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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第01帖 (378)

 

 われわれの一切は生れつつあります。
 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつあります。
 太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけているのです。
 一定不変の神もなければ、不変の宇宙もありません。
 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れてゆくのです。
 過去もなければ、現在もなく、未来もないものです。
 只存在するものが生れに生れつつある世界です。
 生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。只自分自身のみの行為はないのです。(それは大神の御胸の中に動く一部であるからである。)
 ただ生れゆき栄えゆくのみなのであります。「善」を思い「悪」を思うのは、「死」という概念をつくり「生」という概念をつくり出すことなのです。故に月人から善悪を教育された地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命の行為はなく、弥栄はあり得ないのです。
 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからなのです。
 思うことによって行為することになります。
 本来は、生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのです。
 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものであります。そして何ものも、それ自らの因によって存在していません。自己のみでは弥栄しません。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄するのです。
 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在します。
 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆくのです。
 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆくのです。
 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆくのです。
 しかし、その総ては神の中での存在でありますから、それ自体という個別のものはありません。
 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみです。
 霊人に空間はないのです。それは、その内にある情動によって定まるからです。
 また、その理によって一定した方位もありません。
 また時間もなく只情動の変化があるのみなのです。
 地上人は、肉体を衣とするので、宇宙の総てを創られたものの如く考えますが、創造されたものではないのです。
 創造されたものならば、永遠性はあり得ません。
 宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつあるものです。
 その用(働き)は愛と現われ、真と見えても、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しないのです。
 ただ大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのであります。
 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄します。
 それは、 であり、 と現れているが故であります。
  は大歓喜の本体であり、 はその用(働き)であります。
 それは、善でもなく悪でもない。真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく憎でもない。プラスでもなければマイナスでもないのです。
 しかし、善の因と真の因とが結合します。
 悪の因と偽の因とが結合します。
 美の因と愛の因とが結合します。
 醜の因と憎の因とが結合します。
 そして、因の如何により、二義的には愛、真、善、美もしくは、醜、悪、憎、偽と現われ、働き、存在として、またはたらきます。
 善因は偽因とは結合せず、悪因は真因とは結合しません。
 これらの総ては、これらの働きを生みに生み、成りに成って、とどまるところを知りません。
 それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためなのです。
 神が意志するということは、神が行為することであります。
 そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜であります。
 神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、神と常に対応し、神が地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命することになります。
 神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云います。
 神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云います。
 月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多いです。
 日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれなのです。
 月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れます。故に、神に接し得るのですが、全面的には解け入らないのです。
 地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。
 日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもちません。
 月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わおうとして、批判的となる。ために二義的の歓喜となります。
 故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ないのです。
 おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。
 この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在します。
 これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのであります。
 地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ません。
 それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっています。
 以上の如くでありますから、日と月、愛と真、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものなのです。


年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
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