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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三113

天つ巻 第06帖 (113)

 天(あめ)は天の神()、国は国の神()が治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出(おんそうで)ざぞ。九月の一日、ひつくのか三。
平易意訳

 天(あめ)は天の神()、国は国の神()が治(し)らすのです。お手伝いはありますが。
 秋の空のすがすがしさが、グレンと変ります。地獄に住むものは地獄がよいのです、しかしこの世そのものは天国です。逆様(地獄世を作り出している様子)はもう長くはつづきません。無理が通らない時世(ときよ)が来ました。いざとなったら残らずの活神(いきがみ)様、御総出になります。
 九月の一日、ひつくのか三。


解説と補足説明

  • http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/sunmoon/123_04_top/top_04_113.htm
    より

    氷治氏

    悪は地獄界へ、神人は天の国へ、皆さんはお住まいになるのが良いと説明しています。そして、現実の地上界には地獄にいる者達が闊歩していて、天の国に住む者達がその地獄化した地上界にいる。こんな逆さまの世の中も終わると説明しています。

  • yuru63:2015/01/16
    「秋の空のすがすがしさが、グレンと変ります」
     グレンと変わるとはどうなるのでしょう。
     以下の内容の様に、終末の空は騒がしくなるということかもしれません。

    http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=342
    「私が霊的に見たハルマゲドンは第三次世界大戦ではなくて、神と神とが正面からぶつかる神界戦争でした。正神界と邪神界との最終の戦いで霊界における全面戦争です。龍神と龍神がぶつかる。そして宇宙をも巻き込んでUFO戦にもなるのです。」

  • ---関連する参考記事目次---

    113-01:霊界に流れている核による第三次世界大戦など起きうるのだろうか???
    http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=342


    113-02:創造神から見れば善悪はなけれど、個々の魂は悪で汚れや腐りや捻れもする
    http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=341

  • ---関連する参考記事詳細---

  • ===113-01===
    原稿 http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=342

     霊界に流れている核による第三次世界大戦など起きうるのだろうか???


    2015.01.11 Sunday
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    08:25
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    by 上野公園


    最近、私の元に何人かの方から焦った内容のメールが来ました。そのメールの内容は、数年先に第三次世界大戦が起きて、人類が核によって滅亡するビジョンを見た。何としても第三次世界大戦を止めなければならない。その為にはどうすればいいのかという内容です。

    そう言われましても、私自身は第三次世界大戦が起きて核によって人類が滅ぶビジョンをこれまで一度も見たことがないのです。見たことがないビジョンを言われても、答えようがないわけです。
    確かに、そうした第三次世界大戦が起きて核の打ち合いで人類が滅びると言われる方は他にも多々あります。必ずしも、起こりえないと断言出来る話ではありません。

    しかし、霊的ビジョンとは誰もが見るわけではありませんし、自分が見たビジョンが絶対的なものとは限らないのです。

    私自身は30年以上、霊的世界の一部だけであっても関わりを持って来ました。そうした中で見て来たことは、ビジョンを流している存在がいったい誰なのかということなのです。
    私が神霊界修行に入った当時、誰かが私に何等かの霊的ビジョンを見せて来ようとすると、それがバシッと言う電気音のようなものがして、その映像が遮断されるがままありました。
    それは私を守護している存在が、他から私に入って来るビジョンを切断していたと思われます。それで霊的世界は「電気」と呼ばれるものと深い関わりがあると気づきました。

    霊界から来る映像は、私達が見ているテレビジョンとは違う周波帯において、霊界のビジョンを肉体が受信するかどうかなのです。しかし、それは誰が制作したビジョンであるかを追求しないと、自分か欺かれてしまいます。

    また、霊界に現れるビジョンとは、そのビジョンを打ち消すがあります。誰かがあるビジョンを実行しようとしていた時、それを消してしまうことです。消されたビジョンはこの世では起きて来ません。私達の目には見えない世界。霊界では日々そうした霊的な戦いもあるわけです。
    私達は日々安穏として生きていますが、私達が知らない霊世界では常に闘争は存在しているのです。

    ある時、一部の霊能者達の方が東京では無い日本の某大都市で大地震が起きると騒いでおられたことがあります。確かに私も東京ではないその日本の大都市に高周波地震を起こす大地震が起きるビジョンは見ました。そこまでならば、私もそうした霊能者の方達と同じようなことを言ったかも知れません。しかし、その大地震は時期早々と出ると、そのエネルギーを消すビジョンが実行されて大地震は回避されたのです。
    ですから、霊界におけるビジョンとしては一部の霊能者の言葉であったとしても、東京ではない某大都市に大地震が起きる可能性はゼロではなかったことになります。ただ、延期されただけで芽は残っています。

    予言で恐いのは、個人の占いだけをしている場合は、仮にそれらの予言が当たらなかったとしても当たるも八卦。当たらぬも八卦で終わってしまいます。しょせん個人の恋愛など高級神霊からすればどうでもよい問題です。
    そうした内容でスピリチュアルに大金を払いたいのあれば、いくらでも払えばいいのです。本人の自己満足の世界です。そうした内容ならば蛇霊や狐霊や狸霊に聞いていればいいのです。低い世界の問題はそうした蛇霊や狐狸の方がよく解る事柄なのです。
    しかし、東京に大地震が起きる等と予言して起きなければ、言った本人が責められてしまいます。簡単に口に出して言えないことです。

    大本教の出口王仁三郎聖師は近世日本が産んだ最高の預言者として知られていますが、関東大震災の予言は身内たる大本教信徒だけに告げられました。もし外れた時、大本教はまたもや邪教として世間に叩かれるからが理由でした。
    私の最初の師匠も阪神淡路大震災に関して事前に告げられたのは、阪神に住まいする自分の信徒のみです。信徒ならばもし外れても世間から叩かれるがないからです。

    精神世界関係のブログランキングでは、自分は高度の世界とチャネリングしていると称する方が、○○霊のお告げ式で上位を占められるわけですが、そのほとんどの方はそうしたことを言ってヒーリングとかセッションを商売の売りにされているわけでして、そうした自称霊が本当にその霊かとなった時、そのほとんどはヒーリングやセッションで金儲けをする為に使われているニセの名乗りが多いわけです。
    そうした方が優秀な霊能力者にサニワされてしまいますと、いくら自分では高度な霊世界からのチャネリングだと称しても、そのほとんどは高度の霊世界では無くて蛇霊や「狐狸」と呼ばれるような低次元界世界とのチャネリングがほとんどなのです。
    それならば、逆に自分の「巳さん」はこう言われています。自分の「お狸さん」はこう言われています。自分の「お狐さん」はこう言われています。と言われる霊能者の方の内容の方が遙かに的確です。

    私の兄弟子に当たる方で恐縮ですが、御本人は私のことを御存じないので明かしてしまいますが、現在は信徒数万人を持つ教祖様。当時既に万人近い信徒さんを持たれている時、「卑弥呼」と称する女性と結婚される予定のようだったようです。
    それに対して、私の最初の師匠はその女性は「卑弥呼」さんなんかではありません。すぐに別れなさいと忠告されたのですが、御本人は自分の目に狂いはない。彼女は「卑弥呼」さんです。師匠の言葉でも受けられませんと拒絶されました。
    その後、師匠の元にあの女性は師匠が言われる通り「卑弥呼」さんではありませんでした。今は別れましたと告げて来られたのです。信徒を数万人持つほどの霊能者であっても、その神名の名乗りが本当かどうか解らないものなのです。
    自分に出て来た霊が本当にそうなのかどうか、自己判断で簡単に解るようなことではないのです。

    つまり、
    嘘の神名やカタカナ名で名乗る霊よりも、自分は蛇・狐・狸ですと名乗る霊の方がはるかに信用がおけます。
    こうした高級神霊に化けない蛇や狐や狸霊は、自分たちは霊界で下位だから解らないことは解らないとはっきり答えます。為に嘘が出ずらいのです。
    ですから、私はそうした霊には親愛を込めて、「巳さん」「お狐さん」「お狸さん」と「さん」付けをして呼びます。

    確かに、一部の霊能者の方は六次元世界と呼ばれるような高次元世界の龍神から力をいただいているを見受けますが、それでヒーラーと称して病気治しはある程度出来るでしょう。しかし、それで自分はお釈迦様の再来だとかイエスの再来だとか弥勒ですとか救世主とか名乗れる段階ではありません。
    今、要求されているのは存在するのか存在しないのかは別として、九次元世界とか十次元世界に対応できる魂を持った存在の人です。

    過去に自分は3千億次元とか500万次元と称している方がありましたが、これらは狐狸であったり蛇霊で踊った方でした。だからと言って、まったく力がないのではなくて、その背後に龍神が存在していればある程度の霊力はあります。
    恐いのは龍神と呼ばれる存在です。そうした龍神と呼ばれる存在が見せて来るビジョンともなれば実行される可能性が出て来るからです。無論、それは一体の龍神ではなくて、群団として無数に存在している龍神を集合させている存在に対しては注意が入ります。
    自分は神刀を持っている程度では、そうした霊力に対処はできません。それに対抗するには、こちら側もそれに匹敵するだけの龍神を揃えるだけの力が要求されるからです。

    ほとんどの方は聖書にある「ハルマゲドン(殺戮の丘)」は、第三次大戦・核戦争だと見ておられるようですが、私が霊的に見たハルマゲドンは第三次世界大戦ではなくて、神と神とが正面からぶつかる神界戦争でした。正神界と邪神界との最終の戦いで霊界における全面戦争です。龍神と龍神がぶつかる。そして宇宙をも巻き込んでUFO戦にもなるのです。
    自分はプレアデスやシリウスの霊とチャネリングしていますでは、お話にはならないのです。仮にそれが事実だとしても、そのチャネリング霊にどれだけのUFO部隊を動かせるかまでに掛かって来るのです。大本教の出口王仁三郎聖師が宇宙規模の立替と言われているように、国常立尊の大立替とは第三次世界大戦という規模のものではありません。想像を絶する内容なのです。

    私は一部の方が言われる「トドメノフミ」を最初は完全な贋書と見ていました。それは明らかに最近の内容が入っていたからです。だが、これは元になる原書がどこかに存在していて、誰かがそれに作為的に書き加えたものではないかの見方に変わりました。
    私自身、そのトドメノフミで感心したのは、ハルマゲドンに「春、魔、下、ドン」と漢字を振ってあることです。
    ここで、もう一度「トドメノフミ」の一部を抜粋してみますと。

    魔の神、ドンと落ち行くを我ら喜びハルマゲドン
    春、魔、下、ドンこそハルマゲドン。

    この春とは、一般的に考えれば大本教で宣伝された「節分の炒り豆にも花が咲く」の翌日の「立春」のことかと思いますが、【我が世の春】と栄耀栄華を極めていた者達が「春」の「魔」であり、そうした者達が「下」の世界に「ドン」と落とされる意味もあります。

    それは私が子供の頃に臨んでいた声が、【今の世は社会の底辺に身を起きなさい。下に身を置く競争ぞ。上に立ちたい者は上に行かせなさい。そうした者達はドンデン返しで、新しい世では下の世界に行かなければならない】でした。ドンは「ドンデン返し」のドン。一八十度返す「イワト」開けです。


    私が見させられたビジョンにしても、実際には起きないかも知れません。
    私自身、私もそうした欺かれているなかの一人かも知れないとは思います。しかし、日本語という言葉であったとしても、ここまで仕組んであるということは、艮(牛虎)金神・国常立尊とはそれなりの力がある神であり、起きることを否定も出来ないのです。
    少しでも可能性がある事柄ならば、「ノアの箱舟」のノアのように、説かなければならないのです。

  • ===113-02===
    原稿 http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=341

     創造神から見れば善悪はなけれど、個々の魂は悪で汚れや腐りや捻れもする

    2015.01.04 Sunday
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    00:06
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    by 上野公園


    よく創造神から見ると、善悪などは無い。だから、人は何をしてもいいのだ。創造神の「愛」で許されるのだ。そうしたことを平気で言われる方が多々あります。
    こうした論理が、【人は何もしても神の愛で許されるのだ。やりたい放題】と説いている方の主張です。

    例えば、各種出ている神示にしても「何をしてもいい」と書いてありますが、これらは今の世界のことではなくて、「みろくの世」においては何をしても良いと書いてあるわけです。それは、みろく世は「悪」が一掃された世界だからです。

    確かに、おっしゃる通り
    「創造神から見ると、人が言うところの善悪はありません」。

    私が子供の頃に臨んだ声は、【人は悪が無ければ、善が何かと知ることは無い。悪をもってして善を知る。この世の舞台には善役も悪役も必要。その時、人は誰しも善役を演じたいであろう。だが、誰もが善役を演じるのであれば「この世の舞台」は成り立たない。悪役を命じられたならば、人々から憎まれるほどの悪役を演じてこそ、善を光らせる名役者である。善役は大根役者にでも出来る。だが、悪役は難しい。大根役者の善人を引き立たせるならば、次の神の舞台には主演の善役も与えよう】。

    すなわち、神から見ると善悪はないということは、この意味なのです。必要があるから「悪役」も存在するのであって、神は悪役だからと言って裁きはされません。

    だが、私に臨んだ声は下記のことも言われたのです。
    【この世の舞台を終えた役者は化粧を落として「素顔」に戻らないといけない。その時、その化粧を落としても元の素顔に戻ることが出来なければ、次の舞台には立たせない】。
    この世の舞台の化粧を落とすとは、肉体の命を終えて、元の魂(素顔)に戻ることです。その時は悪のままであっては行けないということです。次の舞台に立たせぬとは、みろく世に行かせないということです。

    だいぶ昔の話になりますが、当時青春歌手であった西郷輝彦さんが、「山善」で知られる社長がモデルの「どてらい奴」というテレビドラマの主演をされました。そのドラマの戦争編の中で、陸軍の上官として「藤岡重慶」さんが悪役軍曹を演じられました。
    その悪役ぶりは、陸軍にはひどい上官は数々いたが、あれほど悪の者はいなかったと言わせる憎たらしい軍人役が評判となり、視聴率は上がりました。その「どてらい奴」の芝居の舞台では、悪役ながら「藤岡重慶」さんに対して拍手喝采が起きたほどなのです。悪役に拍手喝采など前代未聞でした。誰があそこまで悪役を演じられるかです。芝居を見ている人達が感嘆したのです。主役の西郷輝彦さんを見事に引き立たせたのです。
    だが、この悪役スター「藤岡重慶」さんは普段は人柄がよくて、その素顔はとても素晴らしい役者さんでした。子供向けドラマでは善役をされたのです。

    私は常々小善の者よりも、大悪党の改心の方が勝ると説いて来ました。大悪党よし。されど、この世に居る間に改心しておきなさいです。だが、それは「凶党」と呼ばれる極悪非道の「悪」のことではありません。凶党であった魂は地獄に落とされます。

    スピを標榜して、神は愛で何をしても許されるのだと説くことが「聖者」の証だと思っているような方は、個々の魂の汚れのことをまったく理解されていないようです。それだとカルマも理解出来ません。
    そうした教えを聞いた方が何をしてもいいのだと、その魂を汚したり腐らせたり潰すおそれを何も考慮されていないことになります。

    多くの神の教えに、「改心」しなさいと説かれて来たのは、
    「この世の舞台を終えて元の素顔に戻る時、元の姿(魂)に戻ることが出来ない」問題なのです。

    私達は創造神ではありません。

    個々に魂を持っている存在なのです。
    ここを理解していないと、全てを間違えます。
    人は創造神だとか小宇宙だとか思い上がった慢心に入ります。


    各自の魂は例え役であっても、悪を犯したり我れよしの自己中になったり、単なる頑固者になったりすると魂が汚れて表面に毛物が発生したり(人の顔をしていても、その魂は獣)、腐ったり、潰れてしまいます。
    私は魂に点数が出る不思議を書きました。それは私だけでなく、その点数を見られた霊能者の方も存在します。その霊能者の方も腐った魂とか捻れた魂を見て来られた方です。
    ですから、そこに魂(鬼が云う)で「艮(牛虎)金神」の存在を出さなければ行けなかったのです。

    私はいやと言うほど牛頭の虎パンツ(牛虎)を説いて来ました。だが、それすら解ろうとせずに知ったかぶりの霊能者達だらけだったと言えます。
    自分の目に見えた聞こえただけでは、どのようにも化ける邪神にやられてしまいます。
    霊が見えるとか聞こえるだけでは、自分の愚かさに気づかないのです。オウム真理教の麻原や法之華三法行の福永だけでなく、数々の霊能者だけでなく世に知られる有名な宗教家ですら邪神に踊ったのです。踊っているのです。

    自分の前にお釈迦様が出て来た。狐狸が化けたお釈迦様に貴方が「弥勒」だと言われれば、大本教神諭が予告した「九つ花」による369(みろく)の「米」教で証す「56億7千万」も、いくら説いてもその人には理解出来ません。
    大きな神名を名乗る霊が出て来たならば、何の疑いも無く自分にそんな存在が出て来たと有頂天になったりされます。私は数々のニセ救世主を見て来て、邪神達がニセ救世主を仕立て上げるやり方も見て来ました。
    よくそれで自分が救世主に選ばれた者だと言えるなと驚いていました。無知丸出しです。無知故に霊の言葉に欺されます。逆によく学び知っていると霊の言葉に欺されません。為に、常に自分を「いと小さき者」に置いていなければならないのです。サニワをしないといけないのです。名乗る神名とか所在地が合っている等は霊も知っており、霊が見えるでは見破るのは難しいのです。その霊が如何なる「心」を持っているかが見破るコツなのです。

    日本の古神道だで、石笛を吹いているでは見破れないのです。菊座にしても蓮座にしても昔の話であり、邪神でもそんなものは造って来るのです。ですから、菊座だ蓮座だで欺されておられるニセ救世主も居られます。光ですら欺して来るのです。それに対抗するには自分を磨くより道はないのです。

    腐った魂がどうなるかは、仏教における「ダキニ天」が語ります。お釈迦様は、ダキニ天に「食べるならば腐った魂を食べなさい」と説かれた話は、そうしたことを語っているのです。
    つまり、お釈迦様には誰も彼も助けるなどの気は存在しなかったのです。腐った魂は食べられてしまえです。一部の霊能者の方は潰れた魂は破砕されると説かれていますが事実であり、全ての人が「輪廻転生」などしてはいません。そうした魂には「永遠不滅」ではないのです。

    魂が腐ったり潰れたり捻るのが今日までの魂です
    ですから、みろくの世には腐ったり潰れたり捻れる魂から、腐らない潰れない捻れない魂に入れ替えしなければなりません。今の魂のままでは、みろく世には渡れないのです。

    なまじおかしな霊感を持っている人ほど、慢心から誤った方向に行かれます。

    ある有名な宗教の方は私も尊敬はしておりますが、人を助けたいと思うあまり、力を得るために自己の魂を悪魔に食べさせる約束をした」と自著に書かれていると教えて下さった方があります。
    自分の魂を悪魔に食べさせる約束をして、人を助ける力を得る。実に悲しい話です。

    神は愛だから何をしても許されるのだと説いている方の教えに引っかかってしまいますと、その教えに引っかかった方達には「来世」の保証はないのです。

    こうした間違ったことを平然と説いて聖人君子の様な顔をされている方は、最後の審判において無間地獄などに行かれるかも知れません。そんな地獄など存在していないと平然というスピの方達は、そうした地獄界の存在を知らないだけであって、行ってから嘆きなさい。墜ちてからは、もう泣こうがわめこうが後の祭りになります。無間地獄に墜ちた魂を助けに行こうとしても、降りても降りても到達しないので誰も助けには行けないのです。

    では、創造神は「鬼」かと言いますと。違います。

    ただ、立替の時には創造神に「愛」など存在しません。鬼の様に振る舞われます。だが「情」はあるのです。「鬼の目にも涙」と言いますが、創造神(閻魔大王)の「情」にすがりなさい。そうすれば、腐った魂も捻れた魂も救われます。
    何故ならば、全ての魂は創造神に帰結するものだからです。国常立尊様のことを「閻魔大王」様とも申し上げますが、魂の更正(甦)は閻魔庁の所管であり、諸々の神や天使の所管ではありません。
    まして、西洋の天使面したミカエルとかガブリエルなどと称しているトリ違いの霊に出て来る幕などないのです。大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋で言う「ミカエル」などの天使長は存在しないとはっきり忠告されたはずです。ミカエルは「省りみる」の意味だと説かれましたが、これは「巳(み)帰る」を起こす天使長の意味で固有天使名ではないのです。


    閻魔大王様ならば弥勒の世に入れる魂にと替えてくださるでしょう。
    ただし、寺院で飾られている閻魔大王様の偶像を拝めばよいの話ではありません。

    私は稲荷大神豊受様の御代をしていた最初の師匠に「ダキニ天」とは何ですかと聞くと、その師匠は豊川稲荷信仰はいいけれども「ダキニ天」信仰はしてはいけないと言います。私からすると豊川稲荷もダキニ天も同じではないのですかと聞くと、その師匠は「何れ貴方にもその意味が解るでしょう」と話を切られてしまいました。
    その師匠と疎遠になったある日、豊受様が出て来られたので、「ダキニ天」とは何ですかと聞きましたところ、豊受様が「ダキニ天とはこういう顔じゃ」とその形相を一変されたのです。普通の方がそれを見れば腰を抜かすでしょう。卒倒されるかも知れません。人間ならばそんな姿にはなれませんが、そこが霊の世界です。
    それで、私は「なるほど」。おかげでダキニ天が魂を食べる意味が解りました。ありがとうございましたなのです。これはお釈迦様の説話だけで理解出来る方はおそらく一人も居ないでしょう。だが、神の本質を理解すれば納得できます。

    もう、霊力が欲しいと荒行などして、なまじ滝場で邪神や悪神を拾って、そうした霊が化けたものが見えた聞こえた等と喜んでいる段階ではありません。行者が切る「九字」など役に立たなくなります。本で読んで覚えた九字なども役に立ちません。師匠から貰った九字も役に立ちません。古来の日神道の秘文も作法もまったく役に立たなくなって来ます。

    私は誰からも「九字」など貰っていませんが、いかほど豪語する行者が私に攻撃の九字を切ったところで役に立っていませんでした。何故ならば、私は閻魔庁に守られて来たからです。いくら日本神道の名家の家柄であろうと、役には立ちませんでした。節分の炒り豆で「鬼は外」の閻魔庁には勝てないのです。閻魔大王(国常立尊)は神霊をも裁くに入って来るからです。

    いよいよ鬼の「閻魔大王」様のお出ましの時に近づいているのです。

    「米」教は終わりました。が、貴方を助けるか助けないかは鬼として追われた「閻魔大王(国常立尊)」様しだい。

    その時、国常立尊(閻魔大王)は悪神だ!。曲津神(まがつかみ)だ!。と言いたい人はそう言っていればいいのです。それは大本教神諭に書かれています。その時は人々は私をやっぱり悪神だと言うと予告されているからです。

    また、出口王仁三郎聖師が書かれた「道の大本」の中にも出口なお開祖を曲津神と書いておられるぐらいですから、艮金神は悪神だと罵っていてもいいわけです。ただ、出口王仁三郎聖師さんは「九つ花」を紐解くことが出来なかったので、「閻魔大王」の意味が理解出来ていなかったとは言えるでしょう。


年月日

昭和十九年九月一日
 旧七月十四日(1944年)

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