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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第06帖 (383)

 

 霊界人は、その向いている方向が北であります。
 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味なのです。
 中心は、歓喜の中の歓喜です。
 それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのです。
 霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければなりません。
 故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのです。
 それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのです。
 要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものです。
 地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいます。
 上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害となりません。
 各々が独立していて、他からの障害をうけない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。
 各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。
 それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのですが、その場合の額は、身体全体を集約した額です。
 地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものなのです。
 映像としての真実であるが、第一義的真理ではない。
 故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのではないです。
 内質に於ては同一なのですが、現われ方や位置に於いては相違します。
 故に、霊界人が現実界を理解するのに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのです。
 霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い存在が居る。
 要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのですが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。
 歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様です。
 歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばなりません。
 この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なのだと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのです。
 しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもないのです。
 霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しません。
 何故ならば、思念による「思念の世界」につながる故なのです。
 現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとしても、全然その感覚外におかれるために、その対象とはなりません。
 地上人に於ても原則としては同様ですが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交します。
 交叉混交はしても、同一方向には向っていないという関係です。
 そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのです。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 予備
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