本文へスキップ

フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第05帖 (382)

 

 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのです。
 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部なのです。
 過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に神が存在し、呼吸し、生長しています。
 故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っています。
 部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化します。
 故に、歓喜が生じます。
 本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影であります。
 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみです。
 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ることはないのです。
 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではありません。
 悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じています。
 善は総てが神から流れ来たもので、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じています。
 故に、悪には本来の力はなく、影にすぎません。
 善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄します。
 生前の世界は有であるが故に善であり、死後の世界も同様に善である。
 生前の自分の行為が地上人たる自分に結果として来ています。
 生前の行為が生後審判され、酬いられているのではありますが、それは、悪因縁的には現われません。
 そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがあります。
 悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではありません。
 何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われであるが故になのです。
 地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もありますが、それは何れもが弥栄の働きである。
 これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ません。
 川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様であります。
 要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのです。
 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばなりません。
 しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因なのです。
 本来はなきものをつくり出し、一を二にわけます。
 だが、分けることによって力を生み弥栄します。
 地獄なきところに天国はないのです。
 天国を思念する処に地獄を生ずるのです。
 善を思念するが故に、悪を生み出すのです。
 一があり二と分け、はなれてまた、三と栄えるが故に歓喜が生れます。
 即ち、一は二にして、二は三である。
 生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては ○ (和)である。
 ○ は (働き)であり (調和)であり、 ゝ (大歓喜)と集約されます。
 故に、これらの総ては無にして有であります。
 人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行きます。立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきることない歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化します。
 浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となります。
 故に、神の中に神として総てが弥栄するのです。
 悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄とはかけ離れたものである。
 歓喜に審判はなく、神に戒律はない。
 戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化の働きを裁くこと。
 このことは神自らを切断することなのです。
 裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界であることを知らねばなりません。
 行為は結果なのです。
 思念は原因です。
 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生みます。
 生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生むというサイクルです。
  となりて廻り、極まるところなくして弥栄えます。
 以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られることでしょう。
 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのです。
 これは只、霊人や地上人のみではなく、あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も外れず、その極内の大歓喜より極外の結果に至るのみの生命世界です。
 故に地上世界の悉くは生前世界に因があり、且つ死後の世界に結果が存在しており、これらの三は極めて密接なる関係にあります。
 その根本の大呼吸は一つであります。
 生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずるのです。
 地上に於ける総ては、そのままにして生前であるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活があります。
 地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く無味なものと感覚されるものです。
 しかし、生前からすれば、地上生活、物質生活は、その生前から映し出した映像に過ぎないことを知らねばなりません。
 時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知ろうとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬのです。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 予備
⇒ 次のページへ

バナースペース

ひふみ神示解読