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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第03帖 (380)

 

 愛の影には真があり、真の影には愛がはたらきます。
 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在するのです。
 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しません。
 地上人は常に霊界により弥栄します。
 弥栄は順序、法則、形式によって成るのです。
 故に、順序を追わず、法則がなく、形式のない所に弥栄はなく、生れ出て呼吸するものはあり得ません。
 個の弥栄は、全体の弥栄なのです。
 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄することになります。
 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その裏の内的な結合は益々強固となるのが神律・天地の法則であります。
 霊界と物質界は、このような関係におかれています。
 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのです。
 更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像されます。
 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界であります。
 極内は極外に通じて (働き)を為します。(思考して行動して現実となる法則です。)
 すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばなりません。
 こうして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われます。
 これによって、新しく総てが生れ出ます。
 太陽は、神の生み給えるものですが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのです。
 (弥栄)は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆきます。
 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばなりません。
 そうであれば、その用・働きに於ては千変万化です。
 千変万化であるが故に、その本質は一であります。
 一であるが故に、永遠であります。
 愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じます。
 真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのです。
 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのであります。
 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たします。
 共に神の御旨の中に真実として生きるのです。
 真実が益々単・単体として益々充実し、全体と円通する。
 されば、全ての現象は の中の ゝ の中なる の ゝ の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態なのです。
 これが、大歓喜そのものであって、神は、この ゝ に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのです。
 始めなき始めの ゝ の真中の真空に神がいますが故に、終りなき終りの ○ の外の無に神がいまして、中間に位する力の ◎ の中にも神が生命し給うのです。
 一物の中の ゝ なるが故に一物であり、ゝの体現が万象万物であることを知覚しなければなりません。
 ゝは生前の様相であり、と呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相としてと弥栄ゆるのです。
 神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となります。
 歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることであります。
 世をすてて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ないと考えるのは誤りである。
 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。
 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみに入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばなりません。
 天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。
 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故のものである。
 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生じます。
 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとはたらきます。
 呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる道理です。
 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属しており、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばなりません。
 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団があります。
 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならないからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからです。
 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄ではない。(例えて云うと、真・美という善とはたらけばその裏で偽・醜の力が作用し、厳しくなるという悪が生ずる。しかし厳しさの上に成立している真・美は、大歓喜の表れそのものなのです。)
 地獄は本来ないのです。
 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみの状態であります。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 
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