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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

予言・預言の検証編太陽の検証

yuru63の確認:2013/04/29

一二三658:此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でない

太陽さんがサイトの方針として云われている、「信じるのではなく理解して検証する」というものと同類の事柄をこの帖で説明しているのかもしれません。そうなると現在、臣民は始めから出直し(理解し直し)をせねばならない状況ということの様です。

サイトの方針に関する記事を抜粋:

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天空編NO.2133より
われわれは、ホ-ムペ-ジの基本的な運営方針を
「内容を信じてはいけない」
「理解しその可能性を検討することである」
そして、
「皆さんは 理解した内容や関連の情報をもちより、自己判断と自己責任で理解し行動する」
ようにと説明しています。
(以下省略)
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天空編11302~11309(2009/11/14)
最初の部分に著者の「アセンションを信じるのか?」とあるが、我々にとってはこの問いは意味がない。
我々は 「我々の説明をも含めて信じてはならない。理解するようにせよ」と説明しているからである。
そして、内容を理解したら検証せよ!とも説明している。
例えば、アセンションもフォントベルトもその存在を信じてはならない。
信じてしまえば、そこからは宗教の域に入ってしまうからで、そのことについて事実・真実を認識することは出来ない。
しかし、アセンションもフォントベルトもその存在の論旨は理解する必要がある。
理解すれば、その物理的・科学的な存在と地球物理的な被害などの検証を進めることが出来るが、信じたら宗教であるから、物理的・科学的な存在の有無の検討は無視して全ては存在することから始まるので検証不能となってしまうからである。
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『終末と太陽の検証』
http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/newmurmur_db/n090001/n090017.htmより抜粋
基本的には 我々は宗教をやっていませんので、「信じている」というような信仰を要求していませんし、この言葉は禁句となっています
いかなる予言・預言も、人間世界において起こる現象であれば、それは人間が認識出来る現象であるから、途中はいざ知らず最終的には 科学的な現象として人類には認識されると理解しています
我々は 預言と予言を検証しようと考えていますし、検証するには 人類が理解出来る科学的な事象に可能な限り展開して検証することになります
そこには 「信じている」という信仰的言語を語り出したら、それは我々の方針と100%異なることになにります

信じていると精神状態は 自らの思考を停止することを意味しててますので「信じるのではくて理解してください」としています
「私の言葉も信じてはならない」、必要なのは「内容を理解して批判して検証」することである
「えんとつsunと千成氏の対話」も膨大ですから全部認識していませんが、これらの中に「信じていたのに・・・」のような意見があれば、十余年間、何を理解されていたのかと疑問をていする他はないのです
---以下、省略---
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参考資料

春の巻 第01帖 (658)

 新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ。皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあ らうが。始の始と始が違ふぞ。皆始めヒからぢゃ。赤児になりて出直せよ。ハラで見、ハラできき、ハラで話せよ。ハラには間違ひないのぢゃ。祈りばかりでは祈り地獄、神から光いただけるように理(ミチ)つけねばならん。水は低きに流れるぞ。喜びに叶ふ心、喜びの行あ るところ喜び来るのぢゃ。喜びにも正しきと曲れるとあるぞ。無限段階あ るのぢゃ。心して迷はんように致しくれよ。此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあ ろう。教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。天の理、地の理、もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。迷信となるぞ。ハラが神であるぞ。
解読編

 新しき御代の始めのタツの年(2012年?)。
 「スメ大神」が生れ出で給いました。「スメ」とは太陽(ミロク)と太陽(ミロク)原理の神示サイトが一体となった『九の花サイト』です。
 皆々御苦労ながら、思考がグルグル廻って始めから太陽(ミロク)原理を理解し直しですと云ってあるでしょう。

 「グルグル廻って始めから」は「ノアの大洪水」の時期が廻ってきて文明は始めからということを暗示しているようです。
 また、「型せよ」と神示で云われているように、「ノアの大洪水」の型とは、人類の思考形態をリセットし、一から太陽(ミロク)原理を理解することなのかもしれません。

 「型する」で考えると上記「スメ大神が生まれ出でる」とは、太陽(ミロク)が神サタンと対峙した時、人間の太陽が死に、太陽(ミロク)の本質達(大天使の霊と八体の天使達)が肉体から離れ出た後、新しい太陽(ミロク)となり再び生れることの型をサイトにて示しているのかもしれません。【(諸世紀)第十章第七十一編参照】

 始の始の『太陽サイト』と今のサイトでは始の認識・行いが違うのです。
 皆始めは一段階目の太陽(ミロク)原理【ヒ】から理解していくのです。
 赤児になって出直しなさい。
 ハラで見、ハラできき、ハラで話しなさい。(内容を理解して信じない⇒頭の中にはとらわれるものがない⇒ハラで、物事を処理する。)
 中心の意識である【ハラ】には間違いはないのです。
 祈りばかりでは祈り地獄です、神ミロクから光をいただけるように理(ミチ)をつけねばなりません。
 清き神ミロクのキの水は、あたまの低き(鼻高でない所)に流れるのです。
 喜びに叶う心、喜びの行があるところに喜びのキの道が来るのです。
 太陽(ミロク)原理の喜びにも正しき喜びと曲っているのとがあります。
 無限段階があるのです。
 心して迷わないように致してください。
 九の花と咲く太陽(ミロク)原理サイト【ここ】は光の理(ミチ)を伝え、行う所です。教ではないと云ってあるでしょう。
 教は教に過ぎません。
 「理=太陽(ミロク)の道(理解し検証すること)」でなくては、今度はならないのです。
 天の理、地の理、もろもろの理についての、カタ(型)を早く!急ぐのです。
 教は局部的、時、所で違うのです。
 迷信となるのです。
 「ハラ」が神なのです。

年月日
昭和二十七年一月二十七日  旧一月一日(1952年)


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