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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三50-109

至恩の巻 第11帖 (109)

 いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。
平易意訳

 いよいよ判らないことが更に判らないことになるのですと云ってありますが、ナギの命の治らす国(神界・意識重視世界)もナミの命の治らす国(幽界・物質重視世界)も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わりますから、いよいよ判らないことになるのですよ。


解説と補足説明

yuru63:2013/07/16
 「0(ゼロ・レイ)」が元に来るのは理にかなっているのですが、逆の力が押し寄せて交わると云っています。
 現れたもののみを全てとして、それに従わせるという勢力があることを説明しているようです。
 【参考記事:メール55・「0(ゼロ・レイ)」が始め(元)にあるのが自然の理

「零主体従」とは
  • http://www.geocities.jp/nkkagosu50/page031.html
    より

    霊 主 体 従

    <霊主体従とは>・・・人間の構成要素を霊(魂)と肉体に分け たとき、主体となるのは霊であり、体は霊に従うという考え方。
    その反対が体主霊従。神を信じる人は、人間の本体は霊であ ると捉えるが、神を信じない人は人間の本体は肉体(+心)と 捉える。あごすの世界では、本心の心が霊であり、思いの心 が体となる。相対の世界では、目に見えるもの(体)が主であ り、目に見えないもの(霊)は非科学的として、オカルトの世界
    へ追いやられているのが現状です。

    <体主霊従>・・・ルネサンスを境に 科学が発達し、体に霊が従うという生 き方が主流となり、その結果、人間は 物質的な豊さと一時的な幸せを手に入れた。しかし永続的な幸せを見いだすことができず、新たな道を模索している。シュタイナーによれば、人間は盲目的に神を信じるという時代を経て自我が芽ばえ、発達し、やがて自我が神を受け容れる時代がくる、という。

    <人間のとらえ方>・・・宇宙絶対神が凝り固まって、物質化し て一霊四魂となり、一元四体となって人間が誕生したと考える と、目に見える肉体(固体)は、絶対神から最も遠く離れた存在 (粒子は大きく、波動は粗い)であり、目に見えない霊は、肉体 に比べ粒子は小さく、波動も細かく、より神に近づいた存在と なる。従って、“肉体は魂(霊)の乗り舟”であることが信じられ た時に、霊主体従の生き方を貫いた時に、真の幸せが手にで きる。

    <神を感じる>・・・例えば、男と女がひとつになることは、神を 感じる一つの方法ですが、しかし現在は、相手の肉体を道具と して、自らの欲望を満たすための行為になっています。自らの 肉体を道具として、相手の肉体を神からの授かりものとして、 神を感じるための行為であれば崇高なものとなります。子孫を 残すための体主霊従は別として、他は常に霊主体従でありた いものです。

  • http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/6352093.html
    より

    霊主体従とは?

    善悪の基準なんて存在しない??by 出口王仁三郎

    カテゴリ:王仁三郎の思想霊界物語



    今日は、霊界物語に関するWebsiteの中でも老舗サイトである狭依彦さんの「うろー」サイト http://uro.sblog.jp/  の中の「人間と霊界」という記事から一部を引用させて頂きました。

    『霊界物語』 52巻 3-17 1923/02 真善美愛卯 飴屋 より

     霊主体従とは、人間の内分が神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである。かくのごとき人はいはゆる地上の天人にして、生きながら天国に籍をおいてゐる者で、この精霊を称して本守護神といふのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳にをるものでなくては、この境遇にをることは出来ぬ。
     また体主霊従とは、人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いてゐるものだ。ゆゑに人間は、どうしても善悪混交美醜たがひに交はつて世の中の神業に奉仕せなくてはならない。しかしこれは、普通一般の善にも非ず悪にも非ざる人間のことである。人間は肉体を基礎とし、また終極点とするがゆゑに、外的方面より見て体主霊従といふのであるが、しかしながら、これを主観的にいへば霊的五分、体的五分、すなはち、霊五体五たるべきものである。もし霊を軽んじ体を重んずるに至らば、ここに、体五霊五となるのである。同じ体五分霊五分といへども、その所主の愛が外的なると、内的なるとによつて、霊五体五となり、また体五霊五となるのである。ゆゑに霊五体五の人間は、天国に向かつて内分が開け、体五霊五の人間は、地獄に向かつてその内分が開けてゐるものである。… (引用終わり)

    最近、よく目にするようになったのが、「善悪など気にせずに、心のままに生きること」を強調する考え方を勧める本や、ブログです。

    確かに、「善悪の基準は時・処・位によって変わる」と王仁三郎に言われなくとも、現代人にとって永遠・絶対の善悪の基準はナンセンスで、TPOによって大きく変わって来るということが常識になっていると思います。
    しかしながら、気を附けないといけないのは、「TPOによって変わる位のものだから善悪など度外視すれば良い」等とは、王仁三郎も、『大本神諭』もいっていません。

    上掲の記事のように、王仁三郎は人間は現世で生きている限りは肉体的欲求にも応えねばならず、「霊五分体五分」なのだから 「神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態」に、あるように努力すれば同じ五分五分でも、霊が主で体が従の「霊主体従」、即ち自分自身の真の意志の力、精神性が主となり体欲や我欲は従となり、「霊五体五の人間は天国に向かって内分が開け」るということです。

    しかしながら、体五霊五の「体主霊従」の状態、即ち肉体的欲求や我欲が精神性や意志の力を抑え込んでしまう状態となるならば、「体五霊五の人間は、地獄に向かってその内分が開けてゐるものである…」ということになってしまうと云うことだと思います。

    最近のニューエイジブームなどで良く説かれる「自分の感情に素直に」ということも、穿違えると「体主霊従」の状態に陥ってしまう恐れがあります。

    まぁ、悲しい推測ですが、官僚や東電など大企業が主導してきた我欲重視の我良しの社会、今の日本社会の姿が、体主霊従の行き着いた結果である、『地獄の放射能列島』なのかも知れませんね…しかしながら、一人一人が善徳を積み続けることでこのような状況を変え得るというのが「善徳を積む」ことの意味であり、「因果の法則」の極意ではないでしょうか。

    人間は所詮、時・処・位に縛られて生きており、絶対的な善など為すことはできない存在ではありますが、その瞬間瞬間、刹那刹那を「刹那心」で、自分で判断できる最善の状態となるよう行動すべきだと思います。
    また、「『善を行っている』と思いながら、神、仏の絶対的見地から見ると、実はそぐわないことになっていないように…独善に陥らない様に…」と祈りながら行動する必要もあるのだと思います。

    「善悪に拘るのはやーめた!」などと、「最善を尽くせるように祈る事」や努力することを怠ると「地獄に向かって」自分の心を開いてしまいやすい状況に自らの心を追い込むようなことになりはしないでしょうか。

    勿論、霊主体従の霊五体五が霊六や霊七になることも、現界に於いては体を痛めつけ、壊す元になるので、苦行や行き過ぎた戒律の厳守などについては、王仁三郎は霊界物語の中で難行苦行を教えの中心とする「バラモン教」という(インドの歴史に実在のバラモン教自体のことではありません)架空の宗教を描いたりして、戒めています。(釈尊が苦行を放棄して、中道を説いたことに通底しているように見えます。)

    しかしながら、精神的にも開放され、肉体的にも文明の利器により大いに楽になった我々は普通の生活を続けている限りは、極度な霊主体従を心配する必要はなさそうです。

    「神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態」

    神にめざめ、「善徳を積む」ことに「真の智慧」を働かせる努力も必要だと王仁三郎は説いているのではないでしょうか。善悪は全て神が決める、とか善悪自体を放擲してしまうような「惟神(かんながら)中毒」や、禅宗で云う、「生さとり」や「狐狸禅」に陥り自分悟りの悪臭、紛々たる状態で一人満足しているようなことならないようにしなければなりません。

    禅問答に、仏像を燃やしてもTPOや心の状態によって一人は善、一人は悪となってしまうと云う、描写があるようです。また、いくら大悟しても「輪廻は眩ませることはできない」という公案もあるようですね。

    だからといって、王仁三郎は善悪をいつもいつも考え、張り詰めて生きるような潔癖主義を推奨しているわけではありません。

    「楽天主義」が、王仁三郎の中心的メッセージの一つです。「刹那心」で取り越し苦労や過ぎ越し苦労(過ぎ去ったことにくよくよ拘泥すること)をせず、前非を悔いたら、「見直し、聞き直し」を願い、日々新たに最善を尽くすことが「楽天主義」に徹するためのヒントかもしれません。

    宇宙人のメッセージやどこかの霊のメッセージ集などを読んで、まるで悟ったような気分になってしまって善悪を放擲してしまっては地獄のドアを開けるようなものだと思います。

    キリスト教にはニューエイジ思想を悪魔の思想であるとする教派もあるようですが、強ち、間違っていないのでは、と思います。(勿論、凡てが悪魔的思想ではないと思いますが…)そもそも、ニューエイジの各思想の元は、ロックフェラー系の企業が支援していたエサレン研究所やその他団体のムーブメント等が密接にかかわっているようで出自自体も怪しいものが多いのですが…

    最近は「日月神示」を元にした組織が関わる問題についての記事を見かけることもありますが、もし日月神示が王仁三郎や『大本神諭』を継承しているのなら、善悪をごちゃまぜにするような思想を広めるようなことはない筈です。王仁三郎も『大本神諭』も「神が表に現れて、善と悪とを立て別ける」と宣言しているのですから。

    もし、このブログの読者の方が、ニューエイジや王仁三郎の継承者を騙る組織や団体などに勧誘などされて迷っておられる場合は、是非今日の記事も判断材料、参考にして頂きたいと思います。

    では、今日も最後に王仁三郎の和歌をご紹介して締めくくりたいと思います。

    人の子と 生まれし者は身を修め 道を守りて 親を顕(あらわ)せ

    過またじ 犯さじものと相互(かたみ)にも 諌めかはすは 朋友(ともがき)の道


年月日

昭和三十六年九月一日
 旧七月二十二日(1961年)

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