本文へスキップ

太陽(ミロク)原理・ひふみ解読編

ひふみ神示黎明編関連サイト

一二三神示

シオンの賢人議定書の検討終末と太陽の検証

シオン賢人議定書NO 09

 我々(ユダヤ人たち)の原理を実行に移すにあたっては、諸兄が現に居住し活動しておる国々の(非ユダヤ人=畜生たち)人民の性格を考慮していただきたいのである。我々(ユダヤ人たち)が作った鋳型で非ユダヤ人=畜生たち人民を再教育し終らぬうちは、一律に原則を当てはめようとしても成功はしない。しかし、慎重に適用するならばものの十年とたたないうちに、最も頑固な人民でも変わり、すでに我々(ユダヤ人たち)に従っておる列伍に新しく加わってくるのが解るであろう。

 自由主義的な言葉、我々(ユダヤ人たち)がフリーメーソンの標語として効果の高い「自由、平等、友愛」は、我々(ユダヤ人たち)の王国が到来した暁には、もはや標語としては 使わせず、「自由の権利、平等の義務、友愛の理想」というふうに単なる理想主義を実現したものに変えるのである。これが我々(ユダヤ人たち)のやり方・・牛は角を捕えよ・・なのである。実際には我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)自身以外のものは、あらゆる種類の支配を一掃したが、法律上は、まだ数多くのものが残っておるのである。今日では、どこかの国が我々(ユダヤ人たち)に対して反抗を示したとしても、我々(ユダヤ人たち)の裁量下、我々(ユダヤ人たち)の指導下にあって形式的に反抗しているに過ぎない。一例として反ユダヤ主義は、我々(ユダヤ人たち)が下層の兄弟たち[ユダヤ人]を監視するには、必要欠くべからざるものだからである。この問題に関しては、すでに討議が重ねられておるので、これ以上立ち入らない。

 我々(ユダヤ人たち)の行動範囲には限界を遮るものがない。我々(ユダヤ人たち)の超政府は、すでに強力絶大な言葉で現わされておる超法規的な状態で存続している。すなわち、独裁なのである。朕は、衷心から申し上げるが、しかるべき時に、我々(ユダヤ人たち)は、法律を作り、裁判と宣告を行うのである。我々(ユダヤ人たち)は、生殺与奪を実行するのである。我々(ユダヤ人たち)は、全軍の先頭にあって、指導者の軍馬にまたがるのである。我々(ユダヤ人生たち)は、意志の力で支配するのである。なぜならば、かって権力を握っていた党派の残党も、今や我々(ユダヤ人たち)に屈伏し我々(ユダヤ人たち)の掌中に有るのである。我々(ユダヤ人たち)の手中にある武器は、貧欲、容赦なき復讐、憎悪と敵意に燃える、果てしなき野望なのである。

 我々(ユダヤ人たち)から生れるもの、それはすべてを巻き込み行く恐怖なのである。帝政復興主義者、煽動家、社会主義者、共産主義者、あらゆる種類のユートピア夢想家といったあらゆる意見、あらゆる主義の人物たちが我々(ユダヤ人たち)の用を勤めておるのである。我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を利用して、あらゆる労役を課しておる。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の一人一人が、権威の最後の残党まで叩き潰さんが為に、現在秩序を転覆させることに燃え上がっておるのである。これらの行動により、全世界の国々が拷問を受けておるのである。各国政府は、もう止めてくれと手すり足すりし、平和のためなら如何なることでも代償に出すからという気になっておるのである。であるが、我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が心底から我々(ユダヤ人たち)に服従し、率直に我々(ユダヤ人たち)の国際的超政権を受け入れるまでは、平和を与えるわけには行かぬ。

 人民は、社会主義の問題を国際的協調という手段で解決する必要を感じて遠吠えを挙げておるのである。ばらばらに分れた党派は、我々(ユダヤ人たち)の掌中に飛び込んでおるのである。というのは、分立抗争すれば、金が要るが、金は、すべての我々(ユダヤ人たち)の手中にあるからなのである。

 我々(ユダヤ人たち)には、畜生(非ユダヤ人)共の王たちのうちの「利口な」勢力が畜生(非ユダヤ人)共群集の「盲目的な」力と連合しはせぬかという懸念があったが、そのような可能性に対する打つべき手はすべて打ったのである。両者の間でお互いに恐怖の念を抱かせるという防波堤を設けたのである。このようにしておけば、人民の盲目勢力は、相変らず我々(ユダヤ人たち)を支持し続け、我々(ユダヤ人たち)のみがやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に指導者を与え、もちろん・・やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を我々(ユダヤ人たち)が目指す目標へと引っ張って行くのである。

 盲目的な群集の手が我々(ユダヤ人たち)の指導の手から離れぬようにする為には、時々やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の中に入って直接交流を図らねばならない。実際に我々(ユダヤ人たち)自身が行えないならば、とにかく最も信頼の置ける兄弟を通じて行う必要が有るのである。我々(ユダヤ人たち)だけが唯一の権威者となった時には、我々(ユダヤ人たち)は、それこそ市場のような所で親しく非ユダヤ人=畜生たち人民と話し合うであろう。また、我々(ユダヤ人たち)が目指す方向にやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を向けさせるように政治に関わる問題を指導してやるであろう。

 田舎の学校で教えることを誰が点検するのか?

 政府や王の特命全権公使が語ることは、直ちに全国に広まらずにはすまない。それは、非ユダヤ人=畜生たち人民の声によって広まるのである。

 破壊すべき時期でない時に畜生(非ユダヤ人)共の諸制度を破壊せぬようにするため、我々(ユダヤ人たち)は、巧妙にそっと手をかけたのである。そして、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の機械を動かしておるバネの端をつまんだのである。これらのバネは、精妙にしかも秩序正しく動いていたのである。我々(ユダヤ人たち)は、そのバネを混沌放従の自由主義に代えたのである。我々(ユダヤ人たち)は律の運営、選挙の管理、新聞、個人の自由を、原理的にはどうにでも加工できる生存物[人間]の土台である教育と訓練というバネを操ったのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)が教え込んだことではあるが、畜生(非ユダヤ人)共の若者たちに、我々(ユダヤ人たち)には嘘と解っておる主義や学説を注入することによって、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を翻弄し困惑させ堕落させてきたのである。

 現行の法律については、内容的には変えることなく、単にねじ曲げて反対の解釈をすることによって、結果としては、大層な成果を挙げてきたのである。その成果は、第一に解釈が法律を覆い隠すという事実に、次いで立法の錯綜した糸から何かを引き出すのは不可能な為に、政府の目から法が完全に姿を隠すという点に明かに見てとれるのである。

 法律を文字に拘泥せずに解釈するという学説は、ここに起源が有るのである。

 諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしも畜生(非ユダヤ人)共が真相を嗅ぎつけたら、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、武器を手にして蜂起すると言われる方もおられるようが、それに備えるにヨーロッパにおいては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する。すなはち、決定的な瞬間が来る前にすべての首都に地下鉄道、大都市の地下通路が設けられ、事到ればそれらの首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばすのである。




 >>戻る