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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第09帖 (386)

 

 霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命します。
 これは根元からの存在であり用(働き)ですが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体の (うごき)をなします。
 霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪なのです。
 悪あればこそ善が善として救われ弥栄します。
 善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのです。
 悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄えます。
 力がそこに現れ、呼吸し、脈打って生命します。
 故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆくのです。
 地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆくのです。
 そうして、尚地上人は死後の世界に通じなければなりません。
 死後の世界との関連により複数的悪善におかれるのです。
 善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのです。
 善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、このような理由によるものです。
 善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様なのです。
 故に神は悪を除こうとはされず、悪を悪として正しく生かそうとされるのです。
 何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面であるが故です。
 悪を除いて善ばかりの世となそうとするのは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめようとなす限られている科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものなのです。
 この一点に地上人の共通する誤っている想念が存在するのです。
 悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
 この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となるのです。
 地上人のもつ想念の本(もと)は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本(もと)は神であり、神のもつ想念の本(もと)は大歓喜であります。
 故に、地上人は霊人によって総ての行為の本(もと)をなし、霊人は神により、神は大歓喜によって総ての行為の本(もと)とします。
 故に、地上人そのもののみの行為なるものは存在しないのです。
 何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばなりません。
 歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属します。
 霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのですが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はありません。
 しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ないのです。
 すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。
 動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。
 霊にのみ傾いてもなりませんが、強く動かなければならない。
 体のみに傾いてもなりませんが、強く力しなければならない。
 悪があってもなりませんが、悪が働かねばならないということです。
 常に、動き栄えゆく、大和の を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を ゝ とする立体的うごきの中に呼吸しなければならないのです。
 それが正しき惟神の歓喜であります。
 惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。
 故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 
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