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太陽(ミロク)原理・ひふみ解読編

フミのミクラ○二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三133

天つ巻 第26帖 (133)

 天の日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のやうなものと心得よ、一柱でもあるのざぞ。この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ。天明は神示(ふで)書かす御役であるぞ。九月十一日、ひつ九
平易意訳

 アメのひつ九の神と申しても一柱だけではないのです。臣民のお役所のようなものと心得てください。太陽(ミロク)を支える一柱でもあるのです。
 太陽(ミロク)はオホカムツミノ神(もも いちたろう)とも現われるのです。時により所によってはオホカムツミノ神として祀ってください。青人草の苦瀬(うきせ)をなおしてやります。
 天明は神示(ふで)を書かす御役であります。九月十一日、ひつ九


解説と補足説明

  • yuru63:2016/1/23
     この方ミロクを「オホカムツミ」つまり悪魔を追い払う神とも現れると云っています。諸世紀 第一章第八十一編の「HIJIに依って滅亡は 追放され道に迷った。」と関連しています。

    http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/sunmoon/category/22.htm
    より

    ひふみ神示 分類別一覧 - オホカムツミノ神 -

    オホカムツミノ神  天つ巻第26帖
    「この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ。」
    この方ミロクは、死を追い払うオホカムツミノ神としても現れるようです。青人草(人間)の苦しいことを治してくれるようです。人によっては人を裁く閻魔にも見えるし、人から死を追い払うオホカムツミノ神に見えるということのようです。


    オホカムツミノ神  天つ巻第29帖
    「この方オホカムツミノ神として書きしらすぞ。病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かるぞ、自分の身体中どこでも手届くのざぞ、手届かぬところありたら病のところ直ぐ分るであろうが。」
    オホカムツミノ神として現れるミロクは死を追い払う存在であると同時に、何で死ぬのかということも理解させてくれる存在でもあるように思います。


    オホカムツミノ神  日の出の巻第15帖
    「此の方 意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)であるぞ。神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではないぞ、手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、此の事 早う皆に知らしてどしどしと安心して働く様にしてやれよ。」
    神の息=ミロクの意図やここで云うオホカムツミノ神の起こす流れにうまく乗っかっているような状況であれば災難や病というのは大難が小難になるようになるとも取れます。ひふみには知らせて良い人と知らせては悪い人があると記載があります。このサイトで説明しているようなことを含めて、その話が理解できる人でないと難しいようです。

    オホカムツミノ神の事象として、ひふみの内容を曰くのそらで云える様な普段の会話の中で咀嚼してさらっと話せるくらいの人が現れることは、その一つの現れのように思います。

    それはMFさんがひふみ曰くのミロクであるとしたのなら、その動きは出始めているようにも思います。ひふみには、ひふみの内容をそらでいえるような人を十人は作りなさいよとあります。現状、何人の方がこのサイトで説明してあるようなことを理解されてるのかはわかりませんが、そらで話せる方々が十人も出来た時には大よその概要を掴む方もMFさんが活動を始めた際のころからよりはずいぶんと増えているのではないかと思います。

  • 「オホカムツミ」とは

    「出雲神話」からの引用です。

     『霊峰白山とともに(http://hakusan1.jugem.jp/?page=1&month=200905)』
     さて、オホカムツミは黄泉国と現世の境にある桃の木として神話に出てくる。黄泉軍に追いかけられて逃げたイザナキが桃三つを投げると、鬼がことごとく退散したというので、イザナキが桃の木に「オホカムツミ」と名付けた。

    白山奥宮に向かう途中に「青石」と呼ばれる岩があり、地上界と天上界を分かつ磐座とされている。そこより先へ登山道を進むと高天原~奥宮に至る。こんな高山にあってはコケモモはあっても、桃の木はない。しかもコケモモの実は小粒だ。まともに考えるよりは、桃ではなく、数霊「百(もも)」の威力で鬼を追い払ったという話なんだろう。
    『3『記紀』が伝える出雲神話(2)冥府下りと三貴神生み 八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜
     http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=31)』
     イザナギは魔除けの髪飾りや櫛を投げつけ、十拳剣を振り回しながら必死
    に逃げた。そして黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)というところで追いつかれそうにな
    ったが、そこに生える桃の実を投げつけて、無事に追っ手から逃れることが
    出来た。

     この時この桃に、もし世の人々が苦しみ窮地に立った時には、自分を助け
    たように、人々を救うよう頼み、「オホカムツミ」と名づけた。
     <桃は古代から邪気を払う力があると信じられ、後世の桃太郎の話もこの信仰からきている。救世主「オホカムツミ」の正体は追って明かしていく。>
  • 「青人草」についての参照

      一二三053 より
    yuru63:2013/09/07
     「青人草と云うのは草木の心の民」
     草木の心とは健気(けなげ)で純粋なものではないでしょうか。
     「生まれ赤子のうぶ心」「無心の境地」にも通づるところがある様に感じます。
  • http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/sunmoon/123_04_top/top_04_133.htm
    より

    氷治氏の解釈 :(一巡目)
    オホカムツミノ神=意富加牟豆美神の意味がわからないと、前半は 何を云いたいのか分からなくなります。
    もも・モモ・桃が「オホカムツミノ神=意富加牟豆美神」であるようです。死者の国と現世の境で、この桃を投げて、退散させていることから「生死の分かれ目の時代に現れて、悪魔を追い払う」の様な意味と受け取れます。そうすると、次ぎの「人々の苦痛なほしてやるのです。」の意味と繋がります。

    従って、この帖は おおよそ下記のような内容になります。

    「天の日津久の神」とは 役所のような組織で、人類との窓口は一つとなっていて、岡本天明氏はその一つだけの窓口の取り次ぎ役のようなものであると説明してあります。また、この窓口で語られるのは この方=日月の大神=ミロクのことで、人々の生死の分かれ目の時代に悪魔を退散させる為に現れる内容です。現れるのは 人々の苦痛=衆生を救う為に現れるのです。

    我が家には 桃・モモ・ももファミリ-がいますので、コ-ド桃が一致して、何となく微笑ましいいえば微笑ましいです。

      オホカムヅミノカミ=意富加牟豆美神の参考資料

    イザナギが黄泉の国の裏戸口から「まだ国を作り終えていないので帰って来い」というとイザナミは「残念だが死者の食物を食べたので、戻れるかどうか、ちょっと黄泉神と相談してみるから見てはいけない」と言われていたにもかかわらず、待ちきれなくて黄泉の国のすさまじい様子や、うじの湧いた醜いイザナミの体の各部から八つの稲妻が走っていたのを見てしまった。
    畏れて逃げ出したら「見たなぁー。よくも私に恥じをかかせたわね」と言って怒り、ヨモツシコメ(黄泉醜女=志許売族)に追いかけさせたのである。
    逃げるとき持ち物(鬘、櫛)を投げつけると食べ物(ブドウ、竹の子)になり、醜女が食べている間に逃げていた。
    そこで八つの稲妻の神の軍隊も出動させた。
    イザナギはトツカツルギ(十拳剣)を後ろ手で振りながら(呪う動作)死者の国と現世の境である黄泉比良坂(出雲国伊賦夜坂=八束郡東出雲揖屋)まで逃げてきて、そこになっていた桃(オホカムヅミノカミ=意富加牟豆美神)を3個投げつけて退散させている。
      青人草の参考資料

     六月に 『 口語訳 古事記 〔完全版〕 』 (文藝春秋)という本を出した。著者自身はもちろん、版元にとっても予想外の好評で版を重ねている。内容はいうまでもなく『 古事記 』 の神話や説話を口語に訳したものだが、古老の語り部を登場させて神話を語らせているというのが類書にはない特徴になっているということはできると思う。
     奇をてらっているとか語り口が好きではないとかいう声も聞こえてこなわけではないが、おおかたの読者には違和感なく受け入れられているようだ。そして、それは当然だろうと私には思われる。というのは、『古事記 』 という作品は漢文 (といっても和風化した漢文)で書かれてはいるが、古層に「語り」を抱えこんでいるからである。
     ひとつだけ例をあげると、冒頭の部分に、葦原の中つ国(地上世界)に最初に成り出た神のさまが次のように語られている。まずは原文で引用する。
      次、国稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流之時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神。
      これを、訓読すると次のようになる。
      次に、国わかく浮けるあぶらの如くして、クラゲナスタダヨヘル時、あしかびの如くもえあがる物によりて成りませる神の名は、ウマシアシカビヒコヂの神。
     両方を見くらべてみればわかるとおり、この部分は、漢文で表記された部分と和語を生かすために音仮名(カタカナで表記した部分)を用いた部分とが、交互に組み合わされている。しかも、「国稚如浮脂」の言い換えが、和語のクラゲナスタダヨヘル(海月のように海面を漂っている)であり、「如葦牙因萌騰之物」 の言い換えがウマシアシカビヒコヂ(立派な葦の芽の男神の意)という神名になっているということに気づくだろう。ただし、これは説明の仕方が逆で、クラゲナスタダヨヘルを漢文に訳すと「国稚如浮脂」になり、ウマシアシカビヒコヂという神様の名前を漢文で説明すると「如葦牙因萌騰之物」になるといったほうが正しい。
     『古事記』のすべてがこのような調子で書かれているわけではないが、和語を最大限に生かしながら漢文で書こうとする工夫がこうした文体を選びとったとみてよい。そして興味深いのは、この一つの文章で書かれたウマシアシカビヒコヂの誕生は、背後に、人の起源神話を抱えこんでいるらしいという点である。
     『 古事記 』 には人間の誕生が語られていないというのが一般的な見解だが、私は、このウマシアシカビヒコヂこそ、最初に生まれた人を語っていると考えている。なぜなら、別のところ(黄泉の国の神話の最後の部分)で、人は「うつしき青人草」と呼ばれているからである。
     ウツシキは現実のといった意、青人草は青々とした人である草の意である。この青人草を注釈書類は「青々とした草のような人」 と解釈することが多い。しかし、もしそういう意味なら「青草人」 という語順になるはずで、「青人草」とはならないだろう。とすると、「青人草」の 「草」 を比喩とみることはできず、人と草とは同格で、「人である草」と解するのが正しいのである。つまり、古代の人びとにとって、人はまさに「草」 そのものだった。とすると、泥の中から芽吹いてくるアシカビ(葦の芽)そのものをあらわすウマシアシカビヒコヂという神こそ、最初に地上に萌え出た「人」だったというのも頷けるのではないか。この神はアダムなのである。
     「創世記」 (旧約聖書) では、アダムは、神が「地の土くれ」をこねて造った土人形で、それに神が息を吹き込むことで命を与えられ人となった。乾燥した砂漠地帯に生まれた神話らしい語りかたである。そして、一方のウマシアシカビヒコヂは湿潤なモンスーン気候の日本列島にふさわしい語られかただし、自然に泥の中から萌え出してきたというのも作為がなくていい。
     大地に萌え出た植物の芽は成長し、そして枯れてゆく。人もまた土から生まれ成長し、子孫を残して死んでゆく。仏教的な輪廻転生のような哲学的な思惟としてではなく、ごく素朴な循環する自然観のなかでウマシアシカビヒコヂは語り出されたに違いない。
     『 古事記 』 という作品そのものは、天皇家の歴史の優越性を主張するために八世紀初頭に編纂された国家神話という性格をもつのだが、その中に、ここにふれたような古層の神話世界が抱えこまれているのを見つけるとホッとする。そして、このように人の起源を語る人びとの健全さをうらやましくも感じるのである。

年月日

昭和十九年九月十日
 旧七月二十三日(1944年)

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