ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万
霊 力 体 世 出 萌 生成 弥 凝 足
「ひとふたみよいつむゆななやここのたり・ももちよろづ」。これは「天の数歌」と呼ばれるものです。我が国古来から伝わる、レッキとした祝詞(のりと)なのです。
大本聖師・出口王仁三郎が口述した(古今東西第一の奇書と思われる)『霊界物語』の中で、「これは重要なる賛美歌で、天の数歌と云ひます。皆さまもこれから間(ま)があれば、この数歌をお唱ひなさい」と、ある登場人物に言わせています。
また霊界物語の別の箇所では、それを「言霊(ことたま)学」的に解釈しています。かなり難解ですが、以下に掲げてみます。
一(ひと)は霊(ひ)也、火也、日也。
二(ふた)は力(ちから)也、吹く呼吸(いき)也。
三(み)は体(たい)也。元素也。
四(よ)は世界の世(よ)也。
五(いつ)は出(いず)る也。
六(むゆ)は燃(むゆ)る也。
七(なな)は地(ち)成る也。
八(や)は弥々益々(いよいよますます)の意也。
九(ここの)は凝り固るの意也。
十(たり)は完成の意也。
百(もも)は諸々の意也。
千(ち)は光也、血汐の血也。
万(よろづ)は夜(よ)出(いづ)るの意也。
之を大括して略解すれば、霊力体(れいりきたい)によって世が発生し、水火の呼吸(いき)燃え上り、初めて地成り、弥々益々水火の気凝り固りて完全無欠の宇宙天界は完成され、諸々の地の光は暗夜(あんや)に出現して総てのものの目に入るといふ言霊にして、造化三神の神徳を称へ奉り、其の徳にあやかりて紫微(しび)天界を修理固成(しゅうりこせい)し、諸神安住の清所(すがと)に照らさむとの意を謳(うた)ひ給ひしものと知るべし。 (『霊界物語』第73巻第10章・婚ぎの御歌より)
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いかがでしょうか。お分かりいただけたでしょうか。
ごく簡単に申せばこの数歌は、天地剖判(天地創造)のプロセスを表わした数歌であったわけです。そしてその根源力は「一二三」の「霊・力・体」にすべて発しているということです。(なおこの数字を、「ひふみよいむなやこともちろ」と唱える「ひふみ祝詞」もあります。それについては、いずれ別の機会にと思います。)
日本霊学では、「全霊界(この世も実は「霊界」の一部であるのです)」を四段階に大別しています。「幽の幽(の世界)」「幽の顕(の世界)」「顕の幽(の世界)」「顕の顕(の世界)」です。ちなみに「この世」は「顕の顕」の世界ということになります。私見では、この数歌はこの分類のうち、「幽の顕」以降の三世界の創造プロセスを表わしたものだと思われます。一番最初の「幽の幽」は、決して現われることのない世界で、これを示すとすれば「○(零、まる)」であるからです。
普段何気なく使っている「一、二、三…(いち、にっ、さん…)」の数字には、実は深重秘沈の意義が隠されていたわけです。
祝詞であり、賛美歌であり、神言(しんげん)でもある、天の数歌。気分がすぐれない時、元気になりたい時、治癒したい時など、これを数回唱えると気が静まり、癒されるそうです。
ところで私は、「金(カネ)」で苦労し始めた30代半ば過ぎ頃、何かあるとすぐ頭の中にソロバンを置いて、『損か得か?』と数字をパチパチはじいている自分に気がついたことがあります。大変お恥ずかしいことながら、「数字=損得勘定のシンボル」になってしまっていたのです。正直申し上げて、少しは改まったとは言え今でもそういう傾向はあります。
おそらくこれは「人間的成長」などと言えるものではなく、逆に「堕落」だと思います。久しぶりに「天の数歌」の御光に照らされて、つくづくそう思いました。
(大場光太郎・記)