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太陽(ミロク)原理・ひふみ解読編

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一二三神示

シオンの賢人議定書の検討終末と太陽の検証

シオン賢人議定書NO 20

 今日は、財政計画の諸問題を取り上げるのである。この問題は、扱いが最も難しく、我々(ユダヤ人たち)の計画の中では最高かつ決定的に重要なので、私・朕の報告の中では最後に述べることにしておいたのである。本論に入る前に想起していただきたいのは、朕がすでにヒントとして提示しておいたこと、我々(ユダヤ人たち)の活動の総括は、数字の問題として現わせるということなのである。

 我々(ユダヤ人たち)の王国が実現した時には、我々(ユダヤ人たち)の専制政府は、自衛の為に賢明にも、ユダヤ人たち人民大衆には税の負担をかけぬようにするのである。これは、我々(ユダヤ人たち)の政府は、父親や保護者の役割を果たすということを想起していただきたいのである。さりながら、国家組織には莫大な金がかかるのであるから、必要な資金は、確保する必要が有るのである。ゆえに、格別細心の注意を払って、この問題に関しては、適切な課税方式を定めねばならない。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、法的な形では国の資産はことごとく王が所有者であり(形だけでなく実際にも容易にそれが適用できる)、国内流通を規制する為にはあらゆる資産の総額から合法的に徴収することができるのである。このことから、課税は、累進課税方式で徴収するのが最もよろしいという結論になるのである。さすれば、資産総額の何パーセントという形で支払うべきものが支払われ、何人も困窮したり破産したりすることがない。富める者は、税金を払えば残りの金は国家が財産不可侵権で保障してくれ、なおかつ正直な利益を保ロ護してくれるのだから、余分な金の一部は、国家に御自由にお使い下さいと差し出すのが義務であると考えなくてはならない。朕は、今、「正直な」と言ったのである。これは、財産をしっかり監督すれば、法律でいう泥棒を駆逐するということを意味しておる。

 社会改革は、上記のことから始めねばならない。その時は、熟しておる。それは、安寧の印として不可欠なことなのである。

 貧しい者に課税することは、革命の種を蒔くことになって、小を追って大を逃し、国家の損害となるのである。そんなこととは、全く別に、資本家に課税するのは、個人の富の増加を防ぐことになるのである。我々(ユダヤ人たち)が昨今資本家の手に富を集中させたのは、畜生(非ユダヤ人)共の政府の力・・国家財政・・が強くならぬように、平衡力をつけるためであったのである。

 資本の高に対して累進課税を課すると、現行の個人課税や資産課税よりも遥かに大きな収入となるが、現在の課税方式は畜生(非ユダヤ人)共の間に不満と反抗を起こさせるという理由でのみ、我々(ユダヤ人たち)には、必要なのである。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、均衡を保つことと安寧を保証することに強みが有るのである。それが為には、資本家たちは、国家機関を正常に動かす為に自分の所得の何分の一かを投げ出すことが絶対に必要なのである。ゆとりのある人々は、公共の必要を賄わねばならない。

 そういうことが行われると、貧民は、富豪を憾まなくなり、富める者は、国家維持にはなくてはならぬ財政的支柱であり、国家に必要なものを支払っておるからには、安寧福利の守り役であるということが解ってくるのである。

 知識階級の納税者に新体制の納税方式にあまり不平を言わせぬようにするには、公費の細かい支出を見せてやるが、王室費と行政費とは例外なのである。

 すべてを支配するユダヤ人たちの王には、国家のすべてが王の財産であるから、王個人のものと称する財産は、何もない。と言うと矛盾があるが、実は、ある方法で、実際には、普通の意味で国家のすべてを所有するということは出来ないようになっておるのである。

 国家資産で扶養する王の妻子は別として、統治者の親族は、国家公務員になるか、資産を得るべく働かねばならない。王の血族だからといって、国庫に属するものを私する権利があってはならない。

 販売、所得、相続には、累進課税印紙を支払わねばならない。所有権を移転するときには、動産であろうと不動産であろうと、姓名を記載した印紙による支払の証拠があらねば、最初の所有者は、移転の宣告が発覚した日からの利息を支払うのである。売買物件登録は、新旧の所有者の住所・氏名を付して、毎週財務省地方支所に届出せねばならない。この姓名付き登記は所定の金額を超える場合から始め、通常の日常品売買には一定単位ごとの所定パーセンテイジの印紙税を支払えばよろしいのである。

 このような方法だと畜生(非ユダヤ人)共の政府の収入の何倍になるか計算してみていただきたいのである。

 財務省は、一定額の予備金を確保し、それを超える徴収額は、全額流通に還元せねばならない。その還元額は、公共事業に当てるのである。国庫から資金が出るこの種の事業は、国家が企画実施するのであって、これにより労働者階級の利益とやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を支配する国家の利益とが固く結び付くのである。この資金の一部は、事業の発案者や施行者に与える報償金にも当てるのである。

 国庫には、たっぷりと確保した所定の予備金のほかには、たとえ少額であっても決してよけいな金を置いておいてはならない。金というのは、流通させるべきものであって、およそ流通を妨げることは、すべて国家機構の運営には支障を来たすのである。それは潤滑油のようなものであり、潤滑油が滞った日には、よどみなく活動すべき国家機構が齟齬を来たすのである。

 貨幣の代用に紙幣を使うことが、確実に流通を阻害したのである。この状況が続いてどういうことになっておるかは、すでに明らかである。

 我々(ユダヤ人たち)は、王が直轄する会計検査院を設けるのである。そこでは、非ユダヤ人たちの王がいかなる時でも、まだ決算されていぬ当月分とまだ発生しておらぬ翌月分は、別として、前月までの国庫の収入支出状態を親しく検査できるのである。

 国庫から盗んでも何の利益にもならぬ唯一の人間は、その所有者であり、王なのである。これによって紛失や浪費の可能性を封じることができるのである。

 支配者の代表的な行為に、儀礼のための宴会というのがあるが、これは、貴重な時間を浪費するものであるから、王に統括と熟慮の時間を担保する為に、宴会は、一切廃止するのである。王の力は、きらびやかな王位を取り囲み、自分のことしか考えず国家の問題なぞ念頭にない取り巻き連中にかしづかれ、取るに足らぬことに時間を割かれるべきではないのである。

 我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の間に作り出した経済危機では、流通貨幣の引き締めほど効果のあるものはなかったのである。国内から貨幣を引き上げると巨大資本は、停滞し、不足した資本は、借金に頼らざるをえなくなるのである。この借金というのが利息が嵩むものだから、これらの資本は、国債の奴隷となる。小さな親方たちの手から資本家の手に産業を集中すると、全人民が、そして国家も活力を失ってくるのである。

 一般的に言って、現在の通貨発行は、国民一人当りの消費に相応しておらぬので、労働者の必要を満たすことができない。通貨発行は、人口増加に相応すべきであり、子供は生れたその瞬間から一人前の消費者であると計算せねばならない。通貨発行量の変更は、世界中どこの国でも重大問題となっておるのである。

 御存知のように、金本位制を採用した国々は、危殆に瀕している。我々(ユダヤ人たち)が流通している金を出来る限り引き上げるものだから、通貨の必要を満たすことが出来なくなっておるのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、紙でも木でもかまわぬのであるが、労働力の価値に見合う通貨を作らねばならない。我々(ユダヤ人たち)は、国民の必要に応じて、つまり、人が生れれば通貨発行額を増加させ、死ねば減少させるのである。

 各官庁各地方(たとえばフランス行政部)の財政は、それぞれが運営管理するのである。国費の支払に遅延を来さぬようにする為には、支払日と支払額とは、王の命令で一定に定める必要が有るのである。これにより、ある省の大臣だけが便宜を得て、他の部門は、迷惑するというようなことが起こらぬようにするのである。

 収入予算と支出予算とは、両者が隔絶することがないように比較点検しつつ実施するのである。

 我々(ユダヤ人たち)が計画した畜生(非ユダヤ人)共の財政制度と原理の改革案は、誰も肝を潰さぬように衣をかぶせてあるのである。我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共がしでかした不始末によって財政に撒き散らした混乱の結果、改革が必要であることを指摘するのである。我々(ユダヤ人たち)が指摘する第一の不始末は、次々と起こる原因で年々膨れ上る年次予算に初めから仕込まれておるのである。その予算は、上半期まではダラダラと行われ、それから補正予算を要求し、三ヵ月ぐらいかかって補正予算を作ると、もう清算予算を出せねばならぬ時期になって終りなのである。であるが、翌年の予算は、前年の総支出に基くので、経常の必要よりも年間五〇パーセントにも達し、十年もたつと三倍に膨れ上るのである。畜生(非ユダヤ人)共の政府の無頓着なやり方のお蔭で、国庫は、ついに空になるのである。ここで国債時代が始まるのであるが、国債は、国庫以外のものまで呑み込み、かくて畜生(非ユダヤ人)共国家全部がご破産となるのである。

 先刻御承知であろうが、かくのごき財政管理法は、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共に授けた方法であって、我々(ユダヤ人たち)がこれを実行することはできない。

 国債は、如何なる種類であろうとも、国家が脆弱であり国家機能を理解することすら欠如しておる証拠なのである。国債は、支配者の頭の上にぶら下っておるダモクレトスの剣のようなもので、支配者は、国民から税金を取る代わりに、我々(ユダヤ人たち)の銀行家に掌をさしのばして憐れみを乞うようになるのである。外債は、国家の体に取りついておる蛭(ひる=血を吸う虫)であって、蛭の方で自然に落ちるか、国家が叩き潰しでもせぬ限り取れるものではないのである。であるが、畜生(非ユダヤ人)共の国家は、この蛭を払い落とさない。行き着く先は、減亡というところまで、ますます取りつかせ太らせ、最後は、失血して自ら死を招くのである。

 細かい点は別として、国債とは、とりわけ外債とは、何であるか?

 国債とは、発行総額に比例して利息が上って行く、政府発行の手形なのである。かりに国債に五分の利息が付いておるとすると、二十年間に国家は、国債総額と同額、四十年間にその二倍、六十年間に三倍の利息を払い、なおかつ借りた分だけが未払のまま残るのである。

 この計算を見れば明らかなように、どういう徴税方法かで一人当りから徴税すれば、国家は富める外国人に利息を払う為に、貧しい納税者から最後の小銭まで巻き上げずにすむのに、余計な利息など払わずに必要な額を調達すべく小銭をかき集める代わりに、富める外国人から金を借りてしまったのである。

 国債が内国国債であるうちは、畜生(非ユダヤ人)共は、貧民の懐から集めた金を大富豪の懐に収めただけだったが、我々(ユダヤ人たち)が特定の人間を買収して、国債を外国に売らせるようにしてからは、国家の富は、すべて我々(ユダヤ人たち)の金庫に流れ込み、畜生(非ユダヤ人)共という畜生(非ユダヤ人)共は、我々(ユダヤ人たち)に国民を貢物として差し出したのである。

 畜生(非ユダヤ人)共の王者たちの国務に対する浅薄な態度、大臣たちの腐敗、国政を預る者たちの財政問題に対する理解の欠如が、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の祖国を我々(ユダヤ人たち)の金庫に対する払い切れぬほどの巨額の債務者にしてしまったが、それは、我々(ユダヤ人たち)の側の労力と金銭の多大な出費なしには容易にできることではなかったのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、貨幣の流通にはなんらの障碍も許さぬから、一パーセント物を除いては、利付き国債は発行しない。従って、国家の力を吸い取る吸血の蛭どもに利息を払うことがない。利付き公債発行権は、専ら、利益から利息を払うことが無理でない工業関係の会社に与えるのである。国家は、会社のように借りた金で利益を収めるのではないのである。国家は、消費の為に金を借りるのであって、運用資金として借りるのではないのである。

 政府もまた工業公債を買うが、政府の立場は、現在のように配当を払う債務者ではなく、利息を受ける債権者の立場になるのである。この方法ならば、貨幣の流通停滞や奇生資金や遊休資金をなくせるのである。これらはいずれも、畜生(非ユダヤ人)共が勝手にやって我々(ユダヤ人たち)の支配に従う気がない限りは、畜生(非ユダヤ人)共に対する有効な手だてだったのである。

 畜生(非ユダヤ人)共の頭というのは、思考力の発達しておらぬことにかけては、全く野獣並みであることが明々白々ではないかの。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)から利子付きの金を借りておるのである。その元利を返そうと思えば、国庫から取り出す以外に手はなく、結局また我々(ユダヤ人たち)から借りねばならず、どうあっても我々(ユダヤ人たち)の懐に戻るということを考えても見ようとしない。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が必要とする金は、非ユダヤ人=畜生たち人民から取り立てた方がはるかに簡単であったのに!

 であるが、ここにこそ我々(ユダヤ人たち)選ばれたる民が天才であることの証しが有るのである。我々(ユダヤ人たち)は、その方法ならばやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の利益になるかのようにやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に持ちかけて来たのである。

 時至り我々(ユダヤ人たち)が会計を提示する場合には、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の政府に対して幾世紀にわたって行ってきた経験にかんがみて、明白かつ決定的な内容とし、我々(ユダヤ人たち)の新制度の利益になるものであることが万人に一目で判るようにするのである。その予算は、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共を従属させる為に多用した方法は、すべて打ち切り、我々(ユダヤ人たち)の王国においては、かかる方法は、微塵も許さない。

 我々(ユダヤ人たち)は、王であろうと最下級公務員であろうと、いかなる些少な金額でも、あらかじめ決められた支払先以外の所には支払われぬように会計方式を立て厳重管理するのである。

 明確な計画なしには、統治は、不可能なのである。英雄や半神といえども、どこへ行くかも解らぬ道を、十分な金の準備もなしに旅立てば、失敗するほかはないのである。

 畜生(非ユダヤ人)共の支配者たちは、かつて我々(ユダヤ人たち)が助言したとおりに、国務を怠って各国代表たちとの宴会や儀礼、歓楽にふけっていたのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)の支配が目に見えぬようにする衝立に過ぎなかったのである。王たちに代って寵臣たちが書いた回顧録なるものは、実は、我々(ユダヤ人たち)の代理人が書いたのであるが、そこには、決まって将来の経済と繁栄が約束されていたので、皮相的にしか物を考えぬ人間たちを満足させた。が、何の経済のことか?

 如何なる新税を?我々(ユダヤ人たち)の回顧録や計画を読めばそういう問が出てくるはずなのに、誰一人として質問しなかったのである。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)人民は、驚くべきほど勤勉なのに、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が途方もない財政的混乱に陥った原因が、その迂闊さにあったことは 諸兄はよく御承知のことと思う。




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