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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地つ巻 第08帖 (145)

 祓いせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事です。
 借銭なしとはめぐりをなくすことです。昔からの借銭は誰にもあるのです。それはらってしまうまでは誰によらず苦しむのです。人ばかりではないです。家ばかりではないです。国には国の借銭があるのです。
 世界中借銭なしにすることが、何にしても大望(たいもう)であります。
 今度の世界中の戦というのは世界の借銭をなしすることです。世界の大祓いです。
 神主がお祓いの祝詞(のりと)をあげても何にもなりません。お祓ひ祝詞は宣(の)るのです。今の神主 宣(の)ってないです。口先ばかりです。祝詞も抜けています。
 あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでいるではないですか。臣民の心には きたなく映るでしょうが、それは心の鏡くもっているからです。
 悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしているではないですか。これでは世界はきよまりません。
 祝詞はよむものではないです。神前で読めばそれでよいと思っていますが、それだけでは何にもなりません。
 宣るのです。いのるのです。なりきるのです。とけきるのです。神主ばかりのことではないのです。皆心得ておきなさい。神のことは神主に、仏は坊主にと申していること根本の大間違いです。
 九月十九日、ひつ九の



年月日

 昭和十九年九月十九日
 旧八月三日1944年)
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