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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第15帖 (392)

 

 霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活があります。
 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもちます。
 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化します。
 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがないのです。
 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく地上世界と同様であると云うことを意味します。
 また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ています。
 その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいます。
 そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。
 霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界であります。
 地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめません。
 これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得るのです。
 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例しています。
 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなります。
 彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのです。
 理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになります。
 但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのです。
 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故なのです。
 しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。
 また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものであります。
 霊人はまた、いろいろな食物を食しています。
 云う迄もなく霊人の食物ですが、これまたその霊人の状態によって千変万化しますが、要するに歓喜を食べているのです。
 食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのです。
 地上人の場合は、物質を口より食べるのですが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものです。
 そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることなのです。
 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのですが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのです。
 これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではありますが、その歓喜の度合および表現には大きな差があります。
 食物は歓喜であり、歓喜は神ですから、神から神を与えられるのです。
 以上の如くなのですから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。
 また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好みます。
 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好みません。
 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからです。
 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからです。
 そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理しています。
 そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのです。
 すべての善は ゝ より起り、 ゝ にかえるのと同様、総ての悪もまた ゝ より起り ゝ にかえります。
 故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのです。
 殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのです。
 この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならないのです。
 この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのです。
 悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ないのです。
 所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのです。
 地上人は、霊人との和合によって神と通ずるのです。
 地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属するのです。
 その平衡するところに力を生じ、生命します。
 しかし、地上人と、霊人と一体化した場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ゝ が与えられると見えるものなのです。
 これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となります。
 また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われます。
 そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命するのです。
 故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのです。
 神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ません。
 法則とは歓喜の法則である。
 神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしています。
 これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものなのです。
 神は、左手にて の動きをなし、右手にて の動きを為します。
 そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばなりません。
 地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれます。
 この場合、その平衡を破るようなことになってはならないのです。
 その平衡が、神の御旨なのです。
 平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのです。
 左手は右手によりて生き動き、栄えます。
 左手なき右手はなく、右手なき左手はないのです。
 善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ないのです。
 神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生みます。
 新しき神は、常に神の中に孕(はら)み、神の中に生れ、神の中に育てられつつあります。
 始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 
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