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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第08帖 (385)

 

 生前の世界に、霊人が生活しています。
 山があり、川があり、住宅、衣類、食物があります。
 しかし、それは最初からのものではないのです。
 それらの元をなす ゝ が歓喜していました、その ゝ が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづいたからです。
 死後の世界の様相は ゝ(神の歓喜・弥栄) の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その ゝ を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的 ゝ に向って弥栄する面と、外的、地上的に進む ゝ と、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する ゝ と、その各々が各々の立場に於て、ゝすすみ、ゝ呼吸し、ゝ脈うち、生命していると同時に、全体的にもゝ生命し、ゝ歓喜し、ゝ弥栄しています。
 そうして、その現われとしては、ゝ(和して)ゝ(和す)、超存在となるほど天地の差は相離れ、遠ざかりつつ ゝ(生長・弥栄)しています。
 また、ゝ(生命)のゝ(大歓喜)として湧き出ています。
 故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのです。
 こうして弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ません。
 故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ません。
 新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ません。
 この新天新地は幾度となく繰り返されているのですが、何れも ゝ の形に於けるが如く同一形式のものではありますが、同一のものではないです。
 より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解していない。
 月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するのに苦しむものですが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのです。

 太陽(ミロク)原理からすると、月という宇宙船がやってきて、地球環境を整え、今の地球をつくり出しました。そして地球に降臨した大天使ミロクが少し目覚め始めて、闇の世を照らす太陽(ミロク)として誕生しました。


 これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得ます。
 新天新地新人はこうして、生れ、呼吸し、弥栄えます。
 しかし、新人と生れ、新天新地に住むとしても、その以前の自分の総ては失いません。
 只その位置を転換されるのみであります。
 地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてますが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのです。
 その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程なのです。
 蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びなのです。
 何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからであります。
 総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為します。
 歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ません。
 故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はないのです。
 生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばなりません。
 歓喜は行為となります。
 行為しない歓喜は、真実の歓喜ではありません。
 只考えたり意志するのみでは萌え出でないのです。生命しないのです。
 只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではありません。
 霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのであります。
 地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのです。
 生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成します。
 自分のふさわしくない環境に住むことは許されません。
 否、苦しくて住み得ないのです。
 若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまうのです。
 例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一の愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成します。
 故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和するもので、山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多いのです。
 自分は他であり、他は自分と感覚するのです。
 故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのです。
 しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動きません。
 死後の世界もまた生前と同様ですが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのです。
 ですが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ません。
 物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもちますが、霊的角度から見れば永遠性はもちません。
 しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものであります。
 そうして、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵しています。
 無(霊)は有(物質)を無化(永遠化)しようとし、有(物質)は無(霊)を有化(現実化)しようとし、その融合の上に生命が歓喜するのです。
 無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければなりません。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 
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