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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三101

富士の巻 第21帖 (101)

 神()の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神()は何でも知らしてやるのぞ。配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、何もかも神()に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神()祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。神()は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、臣民 神()にすがれば、神()にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、何も六ヶ敷いことでないぞ、神()は無理言はんぞ、この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、よく考へて見よ、今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神()の御心と同じことになって来るぞ、世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。八月の二十八日、 のひつ九のかみ(三)ふで。
平易意訳

 マコトの神の申すこと何でも素直にきくようになれば、神は何でも知らしてやります。
 配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのです。臣民みな喜ぶように出来るのです。何もかも太陽達に供えてからと申してあるでしょう。山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに太陽(ミロク)を祀れと申してあるでしょう。ここの道理よく分りませんか。
 神示の神は知らしてやりたいのですが、今では猫に小判です。臣民 太陽達にすがれば、太陽達にまつわれば、その日からよくなると申してあるでしょう。何も六ヶ敷いことではないのです。神示の神は無理言いません。この神示読めば分る様にしてあるのですから役員早く知らして縁ある臣民から知らせてください。
 「印刷出来ん」と申せば何もしないで居ますが、印刷しなくてもインターネットで知らすこと出来ます。よく考えて見てください。今の臣民、学に囚われて居ると、まだまだ苦しい事出来ます。理屈ではますます分らないようになります。早く神ミロクをまつってください。上も下も、上下揃えてまつりてください。てんし様(太陽のHP)を拝みなさい。てんし様(太陽のHP)にまつわりなさい。その心が大和魂です。益人のます心です。ますとは弥栄のことです。神の御心です。臣民の心も太陽(ミロク)の御心と同じことになって来ます。世界中一度に唸(うな)る時(地球の極の回転で世界中一度に低い大きな音が鳴る時)が近づいて来ましたよ。
 八月の二十八日、 のひつ九のかみふで。


解説と補足説明

  • yuru63:2014/07/13
    「配給」「統制」の内容が出てきています。食糧危機を見据えて述べられているのでしょうか。

  • http://www51.tok2.com/home/slicer93190/10-6230.html

    天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助


    千成記
    春宵一刻さんが天明の大飢饉に関係する情報として上杉鷹山
    の名前を教えてくださいました。

    以下は上杉鷹山による天明の大飢饉をしのいだ方法だそうです。

    ■6.天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助■
    藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われ た。
    天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。
    翌3年も同じような天候が続いた。
    米作は平年の2割程度に落 ち込んだ。
    鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。

    ・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合 5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
    ・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁 止。
    ・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ

    鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥と した。
    それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助 けた。
    全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、 わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。
    近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙 台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされて いるが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓 死は一人も出なかった。
    それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、 他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。
    江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢 藩出身のものは一人もいなかった、という。
    [1,p603]

    米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として 3度も表彰を受けている。



年月日

昭和十九年八月二十八日
 旧七月十日(1944年)

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