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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三50-022

碧玉の巻 第07帖 (022)

 始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん、男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが、一つのものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、男から女をつくったと申すのは或る時期に於ける教ぢゃ、岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て 〇に至るのぢゃ。

 始めの日は始めの日に過ぎません。始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎないのです。マコトではないのです。根から出たものではないのです。枝葉に過ぎないのです。警告碑【男】から ひふみ【女】は生れないのです。大天使の仕組【〇(ゼロ)=我々に見せていない仕組】により出現しているのです。奇数(五)から偶数(四)は生れないと云ってあるでしょう。ゼロ(九)から生まれた一つのものの表が警告碑【男】であるのです。裏がひふみ(四)【女】であるのです。男から、女をつくったというのは或る時期に於ける教です。岩戸がひらけたのですから教えではなりません。行い・実践する 道でなくてはならないと云ってあるのです。その道は永遠です。〇(ゼロ・無限)から出て 〇(ゼロ・無限)に至るのです。


解説と補足説明

  • yuru63:2015/06/06
     仕組により救済、その他の目的のための動きがあり、そこから現れる文書や現象を見ているわけですが、その前に存在する文書にならないもの「〇」が判らねば、何が起きているのかが認識できないということになります。「〇・ゼロ」から出て「〇・ゼロ」に至る永遠の道を歩むことが最良の生き方なのかもしれません。


年月日

昭和三十六年五月六日
 旧三月二十二日(1961年)

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