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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第04帖 (381)

 

 同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、そうでないものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかります。
 同類は相寄り、相集まり、睦び栄えます。
 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体でありますが、また死後の世界に通じます。
 同気同一線上にいる霊人たちは、かって一度も会せず語らざる場合も、百年の友であり、兄弟姉妹であるが如くに、お互いに、その総てを知ることができます。
 生前の世界に於ける、このような霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもちます。但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語ることのできない場合も生じてきます。
 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともあります。
 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ていますが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。
 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのです。
 生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。
 一時的に反する顔面を満たすことはできても、長くは続きません。
 この情態の原理は、地上人にも、反影しています。
 生前の世界は、以上の如くでありますから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の規模は大きく、少なければ、その集団は小さい。
 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もあります。
 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっています。
 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されています。
 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しません。
 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。
 またこれら集団と集団との交流は、地上人の如くに自由ではないです。
 総ては の ゝ を中心として の姿を形成しているのです。
  ゝ と ○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではありますが、或る段階に進むときは一時的に分離が生じます。
 しかし、この場合も ゝ は ゝ であり ○ は ○ であり変わりません。
 これが地上世界の行為に移った場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度(量)が更に加わって、真偽混乱に及ぶものであります。
 悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如くに写し出されるのです。
 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されています。
 許されているから存在し行為し現われているのです。
 この場合の悪は、悪にあらずして「」の一部分の現象である「○」であることを知らねばなりません。
 即ち、ゝのない○は道を乱すが故に生前界にはないのです。
 地上人の悪人にも善人にも、それ()は強く移写されます。
 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄します。
 その根底力をなすのは歓喜(ゝ)である。
 故に、歓喜のない所に真実の愛はありません。
 歓喜の愛は、これを愛の善と云いいます。
 歓喜のない愛を、愛の悪と云うのであります。
 その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、 となり、 ゝ と集約され、その集約の ゝ の中に を生じ、更に尚 ゝ と弥栄えています。
 生前の世界、死後の世界を通じて、一貫した大神の大歓喜の流れ行く姿がそれであります。
 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。
 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜なのです。
 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸であります。
 されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばなりません。
 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできません。
 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのです。
 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてきます。
 霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されることはありません。
 一時的には仮面をかぶり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなります。
 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されてはいません。
 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられている地上人の光栄ある大使命があることを自覚しなければなりません。
 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許されます。
 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからです。
 悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。
 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和があって、始めて力し、歓喜し、弥栄するからです。
 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬもの。
 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となって、神と現われ給うのです。
 霊人も子を生みますが、その子は歓喜であります。歓喜を生むのです。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
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