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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

予言・預言の検証編太陽の検証

一二三50-125

五葉の巻 第11帖 (125)

 善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう、悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、【此度の岩戸は立体に入る門ぞ】。
平易意訳

 善では立派にやって行けません、悪でもやって行けません、善悪でもいけません、悪善でもいけません。【地上世界の善悪のモノサシを使っても役に立たない時となっている。】
 岩戸と云っても天(宇宙)の岩戸もあるのです。今迄は平面の土俵の上(地上)での出来事であったのですが、今度は天界(宇宙世界)を含めた立体土俵の上なのです。心をさっぱり洗濯して改心致しなさいと云ってあるでしょう。悪い人のみ改心するのではないのです。善い人も改心せねば立体には入れません、【此度の岩戸は宇宙の営みを見据えた立体に入る門なのです】。


解説と補足説明

yuru63:2013/06/13
 「立体」ですから、X軸、Y軸、Z軸、内、外がある「球」の世界の認識でなければいけないようです。
「9=0」も「球」の認識から証明できるものでした。
「マコト」も内にある「心」と外に位置する「口と行」を一致させるということですから、立体(球状の認識)と云うことなのでしょうか。
 一方、地上世界の善悪のモノサシは、ある時と場所と場合にのみ通用しますので、この度の岩戸開きには通用しないということなので、改心し立体土俵に入ることが不可欠であることを説明しています。


年月日

昭和三十六年九月一日
 旧七月二十二日(1961年)

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