と太陽の検証

太陽のコメント

シオンの賢人議定書の検討の前書き

 これからシオンの賢人議定書の検討をしてみたいと思います。シオンの賢人議定書については、最近の評価として偽物ということになっているようです。ただ、この内容が出版されたとき、全ての本は ユダヤ人たちに買い占められたと伝えられていますので、この内容は、真実と考えています。必要なことは、議定書に記述されていることが、現実に実現されていれば、この著書は、正しいと考えなければなりません。

 もちろん、マスコミの支配を唱っているこの議定書のことですから、それらの情報操作がなされていることも考慮して読む必要があります。この議定書は、昔に翻訳されたもので、読みにくいところがありますし、賢人のメンバーにとって当然であっても、我々にとっては、わかりにくいところがあります。

 そこで、文章もできるだけ現代文に近い文に書き直しています。ので、そのまま読んでも理解が容易になっていると思います。シオンの賢人議定書では、ユダヤ人と非ユダヤ人、そして議長格の朕と呼ぶ者たちが登場するし。他の人類についての記述もあります。例えば、わしら=我々=ユダヤ人、畜生=非わしら=ユダヤ人以外の人類などです。

 シオンの議定書の特徴は、人間の本性とも言うべきことを記述していることである。よく言えば、その分析によりユダヤ人たちはどのようにすべきか、悪く言えば、非ユダヤ人たちをどのようにして取り扱うか、などである。我々が予言を検討する場合、この議定書の記述を認識して、現在の世界情勢について流れてくる情報を分析すると理解が進むとおもいます。それはともかく、これから議定書を連載していきますので、参考にしていただければ幸いです。

シオン賢人議定書NO 01

 美辞麗句はさておいて、ひとつひとつの思想の意味を語ろうと思うのである。我々を取り囲む諸事実に比較と推論の光をあてようと思うのである。

 ここに朕が提案したいのは 二つの視点、我々自身(ユダヤ民族)の視点と畜生(非ユダヤ人)共(非ユダヤ民族=ユダヤ人以外の人類)の視点から見た我々の見解の体系なのである。

 悪い本能をもった人間の数、 善い人間の数をはるかに凌ぐからである。朕は 指摘せねばならない。やつら(人類=畜生ども)を統治するには、学者風情の論議によってではなく、暴力と恐怖によって達成することが、最良の方法である。如何なる人間も権力を目差し、誰も彼もが、できることなら独裁者になりたがるのである。わが身の利益を手中にすることを抑えて、万人の利益の為にわが身を犠牲にしようという者は、めったにおるものではないからである。

 人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であるったのか。今までやつらを牽引してきたものは、何であったのか。

 社会の仕組みが始まった頃には、やつらは残忍で盲目的な力に服したのである。後には、法律に服したのである。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。朕は、自然法則に従って、権利は、力の中に横たわっておると結論するのである。

 政治的自由は、単なる思想であって、いささかも事実ではないのである。であるが、政権を持っておる党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつける必要があらば、その撒き方や使い方を知っていねばならない。その際、相手方が自由思想、いわゆる自由主義に感染していれば、そして、思想の為になら喜んで全力を投げ打つ積りあるならば、仕事は、さらにやり易くなるのである。この場合には、我々(ユダヤ人たち)の所説が勝利することは、目に見えておるのである。支配の手綱が緩められると直ちに、新しい手に手綱が執られるのは、自然法則の赴くところなのである。国家は、盲目な力であって一日たりとも指導者無しにはすまされず、新しい権力者は、単にすでに自由主義によって弱められた前任者の地位に座るだけだからである。

 我々(ユダヤ人たち)の時代では、自由主義的であった支配者の位置にとって代るのは、金力なのである。かつては、信仰が支配した時代があった。自由思想は、誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。ゆえに、実現不可能なのである。人民を無秩序な群集に一変させるには、やつらに一定期間自治を与えるだけで十分なのである。与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し、階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、やつらの権威は、一山の灰燼に帰するであろうということである。

 国家が内乱によって消耗するか、内部不一致の為に外敵の手中に落ちるかである。どのみち、その国は、回復できず滅亡するほかはないのであるが。その時こそ、我々(ユダヤ人)たちの出番なのである。完全に我々(ユダヤ人たちの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なくやつらは、それに縋りつけねばならない。拒めば、底に沈むだけのことである。

 自由主義的な考えを持っておる人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、朕は、次の問いを投げ返したい。どの国も両面の敵を持っておるとする。外敵には、あらゆる策略を用い、たとえば、敵には、攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれねばならぬのか?

 愚にもつかぬものではあっても、反対とか批判とかはありうるし、上辺のことにしか理性の力が働かぬ人民は、反対ということを喜ぶものである。かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けをかりてうまく大衆を導く希望をもてるのであるろうか?

 専ら浅はかな情熱、つまらぬ信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われておる間違いだらけの人々は、党派根性に囚われるのである。そうなると、完全に理の通った議論を基にした如何なる合意をも妨げるのである。群衆の解決というのは、どれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中に無政府主義の種子を蒔くという奇妙な解決を出航させるのである。

 政治は、道徳とは全く関係がない。道徳で統治する支配者は、練達の政治家ではないから、彼の王座は、動揺するのである。支配したいと思う者は (我々が所有する新聞に感謝するところである)気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いねばならない。率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳なのである。それらは、支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。そのような資質は、畜生(非ユダヤ人)共の王国の属性でなければならぬが、我々は 決してやつらの轍を踏んではならない。

 我々の権利は、力の中に横たわるのである。「権利」なる言葉は、抽象的な思考であって、なんら具体性はないのである。その言葉は次のことを意味するに過ぎない。「わが欲するものを我に与えよ。 我が汝らよりも強きことを証せんが為に。」

 権利はどこから始まるか?
 どこで権利は 終るか?

 権威の仕組が薄弱で法律が空疎であり、自由主義の濫用により権利を乱発し支配者たちが脆弱となった国家なら如何なる国でも、朕は、新たなる権利を行使できる。強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、自由主義の中で放棄されて我々に残されたやつらの権威ある権利を継ぐ王者となるのである。

 すべての形態の権力が動揺しておる現在、我々の権力は 他のいかなる権力にもまして目に見えぬであるろう。いかなる狡猾な者もくつがえせぬ強さに到達する瞬間まで、我々の権力は、表面には現われぬのであるから。我々が目下用いざるをえぬ一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現するのである。この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組を平常の状態に修復することになろう。目的は、手段を正当化するのである。しかしながら、我々の計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかにはこだわらぬことに留意しようではないか。

 我々の前には戦略的に敷かれた計画が有るのである。数世紀にわたる我々の辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されない。

 満足すべき行動を練りあげる為には、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、やつら(非ユダヤ人たち=畜生)の理解力の欠如を考慮に入れ、やつら自身(非ユダヤ人たち=畜生自身)の生活状況、あるいはやつら自身(非ユダヤ人たち=畜生自身)の福利を顧慮する必要が有るのである。群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえぬということを理解せねばならない。盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは、必然なのである。群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは、必然なのである。

 幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせておるイロハを理解することができるのである。

 人民が人民に任せれば、すなはち、人民の中から出た成り上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山なのである。人民群集がおだやかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心をごちゃまぜにしておる国の諸問題を処理することが可能であるろうか?

 外敵に対して自分自身を守ることが可能であるろうか? 

 それは、考えられない。群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能となるからなのである。

 全体を適切に国家のいくつかの部分に割り当てるといったふうに、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけなのである。このことから、如何なる国でも申し分ない統治形態は 一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られるのである。絶対的な独裁なしには、その人が誰であろうとも、群集によってではなくやつら(非ユダヤ人たち=畜生)を指導することによって遂行される文明の存在はありえない。群集は、野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮さを発揮するのである。群集は、自由を手にしたとたんにいち早く無政府主義に転ずるのである。無政府主義それ自体は、野蛮の最高の段階なのである。

 飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった野蛮人どもを見よ。自由がやつらに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。それは、我々や我々一族の歩む道ではない。畜生(非ユダヤ人)共は、アルコール飲料に酔いしれ、やつらの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長するのである。その性的堕落は、我々の特別な代理人、富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしば畜生(非ユダヤ人)共の娯楽場におる我々の女性たちによって手ほどきされたのである。やつら代理人の最後に、朕は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておくのである。

 我々の合い言葉は、力と偽善なのである。

特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されておるならば、力のみが政治的諸問題を克服するのである。暴力は、原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとせぬ政府に対しては、欺瞞と偽善が鉄則でなければならない。この悪は、終局である善に達するための手段にすぎぬ。それゆえに、我々は、目的達成の為に役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りを躊躇してはならない。政治の上では、支配権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていねばならない。

 平和的な征服の道を進んでおる我々の国家は、盲目的な服従を強いる為に恐怖を維持する必要から、目にはつかぬが効果のある死刑宣告をもって、戦争の恐怖にとって代わる権利を持っている。仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力なのである。単に利益を得るためのみならず我々の義務としても、また、勝利の為にも、我々は暴力と偽善による計画を保持し続けねばならない。報復主義は、使われる手段と同じく、有無を言わさず強力なのである。それは、手段そのものであるというよりも、我々が勝利し、すべての政府を我々の超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。我々は、容赦なく不服従というものを根絶することを、十二分に思い知らせるのである。

 はるか以前の時代にさかのぼれば、我々は、人民群集の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であったのである。以来、幾度となく愚かな鸚鵡たちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は、群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由とを、この餌をもって破砕し去ったのである。畜生(非ユダヤ人)共のうちの賢者になりたがり屋ども、知識人たちは、もともと中味のないこれらの言葉から何も作りだすことができなかったのである。これらの言葉が意味するものと相互関係とを否定することには考え及びもしなかったのである。どこをどう見ても平等はなく、自由などありえず、自然そのものは、その掟に従わせるように作られておるのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作用しておることを見なかったのである。群集が盲目であること、支配を頼む為にその中から選挙された成り上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人であること、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられぬ者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった。これらのことを、畜生(非ユダヤ人)共は、一切顧みなかったのである。しかも一貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからなのである。王室以外の者や統治される者には、誰にも知らされぬ政治統治の奥義は、父から子へ一子相伝で伝えられたのである。時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われたのである。これこそ、我々の主義を成功に導く絶好の機会であったのである。

 地球のいたる所で、我々の盲目の代理人たちのおかげで、「自由・平等・友愛」という言葉が、我々の旗印を熱狂的にかざす大群を、我々の隊列に引き入れてくれたのである。これらの言葉は、また常に、畜生(非ユダヤ人)共の福利に穴をあけ、いたる所で平和、安寧、協同に終止符を打ち、畜生(非ユダヤ人)共の国家の基礎を破壊する生きた害虫であったのである。後に述べるように、このことが我々の勝利を助けたのである。とりわけ、我々が切札を手中にする可能性をもたらした。特権の破壊、言い換えれば畜生(非ユダヤ人)共の貴族支配の存在そのものの破壊なのである。唯一、人民と国とを守るこの階級は、我々に敵対したのである。畜生(非ユダヤ人)共の血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、我々は、金力の貴族が主導する、我々の教育を受けた階級を貴族として樹立したのである。我々は、この貴族政治の特徴を、我々自身のものである富と、我々が学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立したのである。

 我々の勝利をいっそう容易ならしめた事実が有る。好ましい人物たちとの関係を保つことによって、我々は 常に人間の心の琴線に触れ、金銭欲に、貪欲に、人間のあくことをを知らぬ物質的欲望に働きかけたのである。言うまでもなく、これら人間の弱点のひとつひとつには、独創性を麻痺させる効果が有る。この弱点のゆえに、やつらの行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのである。

 自由という言葉の抽象性のゆえに、我々は、すべての国の群集に、やつらの政府は、国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎぬのである。番人は、破れた手袋のように取り替えていいものなのだと説きつけることができたのである。

 人民の代表は、取り替えられるものなのである、ということは、我々が自由に利用できるということであり、言うなれば、任命権を我々に預けたことになるのである。




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