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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三053

下つ巻 第11帖 (053)

 けものさへ神()のみ旨に息せるを神()を罵る民のさわなる。草木さへ神の心に従ってゐるではないか、神()のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、あの姿に早う返りて呉れよ、青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。七月の十八日、ひつくのか三。
平易意訳

 けものさへ神()のみ旨に息しているのですが神()を罵(ののし)る民は多いものです。
 草木さえ神の心に従っているでしょう。神()のむねにそれぞれに生きているではないですか。あの姿に早く返ってください。
 青人草と云うのは草木の心の民のことです。道は自分で歩んでください。太陽(ミロク)の御用は自分でつとめてください。人がさしてくれるのではないです。自分で御用するのです、道は自分で開くのです、人を頼ってはなりません。
 七月の十八日、ひつくのか三。


解説と補足説明

  • yuru63:2013/09/07
    「青人草と云うのは草木の心の民」
     草木の心とは健気(けなげ)で純粋なものではないでしょうか。
     「生まれ赤子のうぶ心」「無心の境地」にも通づるところがある様に感じます。
     参考になりそうな情報があったので以下に紹介してみます。

    http://i-kibun.com/stress021.shtml

    「気分」が良いときの頭の中


    「気分」が良いとき、そして「気分」が悪いとき、
    私たちの頭の中は、どのような状態になっているのでしょう。

    ここでは主に、リチャード・カールソンの著書を「教科書」にして、オリジナルのイメージ図を用いてわかりやすく説明していきます。


    下記は、リチャード・カールソンの著書「楽天主義セラピー」 から抜粋した、「思考」のしくみについて書かれた一文です。

    「驚くべきことに、人は湧いてくる思考について、ほとんどコントロールできません。まるで思考が心の中に、でたらめに現われてくるかのようです。思考に対するコントロールは、思考が形成されたあとにはじめて出てきます。思考が形成されたあとでなければ、その思考を考え続けるか、流れ去るままにしておくかの選択はできないのです。」


    私たちは、日に5万以上もの「思考」を生み出しています。

    頭の中で、つぎつぎと「思考」が湧いてくるのを感じることができます。
    たしかに、湧いてくる「思考」をコントロールすることは、できませんね。

    私たちはまず、自分の意思ですべての「思考」をコントロールすることができないのです。


    「思考」が形成されたあと、私たちがなにもしなければ、「思考」は流れ去ってしまいます。
    ここでも、私たちは自分の意思で「思考」を捨てているわけではありません。
    私たちがなにもしなければ、「思考」は勝手に現れて、勝手に消えてゆくのです。

    つぎつぎと湧いてくる「思考」を、つぎつぎと捨てているとき、
    「思考」は<自然本来の働き>をしています。

    じつは、私たちが、湧いてくる「思考」を自然に流れるままにしている状態のとき、つまり、「思考」を生み出しては捨て去るという作業を続けているとき、私たちの「気分」は、とても良い状態になるのです。

    この状態を図解してみると、下図のようになります。



    図のように、「思考」が<自然本来の働き>をしているとき、
    私たちは「すべてがうまくいっている」と感じ、「気分」の良い状態になれます。

    あなたが、頭の中で、「なにもしないでいる」状態のとき、
    それがあなたの「気分」が良くなる状態です。

    なんと、つぎつぎと生まれてくる「思考」を流れ去るままにしてさえいれば、
    私たちの「気分」はとても良く、ストレスを感じることはなかったのです!


    ・・・しかし、私たちはそう簡単には「思考」を流れるまま放っておくことができません。

    なにか行動するとき、私たちはつねに「頭をつかって」考えているからです。

    次項で詳しくみていきましょう。

年月日

昭和十九年七月十八日
 旧五月二十八日(1944年)

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