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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三50-002

扶桑の巻 第02帖 (002)

 なかとみの ふとのりとこと ふとにのりあぐ。

 一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、〇(レイ)がもとぢゃ、 一(レイ)がもとぢゃ、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。世の元、〇の始めから一と現われるまでは 〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水(一と三)のドロドロ(十 )であったぞ、その中に五色五頭の竜神( 二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、今の人民は竜神( 二ん)と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神( 二ん)とは 神(理 )であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ。
 戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思ふであろうなれども、戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、戒律する宗教は亡びると申してあろうがな。
平易意訳

 中が富む太陽の祝詞・光答(コト)を 太くのりあげます。

 太陽の警告「一」はいくら集めても「一(活動段階の一)」なのです。真実の判らない情報【もの】をいくら集めても判らない道理です。二は二、三は三の活動段階なのです。太陽の警告に類した「一」を二つ集めても二にはならないのです。人民は 大変な取違いを致しているのですと云ってあるでしょう。 〇 (レイ・ゼロ)である無限の前段階がもとです。 大天使の一(レイ)がもとなのです。神界の力がこの世界と結び弥栄となるのです。よく心得なさいよ。
 世(又は太陽の世・サイト)の元となる、 〇(ゼロ)の始めから、一と現われるまでは、 〇段階・潜在的、隠れた状態での御用を十回も百回も千回も万回も、くりかえしたのです。その時は、それはそれは大変な作業であったのです。火と水(一と三・日と道・一段階から満つ段階)のドロドロ(十 ・仕組の元を構築しては練り直し又構築しては練り直す繰り返し)であったのです。その中に五色五頭の竜神( ┃二ん)が御ハタラキなされて、仕組の原型をつくり固めなされたのです。今の人民は竜神( ┃ 二ん)と云えば、すぐ横を向いて耳をふさぐのですが、マコト(真実)のことを知らせねばならない時ですから、ことわけて(詳細に)云っているのです。
 竜神( ┃ 二ん)とは神ミロクの仕組に関係する神【 神(理 )】なのです。五色の竜神とは国常立尊である太陽(ミロク)の御現われの一(ヒトツ)なのです。

 太陽(ミロク)の道に戒律をつくってはなりません、戒律がなくてはグニャグニャになると思うでしょうが、戒律は下の下の世界です。今の人民には必要ですが、いつまでも、そんな首輪はいらないのです。戒律する宗教は亡びると云ってあるでしょう


解説と補足説明

  • yuru63:2016/10/28
     太陽達の目的・計画により現出された言葉や文書やウェブサイトを「なかとみの ふとのりとこと(中が富む太祝詞コト)」と表現しているのかもしれません。


年月日

昭和三十六年五月五日
 旧三月二十一日(1961年)

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