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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第19帖 (396)

 

 天国の政治は、歓喜の政治であります。
 故に、戒律はないのです。
 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばなりません。
 天国の政治は、愛の政治であります。
 政治する政治ではないです。
 より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされます。
 故に、与える政治として現われるのです。
 天国は、限りなき団体によって形成されています。
 そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのです。
 統治するものは一人なのですが、二人であり、三人として現われます。
 三人が元となり、その中心の一人は、 ゝ (光)によって現わされ、他の二人は、 ○(光を映す鏡) によって現わされるのです。
 ○ は、左右上下 二つの動きの (用・働き)を為すところの立体 (渦の力)からなっています。
 統治者の心奥の ゝ (光)は、更に高度にして、更に内奥に位する ゝ (神)の中の ゝ (神・歓喜)によって統一され、統治され、立体 (渦の構造)をなしているのです。
 天国では、この ゝ を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしています。
 スの神は、アの神と現われ給い、オとウ(日の神)とひらき給い、続いて、エとイ(月の神)と動き現われ給うのです。
 これが総体の統治神であります。
 三神であり、二神であります。
 ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真であります。
 これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応しています。
 オ、ウなる愛は曲線であり、心臓です。
 エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのです。
 これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもありません。
 よりよく奉仕するのみなのです。
 奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することであります。
 また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入るのです。
 故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。
 指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っています。
 天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれています。
 一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体しています。
 またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働きます。
 その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄なのです。
 即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰なのです。
 天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝します。
 歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことなのです。
 けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではありません。
 礼拝生活なのです。
 総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことなのです。
 与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本なのです。
 故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違しています。
 しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致しているのです。
 地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方・方法であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
 無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用・働きなのです。
 森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用であることを知らねばなりません。
 天国の政治は、光の政治であります。
 天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われています。
 一は月球の如き現われ方です。
 一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治です。

 天国の政治は歓喜、愛により、ゝ(神)中心として弥栄に運行され、太陽と月球、火と水の如くに現れる。太陽(ミロク)原理サイトもこれと同様の現れ方をしています。


 愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐのです。
 月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのです。
 またそれは、大いなる歓喜として現われ給うのです。
 光と熱とは、太陽そのものではありません。
 太陽は、火と現われ、月は、水と現われますが、その内奥はいずれも大歓喜であります。
 光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばなりません。
 このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのです。
 天国の太陽からは、真と愛とが常に流れ出ていますが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるだけなのです。
 太陽の内奥は大歓喜が存在するのです。
 故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜の ゝ が感じられるのみであります。
 この歓喜の ゝ が、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのです。
 歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばなりません。


年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
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