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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

予言・預言の検証編太陽の検証

一二三50-136

紫金の巻 第06帖 (136)

 白玉や 赤玉青玉 ささげまつりし。

 今迄は白馬と赤馬と黒馬とであったなれど、岩戸がひらけたら、岩戸の中から黄(基)の馬が飛び出してくるぞ、キが元ぞと申してあろうが、トドメの馬であるぞ、黄金の馬であるぞ、救ひの馬であるぞ、このこと神界の秘密でありたなれど時来たりて人民に伝へるのであるぞ、今迄は白馬に股がって救世主が現れたのであるが、いよいよの救世主は黄金の馬、基(キ)の馬にのって現われますのであるぞ。
平易意訳
白玉や 赤玉青玉 ささげまつりし。

 大気循環(雨を降らし又水を清める)や 月人、人間を 敬い掲載します。(地球の環境を整え、人間・サタンの世界を作り存在している世界を敬います。)

 今迄は「大気環境を作った環境の制御【白馬】」と「その環境下で人間を操る月人【赤馬】」と「その月人を操る神サタン【黒馬】」とであったのですが、岩戸がひらけたら、岩戸の中から「黄金色に輝く太陽(ミロク)の働き【黄(基)の馬】」が飛び出してくるのです。神ミロクの仕組【キ】が元ですと云ってあるでしょう。トドメの働き【馬】であるのです。黄金の馬である太陽(ミロク)の活動なのです。それは救いの働き【救ひの馬】なのです。このことは神界の秘密であったのですが時が到来して人民に伝へるのですよ。今迄は白馬に股がって救世主が現れたのですが、いよいよの救世主は黄金の馬、つまり神ミロクの仕組【基(キ)の馬】にのって現われますのである。


http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/
sunmoon/50_xx_purplegold/purplegold_xx_136.htm

平易意訳

大気循環(雨を降らし又水を清める)、サタン、人間を敬います。
(地球の環境を整え、人間・サタンの世界を作り存在している世界を敬います。)
今までは「大気環境を作った環境の制御」と「その環境下で人間を操るサタン」と「そのサタンを操る神サタン」の世の中でありました。
しかし、岩戸が開けると、岩地の中から黄金色に輝くミロクの働きが始まります。
ミロクの世が大元でるのです。
これが、最後のとどめの活動なのです。
その活動が救いの活動であるのです。
このことは神の世界の秘密事項でしたが、時節が到来してきましたので、地球の人類の皆さんに公開することにしました。
今まではサタンが救世主と偽って現れていました。
しかし、いよいよの時節になりましたので、ミロクが救世主となって現れるのです。
ミロクが岩戸を開く為に働き始めるのです。

解説と補足説明

太陽さん

これは龍神界を例えにして説明してあることに気が付くと分かりやすい内容です。
玉は祀り敬うものであるので、カッコの様な意味になります。

白玉は白竜で(雨を降らし水を清める)~生物の住める地球の環境
赤玉は赤竜で(サタンである。)~宗教の神を操るサタン
青玉は青竜で(人間は大抵この青龍(青大将)となるのである。)~人類

従って、現実の地上の構成員を説明しています。
馬はこれらの活動・駆動するものの意味から下記のような意味になります。

白馬=白竜を使い(雨を降らし又水を清める)働かせる・活動する
赤馬=赤竜を使い悪・共食い(サタンである。)働かせる・活動する
黒馬=黒竜を使い(強悪最も甚だしい悪龍である。)働かせる・活動する
黄金の馬=日月の神(黄金の色で輝くとあります)=ミロクの働き・活動する


申さん

昨日の帖で「月が赤くなる、日は黒くなる」と色について出てきました。 今回は「白玉や 赤玉青玉 ささげまつりし。」と何だか神宝に関連するような「玉」という表現が出てきます。この「色」は何の事であるかとても気に成りますので色について考えて見ます。

これを直訳すると、白玉と赤玉・青玉は同列に扱うものではないように感じます。「赤玉青玉 ささげまつりし」が白玉に架けてあります。白玉に捧げ奉るものが赤玉青玉なのか、赤玉青玉に捧げ奉るものが白玉なのかどちらかははっきりしません。しかし、どちらかにその玉が捧げられるらしい。色の玉とは何か、下記の帖から考えてみました。

碧玉の巻 第17帖(881)
 はじめに碧玉を並べて下されよ、次に赤玉、次に赤黄玉、次に黄赤玉、次に黄玉、次に黄青玉、次に青黄玉、次に青玉、次に青赤玉、次に赤青玉、次に紫水晶、合せて十一玉、この巻、碧玉の巻であるぞ。
碧玉の巻 第18帖(882)
氷と水と水蒸気ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ、総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。

極めの巻 第02帖 (929)
 青玉の 水江の玉ゆい よよ栄えむ。 天地咲(え)む 神の礼白(いやしろ) 臣(おみ)の礼白(いやしろ)。 天(あま)つ神の 寿言(よごと)のままに 八十(やそ)岩明けぬ。 守護神をよく致せば肉体もよくなるぞ。神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ、今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前、神も今迄はテンデンバラバラでありたなれど、今に一つにならねばならぬことに、天が命じてゐるのであるぞ。人民の中と外も同様ぞ。今の人民はマコトが足らんから、マコトを申しても耳に入らんなれど、今度は神が人民にうつりて、又 人民となりてマコトの花を咲かす仕組、同じことを百年もづづけてクドウ申すと人民は申すなれど、判らんから申してゐるのであるぞ。

紫金の巻 第06帖 (136)
白玉や 赤玉青玉 ささげまつりし。 今迄は白馬と赤馬と黒馬とであったなれど、岩戸がひらけたら、岩戸の中から黄(基)の馬が飛び出してくるぞ、キが元ぞと申してあろうが、トドメの馬であるぞ、黄金の馬であるぞ、救ひの馬であるぞ、このこと神界の秘密でありたなれど時来たりて人民に伝へるのであるぞ、今迄は白馬に股がって救世主が現れたのであるが、いよいよの救世主は黄金の馬、基(キ)の馬にのって現われますのであるぞ。

下つ巻 第29帖 (071)
神の土出ると申してありたが、土は五色の土ぞ、それぞれに国々、ところどころから出るのぞ。白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、薬のお土もあれば喰べられるお土もあるぞ、神に供へてから頂くのぞ、何事も神からぞ。八月二日、一二?。

富士の巻 第11帖 (091)
 神土(かみつち)は白は、「し」のつく、黄は「き」のつく、青赤は「あ」のつく、黒は「く」のつく山々里々から出て来るぞ、よく探して見よ、三尺下の土なればよいぞ、いくらでも要るだけは出てくるぞ。八月二十日、?のひつ九のか三。

雨の巻第09帖 (343)(これは長いので途中から)
、神 キつけておくぞ。人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。一方の3Sより判らんから

梅の巻 第01帖 (428)
 今度の建替は敵と手握らねばならんのぢゃ、敵役の神々様人民よ、早う尋ねて御座れ、この方 待ちに待って居るぞ。引張ったのでは、心からでないと役に立たんのぢゃ、此の神示十三の巻からは肚の中の奥まで見抜かんでは、見届けんでは見せて下さるなよ、今にいろいろ身魂集まって来るから十二の巻も申し付けてある様にちゃんとしておいて下されよ。御剣(みつるぎ)の大神、黄金(こがね)の大神、白銀(しろがね)の大神と称へまつり結構結構ぞ、結構致しまつりくれよ、オロチ、九火(キュウビ)、ジャキ、の三大将殿の御力まつりて弥栄よくよきに動くぞ、ひらけ輝くぞ、一火?(ひかり)の御代となるぞ。九月二十八日、ひつ九の?。

梅の巻 第15帖 (442)
 この儘では世持ちて行かんと云ふこと判って居らうが、所々の氏神様、今迄の様な氏子の扱ひでは立ちて行かんぞ、天の規則通りにやり方変へて下されよ、間に合はんことあるぞ。血尊べよ、血は霊であるぞ神であるぞ、血にごしてはならんぞ、血はまぜこぜにしてはならんのぢゃ、黄金(こがね)は黄金の血、白銀(しろがね)は白銀の血、黄金白銀交ぜ交ぜて別の血つくってはならんのぢゃ、外国にはまぜこぜもあるなれど、元をまぜこぜならんのざぞ、交ぜることは乱すことざぞ、学はこの大事な血乱す様に仕組みてゐるのざぞ、それがよく見える様にしたのは悪神ざぞ、人民の目、くらましてゐるのぢゃぞ、科学科学と人民申してゐるが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりぢゃ、神に尋ねて神の科学でないと何も成就せんぞ、分らなくなったら神に尋ねと申してあること忘れるなよ、一に一たす二ばかりとは限らんのぢゃ、判りたか

梅の巻 第17帖 (444)
今の人民 少しは神示判って居らんと恥づかしい事出来て来るぞ、なさけない事出来てくるぞ、くやしさ目の前ぞ。次の世がミロクの世、天の御先祖様なり、地の世界は大国常立の大神様 御先祖様なり、天の御先祖様 此の世の始まりなり、お手伝いが弥栄のマコトの元の生神様なり、仕上げ見事成就致さすぞ、御安心致されよ。天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ、あな爽(さや)け、あなすがすがし、あな面白や、いよいよ何も彼も引寄せるから その覚悟よいか、覚悟せよ、あな爽け、あなすがすがし、四十七と四十八と四十九ぢゃ。

秋の巻 第16帖 (757)
 統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点の?でくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等は悪平等。一色であってはならんのう。下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。ビックリこねまわしぢゃ。

扶桑の巻第04帖(853)
 ツミケガレ 今はあらじと はらえ給ひそ。 空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ、空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。

扶桑の巻 第12帖(861)
 進(タテマツ)る 宇都の幣帛(ミテクラ) きこしめしたべ。 神の御手に巻物があるぞ、その巻物の数は五十巻ぢゃ、この巻物を見たものは今迄に一人もなかったのであるぞ、見ても判らんのぢゃ。巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙となって了うのであるぞ、人民には判らんなり。説くことは出来んなり、この巻物は天の文字で書いてあるぞ、数字で書いてあるぞ、無が書いてあるぞ、無の中に有がしるしてあるぞ、心を無にすれば白紙の中に文字が現はれるのであるぞ、時節参りて誰の目にも黙示とうつるようになった、有難いことであるぞ、岩戸がひらけて愈々の時となったのぞ、始めからの巻物よく読んで下されよ、よくより分けて下されよ、何も彼も一切ありやかに刻まれてゐるぞ、残る十二巻と一巻は人民では判らんぞ、無の巻物ぞ、空に書いてあるぞ。

扶桑の巻 第14帖(863)
青海原 青垣山の内(宇宙)に 御子生る。 神の御座(みくら)のまわりには十の宝座があるぞ、十の宝座は五十と五十、百の光となって現れるのであるぞ、大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあろうがな、五十種の光、五十種の色と申してあろうがな、光の中に百億の化仏(けぶつ)ぢゃと申してあろう、百が千となり万となり億となるのであるぞ、今迄は四の活物(かつぶつ)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ、白、青、黄、赤、黒、の色であるぞ。

星座の巻 第04帖(887)
 人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ。右往左往しても、世界中かけ廻っても何もならんぞ、判らんでも判りた顔せねばならん時が来たぞ、ウソの上ぬり御苦労ぞ、人民がいよいよお手上げと言うことに、世界が行き詰りて神のハタラキが現れるのであるぞ、日本人びっくりぢゃ、日本人はいくらでも生み出されるが日本の国は出来まいがな、身体中、黄金(こがね)に光ってゐるのが国常立大神の、ある活動の時の御姿ぞ、白金(しろがね)は豊雲野大神であるぞ、今の科学では判らん。一万年や三万年の人間の地上的学では判らんこと、国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ、判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ。

星座の巻 第09帖(892)
 白と黒とを交ぜ合せると灰色となる常識はもう役にたたんぞ。白黒交ぜると鉛となり鉄となり銅となるぞ、更に銀となり黄金となるぞ、これがミロクの世のあり方ぞ、五と五では動きとれん。そなたの足許に、来るべき世界は既に芽生へてゐるでないか。

至恩の巻 第12帖(959)
判らんと申すのは一面しか見えぬことであるぞ、双方を見る目に、早う改心致してくれよ。この白黒まだらな時は長くつづかん、最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、死んでから又甦られるように死んで下されよ、マコトを心に刻みつけておりて下されよ。

紫金の巻 第11帖 (141)
何も彼も前つ前つに知らしてあるのに、人民は先が見えんから、言葉の【ふくみ】がわからんから取違ひばかり、国土(九二つち)の上は国土の神が治(し)らすのぢゃ、世界の山も川も海も草木も動物虫けらも皆この方が道具に、数でつくったのぢゃ。愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ、クニトコタチがクニヒロタチとなるぞ、クニは黄であるぞ、真中であるぞ、天は青であるぞ、黄と青と和合してみどり、赤と和して橙(だいだい)となり、青と赤と和して紫となる、天上天下地下となり六色となり六変となり六合(クニ)となるのぢゃ、更に七となり八となり白黒を加へて十となる仕組、色霊(イロタマ)結構致しくれよ。

扶桑の巻 第10帖(859)
赤丹(あかに)の頬に きこしめしませ 御酒(ミキ)たてまつる。 何事が起って来ても先づ喜んで迎へねばならんぞ、近づいてくるのは呼びよせたからぢゃ、こんないやな、きたないものは、ごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆 己の心のうつしでないか。内に無いものが外から近よる道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んでむかへるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。何事も一段づつ、一歩づつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。

春の巻 第30帖 (687)
宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分 大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光がいただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。

春の巻 第01帖 (658)
 新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ。皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあらうが。始の始と始が違ふぞ。皆始めヒからぢゃ。赤児になりて出直せよ。ハラで見、ハラできき、ハラで話せよ。ハラには間違ひないのぢゃ。祈りばかりでは祈り地獄、神から光いただけるように理(ミチ)つけねばならん。水は低きに流れるぞ。喜びに叶ふ心、喜びの行あるところ喜び来るのぢゃ。喜びにも正しきと曲れるとあるぞ。無限段階あるのぢゃ。心して迷はんように致しくれよ。此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう。教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。天の理、地の理、もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。迷信となるぞ。ハラが神であるぞ。

黒鉄の巻 第26帖 (644)
神は理屈ではない。理であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。只求めるより他に道ないぞ。親呼ぶ赤児の声で神を求めよ。神に呼びかけよ。総てを投げ出せよ。まかせ切れよ。神は喜びの光となって、そなたに現はれて来るぞ。理屈の信仰に囚はれると邪道。赤児心の理解は第一ぞ。(一月二十二日)

黒鉄の巻 第11帖 (629)
 学出すから、我出すから行き詰るのぞ。生れ赤児と申すのは学も我も出さん水晶のことぞ。ねり直して澄んだ水晶結構。親の心判ったら手伝ひせねばならん。云はれんさきにするものぢゃと申してあらうが。いつ迄も小便かけてゐてはならんぞ。人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ。(一月二十二日)
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以上から、色について考える前にまず数について考える必要があると分りました。
数についての詳しくは、しおんの巻・碧玉の巻・極めの巻・しおんの巻辺りをうろうろして考慮しています。

碧玉の巻 第18帖から
「フトマニ」二二とは太神の大宇宙の鉄則、無限角度をもつ球,如何ようにも変化して誤らないマニ(摩邇)の球と分ります。
色については今時点では謎です。

しおんの巻には伊邪那岐・伊邪那美は4(四音)と8(八尋殿)の四方八方(四方位・8広がりで世を作ったがこれが今の世の行き詰まりの原因と書いてある。
これがもしかしたら8色にあたるかも。
又、根本の元神は0から一二三四五となり「五が天」、天なる父、男が上で主。それを地に映すと、地の五が従で女。と言う事は、天の一二三四五とは縦の並び(上・主のおわす所~みたいな)で表され、地の一二三四五とは横並び(従、横線)表される。天が父なら地は母でしょうか。でこの縦横を数で言うと、一二三四五六七八九十と平面で説明している(五と五和す)。しかし、本来十あるはずのものが伊邪那岐・伊邪那美は四方位・8広がりまでしか世を造っていない(八が十になる仕組み)。だから、天の5と地の5が抜けている(本当は人民が自分でそう引き下げたそう?)。
五が転じて十になるが(-)(+)の神が現れんと動き栄えるには足りないそうです。この(-)(+)があって初めて表裏の一二三四五六七八九十と十九八七六五四三二一と言う事ですが、この中を取持つ二柱の神が○で表す存在で、その元がチョンのある◎かも知れません。
陽は中、陰は外と言う事ですので(+)は陽で外から中に向かう方向性の渦◎、(-)は陰で中から外に向かう方向性の渦◎と読み取れます(違うかな?)。
その2つをあわせると、(+)である天の一二三四五と地の一二三四五とあわせて十と、(-)である天の一二三四五と地の一二三四五のあわせて十と二神合わせて二十二のフトマニとなります。

この数の概念を持った上で色について考えてみます。
チョビットずつ抜粋。

「神の土出ると申してありたが、土は五色の土ぞ、それぞれに国々、ところどころから出るのぞ。白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ」
「白玉や 赤玉青玉 ささげまつりし。 今迄は白馬と赤馬と黒馬とであったなれど、岩戸がひらけたら、岩戸の中から黄(基)の馬が飛び出してくるぞ、キが元ぞと申してあろうが、トドメの馬であるぞ、黄金の馬であるぞ」

「神土(かみつち)は白は、「し」のつく、黄は「き」のつく、青赤は「あ」のつく、黒は「く」のつく山々里々から出て来るぞ」

「御剣(みつるぎ)の大神、黄金(こがね)の大神、白銀(しろがね)の大神」

「統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。」

「空白とは九八九であるぞ、空白とは最も根本を為す」

「この巻物は天の文字で書いてあるぞ、数字で書いてあるぞ、無が書いてあるぞ、無の中に有がしるしてあるぞ、心を無にすれば白紙の中に文字が現はれるのであるぞ、~残る十二巻と一巻は人民では判らんぞ、無の巻物ぞ、空に書いてあるぞ。」

「今迄は四の活物(かつぶつ)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ、白、青、黄、赤、黒、の色であるぞ。」

「黄金(こがね)に光ってゐるのが国常立大神の、ある活動の時の御姿ぞ、白金(しろがね)は豊雲野大神であるぞ、~国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島」

「白と黒とを交ぜ合せると灰色となる常識はもう役にたたんぞ。白黒交ぜると鉛となり鉄となり銅となるぞ、更に銀となり黄金となるぞ」

「クニは黄であるぞ、真中であるぞ、天は青であるぞ、黄と青と和合してみどり、赤と和して橙(だいだい)となり、青と赤と和して紫となる、天上天下地下となり六色となり六変となり六合(クニ)となるのぢゃ、更に七となり八となり白黒を加へて十となる仕組、色霊(イロタマ)結構致しくれよ。」
総合すると
神土は「白、赤、黄、青、黒」の五色
天の光は「白、青、黄、赤、黒」の五色
地と天を足すと十色。

(黄色)はクニで真ん中。
(青)は天
(赤)は赤子心という表現や、人間の形容に赤とあることから、赤にまみれた人間かも。
クニと天が和合して(みどり)
人間とクニが和して(橙)
天と赤が和して(紫)
これで6色、これが7、8となり、白黒を加へて十となる。
そして「黄」の国常立神の影が日本の国土と言う事は裏の「黄色」もあると考え、
裏を合わせて二十と橋渡しの二柱で二十二のフトマニのマニ(摩邇)の球とになりました(ゴリ押し~)。

神示の文中にある
白玉、青玉、赤玉はおそらく「白」の空白?にたいして天・人間を奉る事かも知れないと考えます…いやもしかしたら、「天」と「人間」に空白の白が奉られるのかもしれないと考えてみました。
そして、とどめの救世主の馬は「黄金」「黄」です。黄色は今までに無い救世主の色です。
「黄」はクニでしたので、クニ(国土)が救世主の働きをするのでしょうか?
…誰にとっての救世でしょう…。


年月日

昭和三十六年
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