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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

「天」太陽の投稿記事

『終末と太陽の検証』

http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/newmurmur_db/n030001/n030002.htm
より

天文・地学・科学 NO n030002

−−−−コメント 2012/11/05−−−−

{新03_天文・地学・科学_暦法_旧暦と新暦_01}
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0837:1999 7番目の月 (L'mil neuf cent nonante neuf sept mois):2014年に天から恐怖の大王が降りてくるだろうか?:新暦と旧暦:グ−グルも参加:それって来年の秋だよね?:>
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コメント:

1999 7番目の月 (L'mil neuf cent nonante neuf sept mois)
天から恐怖の大王が降りてくるだろう
アンゴルモアの大王が復活するだろう
火星を前後して幸福に支配するだろう

 過日、5項 <:ノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・・ ::tonton:2013/10/20:::>のような下記の書き込みがヤス氏の掲示板に書き込まれた

{・・・・・・・
・・・前略・・・
アメリカはデフォルトは今回回避したがイエローストーンがきな臭い
次々にアメリカにはマイナスな出来事が重なってきそうだ
そういえばノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・・ 暗黒の大魔王・・・ハルマゲドン・・・ ・・・後略・・・
・・・・・・・}

そこに、「・・ノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・」なる指摘があった
この書き込みの主の説明によれば、西洋歴に新暦と旧暦があり、旧暦の旧暦1999年とは 新暦2014年になるそうである
「ひふみ」などでも、旧暦での記述があるので、少し検討することにした

旧暦1999年とは 新暦2014年であるから、その時間差は 15年ということになる

1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に変化していて、ユリウス暦を旧暦、グレゴリオ暦を新暦と呼ぶようで、この新暦が今使われている西暦ということである
問題のノストラダムスは おおよそ1500年代の前半で旧暦・ユリウス暦の人物で、すなおに受け取れば諸世紀の年代は 旧暦で記述されていることになる
ただ、問題は 1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に代わったのは、月日と閏年などの割り振りが変化したのであり、1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦1597年に代わった訳ではないことである
1582年にユリウス暦から1582年のグレゴリオ暦に引き継いだだけであることである

少し念のために調べたが、この15年の差の原因を見つけることが出来なかった
書き込みもよいが、少し他者が確認出来るようにしていただけると助かるのにと思う今日この頃である
−−−
1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に変化
ユリウス暦を旧暦、グレゴリオ暦を新暦

{・・・・・・・
グレゴリオ暦の暦法

1582年にローマ教皇グレゴリオ13世の命を受けたクラヴィウスらによって作られたグレゴリオ暦は、週も含めて400年周期の暦で、ユリウス暦の置閏法に加えて、「ただし、西暦年数が100で割り切れる場合、その商が更に4で割り切れない年は平年とする」とするルールを付け加えることによって、400年に97回の閏年を設けることとしたものである
これによって平年は52週と1日となり、1月1日と同じ年の12月31日は同じ曜日となる
さらに翌年には曜日が1日ずつずれていくという原則が成立した
もっとも、閏年の場合には52週と2日となり、曜日も閏年が置かれた3月1日から翌年の2月28日までは2日分ずれていくこととなる

ユリウス暦やグレゴリオ暦は月の動きを完全に暦法から排除したことによって1月1日が日曜日から土曜日になる7つのパターン及びそれぞれに閏年の設定を持つものと持たないものの2つのパターン、合わせて14種類のパターンを作るのみで、違う年のかつて用いられた暦の再利用が可能となった[1](月の動きが複雑に絡む太陰太陽暦には困難である)
特にグレゴリオ暦の1年=365.2425日(正確には31556952秒)によって生じる実際の1年(平均太陽年=31556925.179秒)との差は26.821秒(2013年の場合)であり、1日分の誤差が生じるまでには約3220年を要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦である[2]

留意事項

現在使用されている西暦は、かつて暦法である西暦と紀年法である西紀とで区別していたが、後に混同されどちらも西暦とされた
暦法としての西暦はグレゴリオ暦(太陽暦)であり、紀年法としての西暦はキリスト紀元である
紀年法と暦法の使用を混同しないよう留意が必要である
・・・・・・・}

−−−

それはさておいて、11項に<:ノストラダムス予言(1900,90,9,7の月) ::2005/9/12(月) :>の記述があった

「・・・1999の7の月、恐怖の大王・・・」の予言に関する新解釈である
おもしろい解釈であるので何かの参考になると考えている

「・・・1999の7の月、恐怖の大王・・・」の予言は 「・・・1999・・」を1999年と解釈すれば、この予言は 承知のごとくはずれている

「諸世紀」の予言詩の中で唯一、年代を指定していたと解釈されている
啓示的幻視を受けて予言したもののほとんどは 事象の説明があっても年代的な具体的指摘していない
ノストラダムスの「諸世紀」も当然のごとく、年代の指摘は ないはずであるが、この予言詩だけは なぜか1999年と受け取れる内容が記述されている
この1999を1999年と受け取ったのは 後述の「7の月」から、年代と受け取ったものである
この解釈は 「諸世紀」の予言を取り扱た、諸々の解釈でもあった

そこで、ノストラダムス風の謎かけ記述と受け取って考察してみたので一解釈を案内する
1999を1999年でなく、1999を何かの意味付けと受け取ると、次のようにも書き換えられる

1999→1000+999
と書き換えることが出来る
1000は 1000年王国→みろくの世
999は 666の倒置で、奴らが予言した現在進行形の666システムを破壊することを意味している

わかりやすくいえば、「奴らの予言した現在進行形の666システムを人々が認識する時代に、「みろく」も同時代に並行して現れ、奴らの666システムを破壊し、予言された1000年王国を作る」、その時代・年代の7の月に恐怖・アンゴルモアの大王が降りてくる・・・、となる

このように解読すると、年代は 消え、展開の説明をしていることなり前後の意味も整合性がとれているようになる

1999 7番目の月 (L'mil neuf cent nonante neuf sept mois)
天から恐怖の大王が降りてくるだろう
アンゴルモアの大王が復活するだろう
火星を前後して幸福に支配するだろう

簡易解釈
「奴らの予言した現在進行形の666システムを人々が認識する時代に、「みろく」も同時代に現れ、奴らの666システムを破壊し、予言された1000年王国を作る」その時代・年代の7の月に恐怖の大王・降りてくる
アンゴルモアの大王のかって幾たびとなく実施した大虐殺と大破壊が復活する
この戦いの前後は 戦の大虐殺と大破壊がなく、小競り合いはあったにしても幸福な時代といえる

以上のように解読すると、ようやくノストラダムスの予言記述となる
年代はわからないが、旧暦の7の月にその出来事は起きると指摘していることになる
年代について具体的に推測出来ないが、下記のように考察すると、それほど遠い未来出ないことがわかり、早ければ2014年も該当しなにいとはいえそうもない今日この頃の雰囲気である

なお、下図の「666=999_01」を見てほしい

666=999_01

左側から右側に順番に説明すると次のようになる
グ−グルのシンボル・・・奴らの情報会社の一つ
シンボルの骨子・・・6の組合せ
6の組合せの解体・・・666となる
シンボルの骨子・・・9の組合でもある
9の組合せの解体・・・999となる
999は 666の180度だけ回転・倒置したものである
ここで、グ−グルは その情報システムで全人類と宇宙の座標などのすべての情報を管理している
「全てを見通す眼、奴らのピラミッド型の支配組織の監視・管理システムの目玉」といえるのである
わかりやすくいえば、このシンボルは 具体的に言えばグ−グルのシステムで監視・管理しているぞとの指摘であり、前人類の監視管理の宣言であるともいえるのである

ただ、このシンボルの弱点は 肉体に埋め込む管理システムの制御コ−ド666は 「みろく」が同時に現れることを意味していることになる
とともに、666は よく見ると999とも読むことが出来、666は 倒され999となる未来を内包していることを意味している

いろんな意味でよく一致している結果になっていると思っている
このようなことを考えている今日この頃である

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5項 <:ノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・・>の2014年に恐怖の大王が降りてくるの旧暦年代の検証には失敗したようだ
どなたか、この記述の根拠を案内していただけると助かる
ただ、検討の過程で、グ−グルのシンボルと何かの関連がありそうだということがわかったし、グ−グルという会社・奴らの組織が作られた奴らの意味・意図から、何かの関連の可能性を認識出来ることがわかったので、これで良しとする


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===NO n030002:参考文献の目次===

001:暦法:wikipedia:最終更新 2013年9月10日 (火) :
002:ユリウス暦:wikipedia:
003:旧暦:wikipedia:最終更新 2013年1月18日 (金) :
004:旧暦old calendar:wiki/wiki:
005:ノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・・ :tonton:2013/10/20:
006:古代ローマの暦:vdgatta:
007:ユリウス暦やグレゴリオ暦からを修正ユリウス日とユリウス日を求めます:ユリウス日:
008:ユリウス暦Julian calendar:
009:ユリウス暦とグレゴリウス暦とのずれ:
010:旧暦-西暦の相互変換:
011:ノストラダムス予言(1900,90,9,7の月) ::2005/9/12(月) :
012:西暦:wikipedia:

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===NO n030002:参考文献の目次詳細===

===1===============

:暦法:wikipedia:最終更新 2013年9月10日 (火) :

案内 
翻訳 
原稿 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E6%B3%95

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暦法(れきほう)とは、毎年の暦を作成するための方法を指す
暦は、天体の運行に基づいて確立される
主として太陽と月が用いられ、月の運行に基づいた暦を太陰暦、月と太陽の運行に基づいた暦を太陰太陽暦、太陽の運行に基づいた暦を太陽暦という

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目次

1 太陰暦の暦法
 1.1 イスラム暦の暦法
2 太陰太陽暦の暦法
 2.1 東洋の暦法
 2.2 西洋の暦法
3 太陽暦の暦法
 3.1 古代太陽暦の暦法
 3.2 ユリウス暦の暦法
 3.3 グレゴリオ暦の暦法
4 留意事項
5 参考文献
6 脚注
7 関連項目

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太陰暦の暦法

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イスラム暦の暦法

太陰暦(純太陰暦)を用いているイスラム暦においては、1年を平年354日、閏年はこれに1日足した355日の暦法を用いている
平年は30暦日の月と29暦日の月を交互に設置することになっている
太陰年は正確には1年=354.36705日であり、端数に30を掛けるとほぼ11日(11.011日)となるため、30年に11回の割合で閏日を置く
イスラムの暦法では30年周期のどの年に閏日を割り振るかが重要な課題となる
閏日が置かれる場合は、平年では29日であるズル・ヒッジャ(12番目の月)が30日となる

なお、イスラム暦の1年は太陽暦の1年よりも11日程短いために、イスラム暦以外の世界から見ると毎年年始の暦日が早まってるように見える
特にラマダーン(9番目の月)は日中の断食を伴うために、その日付を知らずに非イスラム教徒がイスラム世界を訪問したときに食事をめぐってトラブルとなる場合がある

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太陰太陽暦の暦法

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東洋の暦法

原則的には太陰暦と同じ朔望月29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年かに1回閏月を加えることで調整を行った

中国において行われたのは、季節を知らせる二十四節気を挿入する方法であった
これは冬至から次の冬至までの太陽年を24等分して1ヶ月に2つの節気が含まれることとした
そのうちその月の節気の前者を「節」、後者を「中」あるいは「中気」と呼び、「中気」は暦月に必ず一つ入ることが原則とされていた
「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である
ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する
その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、その次の「中気」を含む月を翌月としたのである
その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われることとなった
一方、「節」は暦注を定める際の参考とされ、節から節までの間を「節月」として区切った(「節切り」)
なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた華北の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、それに中国でも華南の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする
さらに、24節気の下には72候というものもあった

また、中国においては「三正」という考え方があり、夏は雨水を、商は大寒を、周は冬至を含む月を年始として採用した
これは、他者の暦を用いることは従属の証と考えられたために、前王朝を倒すとその否定のために前王朝と違う「中気」をもつ月を年始と定めたことによる
このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、漢以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった

なお、黄道上における太陽のみかけの動きは冬には早く夏には遅く見える
そのため、太陽が黄道上を15度進んだ期間に応じて節気を進める「定気」という手法も中国の時憲暦から採用された
日本では最後の太陰太陽暦となる天保暦でのみ採用された

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西洋の暦法

バビロニア・ユダヤ・古代ギリシアなどの太陰太陽暦は、基本的には東洋のそれと同じであるが、長期的にずれが少なければ良しとして、細かい天象との差異は気にされなかったとされている
これらの国々では黄道十二宮を利用して調整を行った

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太陽暦の暦法

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古代太陽暦の暦法

古代エジプトの神官たちは恒星シリウスの動きから1年が365日であることを知り、30日×12ヶ月と暦日とは関係のない5日を加えた国定の民間暦を創出した
これは神から与えられたものとして神聖視され、代々の国王は即位時にこれを遵守することを神々に誓った
だが、単純な1年=365日暦であったために次第に季節と日付のズレが生じてきた
そこで神官は、4年に1度の閏年に1日の閏日を加えた神官用の官暦を用いて年中行事を行った
しかし、民間暦の改訂については神への冒涜であるとして否定的な考えをとり続けた
紀元前239年になって、プトレマイオス3世の命によって官暦に統合された

ペルシアでは、エジプトの民間暦に年始を90日遅らせたものを用いていた
セルジューク朝時代にウマル・ハイヤームらによって、ユリウス暦の要素をとり入れたジャラリー暦を導入した
現在のヒジュラ太陽暦はその後継であり、春分を年首、1-6月を31日、7-11月を30日、12月を平年29日・閏年30日としている
これは黄道十二宮とのズレをなくすための配列である

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ユリウス暦の暦法

ユリウス・カエサルがエジプトを征服した紀元前46年に、アレキサンドリアの暦学者ソシゲネスに命じてエジプト暦を改良した暦を古代ローマに導入した
これをユリウス暦という
当時使われていたローマ暦は実際の季節と3ヶ月もずれてしまっていたため、これを調整するために閏月を3ヶ月分挿入した
なお、この際に春分を3月25日と定め、年始をマルティウスからジャヌアリウスに移動させ、クインティリスを自分にちなんだジュリウスと改称させた

カエサル暗殺後、本来なら閏年を4年に1度とすべきところを誤って3年に1度入れてしまったため、3日間のずれが生じてしまった
そこで、後継者となったアウグストゥスがこれを調整したが、その際にセクスティリスを自らにちなんでアウグストゥスと改称させ、フェブルアリウスを29日から28日にして代わりにアウグストゥスを30日から31日に改めている

326年に行われたキリスト教のニカイア公会議は、春分を3月21日、復活祭を春分後の満月の後の最初の日曜日とすること、その復活祭の日付を基にその他の移動祝祭日の日程を定めることを決定した
ユリウス暦では28年を周期とする日曜文字(Dominical Letter)と春分翌日である3月22日の月齢(エパクト)に基づいて算出された
ユリウス暦にも実際の太陽年とのずれが存在したものの、教会当局は暦上の春分を重んじた
そのために実際の太陽年とのずれは次第に大きくなり、16世紀には実際の春分が3月11日に到来するなどの問題が生じてきた

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グレゴリオ暦の暦法

1582年にローマ教皇グレゴリオ13世の命を受けたクラヴィウスらによって作られたグレゴリオ暦は、週も含めて400年周期の暦で、ユリウス暦の置閏法に加えて、「ただし、西暦年数が100で割り切れる場合、その商が更に4で割り切れない年は平年とする」とするルールを付け加えることによって、400年に97回の閏年を設けることとしたものである
これによって平年は52週と1日となり、1月1日と同じ年の12月31日は同じ曜日となる
さらに翌年には曜日が1日ずつずれていくという原則が成立した
もっとも、閏年の場合には52週と2日となり、曜日も閏年が置かれた3月1日から翌年の2月28日までは2日分ずれていくこととなる

ユリウス暦やグレゴリオ暦は月の動きを完全に暦法から排除したことによって1月1日が日曜日から土曜日になる7つのパターン及びそれぞれに閏年の設定を持つものと持たないものの2つのパターン、合わせて14種類のパターンを作るのみで、違う年のかつて用いられた暦の再利用が可能となった[1](月の動きが複雑に絡む太陰太陽暦には困難である)
特にグレゴリオ暦の1年=365.2425日(正確には31556952秒)によって生じる実際の1年(平均太陽年=31556925.179秒)との差は26.821秒(2013年の場合)であり、1日分の誤差が生じるまでには約3220年を要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦である[2]

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留意事項

現在使用されている西暦は、かつて暦法である西暦と紀年法である西紀とで区別していたが、後に混同されどちらも西暦とされた
暦法としての西暦はグレゴリオ暦(太陽暦)であり、紀年法としての西暦はキリスト紀元である
紀年法と暦法の使用を混同しないよう留意が必要である

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参考文献

今井?「暦法」(『社会科学大事典 19』鹿島研究所出版会、1974年 ISBN 4-306-09170-8)
岡田芳朗「暦法」(『世界歴史大事典 Encyclopedia Rhetorica 20』教育出版センター、1986年 ISBN 4-7632-4019-6)

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脚注

1.^ 4年に1度しか用いられない閏年の暦でも28年に1度(ただし、グレゴリオ暦の特例で閏年が置かれない場合を除く)に全く同じパターンの暦が用いられることになる
2.^ 湯浅吉美『暦と天文の古代中世史』(吉川弘文館、2009、ISBN 978-4-642-02474-7) P179・192-193

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関連項目


暦学
暦道
コンプトゥス
改暦、新暦、旧暦

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[隠す]

表・話・編・歴
暦法(一覧)

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広範使用 天文学暦(英語版) ・ 中国暦 ・ グレゴリオ暦 ・ ヒジュラ暦 ・ ISO暦の種類:太陰太陽暦 ・ 太陽暦 ・ 太陰暦

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地域使用

アカン暦(英語版) ・ アッシリア暦(英語版) ・ アルメニア暦(英語版) ・ アステカ暦(英語版)(トナルポワリ(英語版) ・ シウモルピリ(英語版)) ・ バビロニア暦 ・ バハーイー暦 ・ ベンガル暦(英語版) ・ ベルベル暦(英語版) ・ ビクラム暦 ・ ビルマ暦 ・ ケルト暦(英語版) ・ コプト暦 ・ エジプト暦(英語版) ・ エチオピア暦(英語版) ・ フランス革命暦 ・ ゲルマン暦(英語版) ・ ユダヤ暦 ・ ヘレニズム暦(英語版)(アッティカ暦) ・ ヒンドゥー暦 ・ イボ暦(英語版) ・ インカ暦 ・ インド国定暦 ・ イラン暦(ヒジュラ太陽暦 ・ ペルシア暦) ・ アイリッシュ暦(英語版) ・ 和暦 ・ ジャワ暦(英語版) ・ ユリウス暦 ・ 朝鮮暦(英語版) ・ クルド暦(英語版) ・ リトアニア暦(英語版) ・ マラヤーラム暦(英語版) ・ マヤ暦(ツォルキン ・ ハアブ) ・ シク教暦(英語版) ・ ネパール暦(英語版) ・ バリ暦(英語版) ・ ペンテコステ暦(英語版) ・ ラパヌイ暦(英語版) ・ ローマ暦 ・ ソビエト連邦暦 ・ タミル暦(英語版) ・ タイ暦(タイ太陰暦 ・ タイ太陽暦) ・ チベット暦 ・ ベトナム暦(英語版) ・ コサ暦(英語版) ・ ヨルバ暦(英語版) ・ ゾロアスター暦(英語版) 暦の種類:ルーン暦(英語版) ・ メソアメリカ暦(英語版)(長期暦 ・ 円形暦(英語版)) キリスト教:聖人暦 ・ 正教会暦 ・ 教会暦 ・ 修正ユリウス暦

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限定使用

ダリアン暦 ・ ディスコルディア暦(英語版)

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歴史的暦法

ルミ暦(英語版)

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表示

永久カレンダー(英語版)(万年カレンダー) ・ カレンダー ・ 日本の暦 ・ 経済カレンダー

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カテゴリ: 暦

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:ユリウス暦:wikipedia:

案内 
翻訳 
原稿 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6

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ユリウス暦(ユリウスれき)は、地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦法で、太陽暦の一種である
ユリウス・カエサルによって制定され、紀元前45年1月1日から実施された
その後、暦法としての不備が指摘され、グレゴリオ暦に改暦された
改暦ではユリウス暦1582年10月4日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦10月15日(金曜日)と定めている
紀年法としての西暦はグレゴリオ暦にも継承した[1]

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目次

1 概要
2 方式
3 初期のユリウス暦の運用
4 各月の長さ
5 新年
6 ユリウス暦を使用する正教会
7 脚注
8 関連項目

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概要

1年を原則として365日とするが、4年ごとに閏年を置き、その年の2月末に1日を加えて366日とする
これにより、平均年を365.25日とする

 365日+1/4 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)

正確な1太陽年とは1年につき約11分15秒の誤差(2008年におけるもの)があるが、それでもカエサルの時代としては格段に正確な暦であった

なお、正確に365.25日を1年とする(すなわち、1年 = 31 557 600 秒 = 365.25日×86 400秒)時間単位をユリウス年といい、天文学で広く用いられる
例えば1光年は、真空中の光が1ユリウス年に進む距離である

制定の経緯については、ローマ暦#末期のローマ暦を参照のこと

ユリウス暦は、歴史的にはいろいろ改変されている
4、5世紀頃、アレクサンドリアのキリスト教徒が用いたのはディオクレティアヌス紀元(皇帝ディオクレティアヌスの即位(284年)を紀元とする)であった
それを6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが525年頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕を1年とする西暦紀元が計算された
これは10世紀頃に一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降のことであるという

ユリウス暦の1582年2月24日にローマ教皇庁からグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦の10月4日(木曜日)の翌日をグレゴリオ暦の10月15日(金曜日)とした
ユリウス暦からグレゴリオ暦への移行は国・地域によって徐々に実施された
日本では1873年に採用された
ロシアでは共産主義革命までユリウス暦が採用されており、現在でも正教会の祭礼ではユリウス暦を用いる(ユリウス暦を使用する正教会を参照)

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方式

紀元9年以降に使われた方式は次のとおりである(紀元8年以前については初期のユリウス暦の運用を参照)
平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する
各月の長さは1月から順に次のとおり

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紀元9年以降のユリウス暦

      1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
(1)平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
(2)平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
(3)平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
(4)閏年 31日 29日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 366日

西暦年が4で割り切れる年を閏年とし、その4年に1度の閏年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする

1月は季節でいうと冬至を過ぎた頃になる
日本語では各月は1月〜12月の数字で表すことが多いが、古代ローマではローマ神話などに基づく固有名があった
これらの月の名は7月、8月を除いてローマ暦と同一である
また、基本的に同一月の季節もローマ暦とほぼ同じである

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初期のユリウス暦の運用

紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名にちなんでJulius(Iulius)と呼ぶようになった
閏年は4年に1回と決められたが、カエサルの死後、誤って3年に1回ずつ閏日が挿入された
この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの数年間、閏年を停止した
紀元8年からは4年ごとに閏日を挿入している
同時に8月の名称を自分の名Augustusに変更した

紀元前45年から紀元8年までの間どのような周期で閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった
紀元前45年から3年おきという学者もいれば、紀元前44年から3年おきという学者もいた
1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元12年までの閏年の置かれ方は次のとおりである

紀元前44年、紀元前41年、紀元前38年、紀元前35年、紀元前32年、紀元前29年、紀元前26年、紀元前23年、紀元前20年、紀元前17年、紀元前14年、紀元前11年、紀元前8年、紀元8年、紀元12年(以後、4年ごと)

ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月のAugustusだけだった
多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとしたが、残りのすべての改名の企てはその皇帝の死とともに元の月名に戻った
カリグラは9月をGermanicus[2]と、クラウディウスは3月をClaudius(クラウディウス)と、ネロは4月をNeroneusと改名した[3]
ドミティアヌスは10月をDomitianusと改名した
9月はアントニヌス・ピウスによってAntoninusと改名されたほか、タキトゥスによってもTacitusと改名された
11月はピウスの妻の名をとってFaustinaにされたりRomanusにされたりした
コンモドゥスは月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した
順にAmazonius(1月)、Invictus(2月)、Felix(3月)、Pius(4月)、Lucius(5月)、Aelius(6月)、Aurelius(7月)、Commodus(8月)、Augustus(9月)、Herculeus(10月)、Romanus(11月)、Exsuperatorius(12月)であった
しかし前述したとおり、どの改名もその皇帝が死去するとすぐに元に戻された

−−−
各月の長さ

13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1ヶ月おきに大の月と小の月がくるようになっていた
サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである

紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
30日 29日 30日 29日 30日 29日 30日 29日 30日 29日 30日 29日 354日

この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない
サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた
サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである(かっこ内は閏年での日数、以下同じ)

カエサルが制定した各月の日数

   1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
平年 31日 29日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 365日
閏年 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 366日

そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた

アウグストゥスが制定した各月の日数

   1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
閏年 31日 29日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 366日

8月の日数を増やしたのは、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる
この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた

現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており[4]、サクロボスコの解釈は間違っているとされる
ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月、5月、7月、10月はもともと大の月で固定されていた
ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目はイードゥースという特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくてもある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月の日数を推測することができるのである[5]
(ローマ暦を参照)

ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである

ローマ暦末期の各月の日数

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
29日 28日 31日 29日 31日 29日 31日 29日 29日 31日 29日 29日 355日

サクロボスコの見解は3世紀と5世紀の学者CensorinusとMacrobiusとも食い違い、またユリウス暦初期のVarroによって記録された紀元前37年の暦とも食い違う
また、前述した1999年にエジプトで発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う[6]

−−−
新年

ローマ暦は1月1日が新年初日で、これはユリウス改暦後も新年であった
しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした
エジプトのコプト暦では8月29日(アレクサンドリア暦の閏年の後では8月30日)に新年が始まる
いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日9月23日に新年を合わせた
ビザンチン暦はインディクティオに由来して9月1日に始まる(これは現在でも正教会の典礼暦における新年である)

中世のカレンダーはローマ人がしていたように1月から12月をそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として表示し続けたため、すべての西ヨーロッパ諸国(すなわちローマ・カトリック教会を信奉する諸国)は1月1日を「元日」(または同等の名称)と呼び続けた
しかし、これらの国のうちのほとんどは12月25日(クリスマス)、3月25日(受胎告知、春分の日)、あるいはフランスのように復活祭に新しい年を開始した(詳細については典礼暦を参照)

2、3のイタリア都市国家を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に(多くの場合は16世紀中に)、新しい年の最初の日を1月1日に移した
以下の表は各国が新年として1月1日を採用した年を示す



1月1日を採用した年[7][8]

改暦した年

ヴェネツィア共和国 1522 1582
神聖ローマ帝国[9] 1544 1582
スペイン、ポルトガル 1556 1582
プロイセン、デンマーク、ノルウェー 1559 1700
スウェーデン 1559 1753[10]
フランス 1564 1582
南ネーデルラント 1576[11] 1582
ロレーヌ 1579 1760
ネーデルラント連邦共和国のうち
ホラント州、ゼーラント州 1583 1582
ホラント州とゼーラント州を除く
ネーデルラント連邦共和国 1583 1700
スコットランド 1600 1752
ロシア 1700 1918
トスカーナ 1721 1750
スコットランドを除く
大英帝国 1752 1752[12]
セルビア 1804[要出典] 1918

−−−
ユリウス暦を使用する正教会

現代の西方教会は全てグレゴリオ暦を使用しているが、正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある
ただし全正教会がユリウス暦を使用しているわけではない[13]
ユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従っているためとされる[14]

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「修正ユリウス暦」も参照

ユリウス暦を使用する教会では、21世紀ではユリウス暦とグレゴリオ暦の間には13日の差があるため、年間で日付で固定される祭日は13日ずれて祝われる事になる
たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20世紀・21世紀ではグレゴリオ暦の1月7日に相当し、西暦の1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる
[13] ユリウス暦を使用している教会・教区・修道院アトス山(コンスタンディヌーポリ総主教庁管掌だが、ユリウス暦を使用)
ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)
エルサレム総主教庁
グルジア正教会
セルビア正教会
日本ハリストス正教会
ロシア正教会

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脚注

1.^ 改暦によって紀元は同じ1582年であるが、日付が10日のずれを生じた(ユリウス歴では10月5日)
当然のことながら暦日にずれは生じていない
2.^ 「ゲルマニクス」はカリギュラの本名の最後の部分の名前であり、かつ自分の父(ゲルマニクス)の最初の部分の名前でもある
3.^ ユリウス・クラウディウス朝の5人の皇帝のうち、自分の人名を月の名前に付けようとしなかったのはティベリウスだけである
4.^ 詳細な証拠についてはウィキペディア英語版のユリウス暦を参照
5.^ なお、小の月ではイードゥースは第13日目になる
イードゥースのほかにもノーナエという特別な名で呼ばれた日付があり、これを使っても月の日数を推定できる
6.^ ウィキペディア英語版のユリウス暦によれば、紀元前12年より前、祭事の日付による逆算ですでに2月の日数が28日であった証拠があるという
7.^ John J. Bond, "Commencement of the Year", Handy-book of rules and tables for verifying dates with the Christian era, (London: 1875), 91?101.
8.^ Mike Spathaky Old Style and New Style Dates and the change to the Gregorian Calendar: A summary for genealogists
9.^ The source has Germany, whose current area during the sixteenth century was a major part of the Holy Roman Empire, a religiously divided confederation. The source is unclear as to whether all or only parts of the country made the change. In general, Roman Catholic countries made the change a few decades before Protestant countries did.
10.^ Sweden's conversion is complicated and took much of the first half of the 18th century. See Swedish calendar.
11.^ Per decree of 16 June 1575. Hermann Grotefend, "Osteranfang" (Easter beginning), Zeitrechnung de Deutschen Mittelalters und der Neuzeit (Chronology of the German Middle Ages and modern times) (1891?1898)
12.^ 1751 in England only lasted from 25 March to 31 December. The following dates 1 January to 24 March which would have concluded 1751 became part of 1752 when the beginning of the numbered year was changed from 25 March to 1 January.
13.^ a b 質問: クリスマスは12月25日?ロシアでは1月7日に祝うと聞いたのですが
14.^ また、ユダヤ教は1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないともいう

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関連項目

エパクト
グレゴリオ暦
先発グレゴリオ歴
コンプトゥス
修正ユリウス暦(正教会)
ユリウス年
ユリウス通日
ローマ暦
紀年法

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表・話・編・歴
暦法(一覧)

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:旧暦:wikipedia:最終更新 2013年1月18日 (金) ::

案内 
翻訳 
原稿 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9A%A6

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旧暦(きゅうれき)とは改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである
改暦後の暦法は新暦
多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す

−−−
目次

1 東アジア
 1.1 日本
 1.2 中国など
 1.3 ベトナム
2 西洋
3 注釈
4 関連項目
5 外部リンク

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東アジア

東アジアの多くの国では、グレゴリオ暦に改暦する前は中国暦またはそれをもとにした暦が使われていた
これらの暦は太陰太陽暦に分類されるので、旧暦を単に太陰太陽暦と言ったり正しい語法ではないが太陰暦・陰暦と言ったりする
なおその場合、新暦は太陽暦・陽暦とも言う

グレゴリオ暦への改暦以前にも多数の改暦があったがグレゴリオ暦への改暦に比べれば小さな変更にすぎないため、暦法の細部を問題にしないときはグレゴリオ暦以前の暦法をまとめて旧暦と呼ぶことも多い

各国の旧暦は基本はほとんど同じだが、標準時が異なる
そのため時差により朔や節気の日付がずれ、同じ日の日付が1日または1月ずれることがある
たとえば2007年2月18日未明(日本標準時)の朔は日本や中国では日付が変わって2月18日だったが、ベトナムではまだ2月17日だった
そのため旧正月(旧暦1月1日)が日本や中国では2月18日、ベトナムでは2月17日になった
この種のずれは数年に一度起こるがほとんどの場合翌月1日(旧暦で)には解消されるので、旧正月のずれを引き起こす1月以外では大きな混乱を引き起こすことはない
なお、旧暦に使われている標準時はその国の標準時と異なることがある

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日本

日本の旧暦は天保暦である
ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は改暦前の天保暦とわずかに異なる

天保暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われていた
その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された
改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された
この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる[1]
今なお占いや伝統行事や水産業[2]などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている(改暦にともなう混乱の詳細は、「日本におけるグレゴリオ暦導入」の節を参照)

旧暦の計算は、江戸時代までは京都における真太陽時により暦の計算に必要な中気・朔の日時を経験的に知られていた定数や周期に基づいて求めていた
そのため閏月の付加や毎年変化する大小月(30日の大月、29日の小月)も毎年計算していた

現在の旧暦で使っている時間帯は日本標準時(UTC+9)で、これは東経135度の平均太陽時とほぼ等しい
これに対し京都の経度は東経135度46分で、UTC+9:03に当たる
さらに均時差により最大±15分の時差が生まれる
また、天体の位置も天体力学(位置天文学)に基づく式で計算している
このため、江戸時代の天保暦によって計算した日付と現在の旧暦とでは日が1日前後したり月名が変わったりする場合がある

なお明治改暦以降、正式な暦ではなくなったため国立天文台では改暦以前の新暦旧暦の対照には回答するものの改暦後の対照には応じない立場である[3]
一方、同じ国の機関であっても海上保安庁海洋情報部では非公式ながら2010年まで新暦旧暦の対照表を公表していた(2010年以降の公表予定はない)[4]

−−−
中国など

清(現在の中華人民共和国・台湾・モンゴル)と李氏朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)では、1644年に清が制定した時憲暦が使われていた
朝鮮半島では1896年に、中国では1912年の中華民国成立時にグレゴリオ暦に改暦された

これらの地域の旧暦は完全に同一である
標準時がUTC+9の韓国や世界各国の華人社会を含め、現地の標準時と関わりなくUTC+8の中国標準時で計算される

旧暦は中国では農暦と呼ぶことが多く、この場合新暦は公暦と呼ぶ
他に旧暦・陰暦・夏暦とも呼ぶ
韓国では陰暦と呼ぶことが多い(旧暦とも)
英語ではChinese calendarと言う

これらの国では日本とは異なり、改暦以前からある祝祭日や年中行事は旧暦で祝うのが普通である
特に旧正月はグレゴリオ暦の正月より盛大に祝われる
中国では春節、韓国ではソルナルと呼ばれ中国・台湾・韓国のみならず華人の多いシンガポール・マレーシア・インドネシアで国の休日となっている
中国では春節の他に端午節、中秋節が旧暦での国の休日となっている
韓国ではチュソク(旧暦8月15日)、釋迦誕辰日(旧暦4月8日)がある

韓国と中国では誕生日を旧暦で表す習慣がある
ただし新暦を使う人も混在していて、単に日付を聞いただけではどちらかわからないことがある

モンゴルでは本来の意味での旧暦は時憲暦だが、現在はほとんど使われない
その代わりインドに起源を持つ時輪暦を修正した暦が改暦以前から民間や宗教行事で広く使われており、他国の旧暦に似た位置づけにある
時輪暦は過去に公の暦だったことはないが、旧暦として紹介されることがある

−−−
ベトナム

ベトナムの旧暦は中国暦とほぼ同じである
ただしベトナム標準時(UTC+7)を使うため、日付は異なることがある
旧暦の扱いは中国などに似ていて、旧正月(テト)はやはり盛大に祝われる
国外ではベトナム暦とも呼ばれる

−−−
西洋

西洋では、旧暦 (old calendar / old style) とはグレゴリオ暦に改暦する前のユリウス暦のことである
なお新大陸のいくつかの国ではユリウス暦が使われたことはないが、同様である
グレゴリオ暦への改暦は1582年(フランス、イタリア、ポルトガル、スペイン)から1924年(ギリシャ)にかけて各国ばらばらに行われた

英語では日付の脇にOld StyleまたはO.S.と書いた場合、ユリウス暦での日付を示す

ドイツでは改暦の時期が領邦によりまちまちだったため、スラッシュ(/)で新旧の日付を併記したり日付に都市名を添えたりする習慣が続いた

なお、ローマにおいてはユリウス暦以前の太陰(太陽)暦であるローマ暦が存在した

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注釈

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1.^ 岡田義朗『暦に見る日本人の知恵』(NHK出版 生活人新書)
2.^ 潮汐は月の満ち欠けの関係が深いため
3.^ 「旧暦」ってなに?
4.^ 1997-2010年の新暦と旧暦の対照表

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関連項目

旧暦360日
旧暦2033年問題
旧正月
和暦
太陽暦
グレゴリオ暦

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外部リンク

和暦・西暦変換【換暦】
こよみのページ - 旧暦のカレンダーや、新暦と旧暦相互の変換(1000〜2069年の間)ができる
旧暦計算ライブラリ - 新暦から旧暦を計算するスクリプト
新旧暦(中国元号)変換カレンダー - 新暦の日付と中国の旧暦(農暦)の日付を相互変換できるサイト

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===4===============

:旧暦old calendar:wiki/wiki:

案内 
翻訳 
原稿 http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/calen/%E6%97%A7%E6%9A%A6

−−−−−−−−−−−−−−−−−
目次

旧暦とは
日本や韓国・中国での旧暦
西洋における新暦と旧暦
日本で「旧暦」と呼ばれている暦

−−−
旧暦とは

旧暦(きゅうれき, old calendar)とは、以前使用されていた暦のこと
実際には公式には過去のものとされたにも関わらず民間で使い続けられている暦を指していうことばである
−−−
日本や韓国・中国での旧暦

日本・韓国・中国では、だいたい第二次世界大戦の頃まで民間では太陰太陽暦の暦が使用されていた
現在では各国ともに公式には西暦とも呼ばれるグレゴリウス暦が使用されていて、これを新暦というのだが、それに対して過去に使われていた方式で計算された暦が民間ではいきわたっており、これを旧暦と称して使い続けられている

韓国では誕生日は旧暦でお祝いする習慣である
中国では旧暦の正月(春節)を西暦の正月以上に大々的に祝う
日本でも神社やお寺などの各種行事で旧暦でおこなわれるものがけっこうある

なお、日本と韓国は標準時が同じ時刻帯にあるので、太陰太陽暦がほぼ同じ日付になる
中国は1時間ずれているので、日付が異なる場合もある

→新暦, 中暦

−−−
西洋における新暦と旧暦

西洋では一般に「旧暦(old calendar)」といえばユリウス暦、「新暦(new calendar)」といえばグレゴリウス暦を指す

しばしば人物の誕生日が旧暦で書かれたり新暦で書かれたりするが、これは新暦とされるグレゴリウス暦を制定したのが、カトリックの総本山であるローマ法王庁であったため、プロテスタント国や正教国ではその採用に消極的なところが多かったためである

現在では世界各国ともに公的にはほとんどの国がグレゴリウス暦を使用しているが、教会の行事や民間の行事などでは、いまだにユリウス暦にもとづいて、行事をおこなっているところも多い

−−−
日本で「旧暦」と呼ばれている暦

現在日本で「旧暦」と呼ばれている暦は、天保暦をベースにした太陰太陽暦である
ただし、天保暦とは使用している標準時が異なっている

天保暦は当時の日本の首都・京都の地方時で計算されているが、現在の「旧暦」は明石の地方時、つまり日本標準時を使用して計算されている

なお、現在日本は公式には太陽暦であるグレゴリウス暦を採用しているので、様々なところから公表されている「旧暦」は、色々な人が勝手に計算したものであり、たまに食い違っている場合もある
ただ、その食い違いは、たいていの場合、計算ミスによると思われるものが多く、解釈の違いが出ているケースは稀である

この手の暦では、やはり神宮館から出ている暦の信頼性が高い


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===5===============

:ノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・・ :tonton:2013/10/20:

案内 
翻訳 
原稿 http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-285.html#comment13296

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★ 旧暦1999年とは 新暦2014年
時間差15年

カルフォルニアでM6.4の地震が発生!!
それにしても世界中で地震の数が凄い、いやな予感がする
http://www.iris.edu/sm2/

アメリカはデフォルトは今回回避したがイエローストーンがきな臭い
次々にアメリカにはマイナスな出来事が重なってきそうだ
そういえばノストラダムスの世紀末は旧暦であり今の暦で当てると2014年となるのだが・・・
暗黒の大魔王・・・ハルマゲドン・・・

今、人々はエコロジーなライフスタイル、自然への愛着へと回帰してきている人々が年齢問わず増加してきている
ダーチャ的な生活環境を求める人々も増えてきている
都会を脱して田舎に住みたい思考?愛着??が増加してきている
トレッキングなどエコツーリズムへと観光、レジャーがシフトしてきている
伊勢神宮、出雲大社などへの参拝が観光として増加してきている
たしかに物質的な欲望から精神的なものへ様々な回帰が感じられる昨今
パラダイムシフトが加速している??
集団無意識が近未来の不安を感じ取りシフトしているのだろう
頭で感じる欲求から体が心が心地よく感じるものへのシフトがはじまっている
マネーに依存した欲求を満たす物欲時代は終わってくるのだろう
歩くことが楽しいと感じる人が増えている
登山も頂上、ピークを目指す一辺倒から
里山や尾根の縦走など自然や田舎とのんびり触れ合う、食するトレッキングを求める時代へ
アメリカだけでなく日本はじめ世界に人々に変化の兆しが

やはり近いうちに何か大きなことが起きて、転換点となってくるのだろう
ライフスタイルが変化してきている

もちろんそれはまだ絶多数としては一部だが、トレンドとして潮流として現れている
一定数の人々がある割合として増えると一気に変化する
そのピークが近いのかもしれない


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===6===============

:古代ローマの暦:vdgatta:

案内 
翻訳 
原稿 http://www.vdgatta.com/note_fasti.html

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古代ローマの暦

このページでは、古代ローマで用いられていた年・月・週・日の呼び名などを説明しています
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暦の歴史

ローマの暦の歴史を簡単に解説します
ただし、ユリウス暦以前の暦に関しては確定的な証拠がないために、伝承や研究者によって推測された部分も多い

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ロムルス暦

紀元前8世紀(前753年?)ころ、伝説的なローマの建国者ロムルスの名にちなんでつけられた最初の暦が誕生する
ギリシアの太陰暦を原型とした暦であったらしい

農耕のための暦であったために、3月から12月までの10ヶ月(304日間)に名前が付けられていた
農作業を行なうことができない期間(今日の1月と2月)には呼び名がなかった
3、5、7、10月は大の月と呼ばれ31日間、残りの月は小の月と呼ばれ30日であったという

今日の月 名称 日数
3月 Martius 31日
4月 Aprilis 30日
5月 Maius  31日
6月 Junius 30日
7月 Quintilis 31日
8月 Sextilis 30日
9月 September 30日
10月 October 31日
11月 November 30日
12月 December 30日
1月
2月 ―― 約60日

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ヌマ暦

前710年ころ(?)、続く第2代目の王ヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius、前715-673)が冬の期間に2ヶ月を加えて、一年を12ヶ月と定めたという(Livius, 1.19)
その暦がどのようなものであったかは不確かである
しかし、前6世紀ころにはこのヌマ暦を元にした12ヶ月、355日間の暦が完成していた

太陽を基準にする一年には11日足りない
その分は二年に1度、2月を23日に縮めて、27日間または28日間の閏月が加えられていた
この閏月はインテルカラーリス(Intercalaris mensis)もしくはメルケードーニウス(Mercedonius)と呼ばれる
今日の閏日が2月に付け加えられるのは、このヌマ暦に由来する

今日の月 名称 日数
3月 Martius 31日
4月 Aprilis 29日
5月 Maius  31日
6月 Junius 29日
7月 Quintilis 31日
8月 Sextilis 29日
9月 September 29日
10月 October 31日
11月 November 29日
12月 December 29日
1月 Januarius 29日
2月 Februarius 28日

(23)
閏月 Mercedonius
Intercalaris 27、28日

前153年の改定

前153年に今日の1月にあたるヤーヌアーリウス(Ianuarius)が行政に関する年度はじめとなり、新たなコンスル(執政官)の就任が1月1日と定められた
そのために、この年から一年の始まりが1月1日となった
この改定によって、今日の9月から12月を指す月の名前と言葉の意味のずれが生じた

【参考】
永田久『暦と占いの科学』では、Ianuariusを年の初めとした理由に、「行動の始まり」を司るヤーヌス神にちなむ1月が、年の初めに相応しかったのだろうと推測している
しかしこの改定は、もっと具体的な必要性に迫られたものであったようだ
前155年イベリア半島西方のルシタニア人が蜂起し、ルシタニア戦争が生じる
さらに翌年イベリア半島中部のケルト=イベリア人が蜂起し、ヌマンティア戦争(第二次ケルティベリア戦争)が起こった

前153年以前にはMartius(3月)に年が始まり、Idibus Martiis(3月15日)に新しい執政官(コンスル)が就任した
そして、この執政官の就任と同時に、その年の戦争や遠征も開始する
通例では冬は軍事行動を行なわない(行なえない)期間であったが、この非常事態には早期に出兵する必要があった
そこで、年始を1月として新たな執政官の就任を行ない、ケルト=イベリア人に対して出兵したようだ
このとき遠征した執政官はクイーントゥス・フルウィウス・ノービリオル(Q. Fulvius Nobilior)であったが、彼はこの戦いで戦死した

−−−
ユリウス暦

共和政末期には暦と実際の季節とのあいだに大幅な誤差が生じていた
そのために、前46年にカエサルはそれ以前の暦を廃止して、前45年1月1日から新しい暦を始めた
この暦はユリウス暦と呼ばれるものであり、エジプトの太陽暦を元にして、一年を365日とした

また3年に一度、2月24日を2度繰り返し閏日(dies intercalaris)とする閏年(annus bissextilis)を定めた(今日のような2月29日はなかった)
初期のユリウス暦では3年に一度閏年が入れられていたが、その後その誤差が改められ、後8年に4年に一度に定められた

また、前44年にカエサルの名にちなんで7番目の月がユーリウス(Iulius)に、後8年にアウグストゥスの名にちなんで8番目の月がアウグストゥスと改名さた
暦の詳細な表は後述
今日の暦は、このユリウス暦を原型としている

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【参考】

・地球は太陽の周りを365.25日かけて一周する
そのために、1年は365日で4年に一度閏日を入れる

・月は29.5日かけて満ち欠けをする
その場合12ヶ月は354日


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:ユリウス暦やグレゴリオ暦からを修正ユリウス日とユリウス日を求めます:ユリウス日:

案内 
翻訳 
原稿 http://keisan.casio.jp/exec/system/1177639469

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ユリウス日計算

AD BC 年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31日
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通日

ユリウス日 2,451,379.5
修正ユリウス日 51,379.0

ユリウス日は紀元前4713年1月1日の正午12:00を 0日、
修正ユリウス日は西暦1858年11月17日00:00を 0日とします
修正ユリウス日=ユリウス日−2400000.5
BC1年の翌年はAD1年です
(BC0年およびAD0年は歴史上存在しません)
グレゴリオ暦は、1582年10月15日以降から採用されています


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===8===============

:ユリウス暦Julian calendar:

案内 
翻訳 
原稿 http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/calen/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6

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目次

ユリウス暦とは
月の長さと閏日
誤運用とアウグストゥス

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ユリウス暦とは

ユリウス暦(ユリウス暦)とは、ローマの独裁官(dictator)ユリウス・カエサル(英語名:ジュリアス・シーザー)が定めた暦で、BC45年(AUC709年)からローマで施行された
現在世界的に使用されているグレゴリウス暦の元になった暦である

カエサルはエジプト遠征をおこなった際に当地の暦が優秀であることに気づき、エジプトから学者を招いて新しい暦を企画させた
ローマではそれ以前は太陰太陽暦が使用されていたが、BC45年をもって、太陽暦の使用を開始した

→ローマの古い暦 −−−
月の長さと閏日

ユリウス暦ではまず1年の長さが約365.25日であるとして、平年は365日、閏年は366日とし、3年平年を続けて1年閏年を置くという方式を決めた
そして各月の長さを次のように定めた

3月=31日 4月=30日 5月=31日 6月=30日
7月=31日 8月=30日 9月=31日 10月=30日
11月=31日 12月=30日 1月=31日 2月=30日

すなわち、奇数月は31日(大の月)、偶数月は30日(小の月)というシステムである
ここで本当は2月は30日にしたいところなのだがそれでは1年が366日になってしまうので、閏年は30日にして、平年は29日にすることにした
2月(Februarius)を調整に使うのはそれが1年の最後の月であるという認識があったからである

そして更にここでカエサルは今まで年の始めは1月(Ianuarius)なのか3月(Martius)なのか論争があったところを、年の初めは1月であるということにした
年初は1月である、と言っておいて2月を調整に使うのは矛盾しているようにも思えるが、権力者といえども新しいシステムの導入には多少の妥協が必要であったのであろう

この暦を定めた上で、カエサルは記念にと自分の誕生月である7月(Quintilis)にユリウス(Iulius, 英語名July)と自分の名前を付けた

−−−
誤運用とアウグストゥス

さて、このカエサルが定めた暦はカエサルが暗殺された後、誤って運用されてしまう
3年平年のあと1年閏年というペースでいかなければならない所を、間違って3年に1度閏年を入れてしまった

カエサルの実質的後継者として初代ローマ皇帝になったアウグストゥスは、この暦の運用の誤りに気付き、調整のため以後3回閏年を省略することを命じた
このため、カエサルが定めた暦が正しく運用されはじめたのはA.D.8年からである

−−−
→ユリウス暦とグレゴリウス暦とのずれ

アウグストゥスは暦に関わったついでに、カエサルにならって自分も月の名前に自分の名前を付けたいと考え、8月(Sextilis)をアウグストゥス(Augustus,英語名August)と改名した
ところがその時こまったことがあった

それは8月は30日の月だったことである
アウグストゥスは自分が生まれた月が30日しかないのは不愉快だと思い、そこで8月も31日までの月にすることを決め、そのあと1個ずつずらしてしまった

1月=31日 2月=29日 3月=31日 4月=30日
5月=31日 6月=30日 7月=31日 8月=31日
9月=30日 10月=31日 11月=30日 12月=31日

ところがこうしてしまうと、8月で1日増やした分1年の日数が大きくなってしまう
そこで仕方なく、またまた2月から1日取ってしまうことにし、この時から2月は平年で28日、閏年で29日になることになった


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===9===============

:ユリウス暦とグレゴリウス暦とのずれ:

案内 
翻訳 
原稿 http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/calen/ユリウス暦とグレゴリウス暦とのずれ

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目次

説明
AD4〜2599年の表
45BC〜AD8年の表(伝統的な説)
45BC〜AD8年の表(新説)

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説明

下記に、ユリウス暦とグレゴリウス暦とのずれを一覧にする

これはグレゴリウス暦をユリウス暦にする時に引くべき数を表す
例えばグレゴリウス暦2011年5月20日をユリウス暦に換算する場合、表から得た13を引いて、2011年5月7日がユリウス暦での日付になる

ここで1月,2月は前年とみなして処理すること
例えばグレゴリウス暦2200年1月17日の換算をする場合、1月は前年とみなすということから、2100年代の数14を適用して1月3日になる

閏日を越える場合は少し注意が必要である
例えばグレゴリウス暦1900年3月10日をユリウス暦に換算する場合、もう3月なので1900年代の数13を引き、ユリウス暦で3月-3日となる
ここで-3日というのは3月1日より4日前になる(3月0日が3月1日の1日前なので)
この年はユリウス暦では閏年なので、2月29日,28日,27日,26日とたどって対応する日は1900年2月26日になる
引き算をして得た値は既にユリウス暦になっているので、ユリウス暦での閏日が適用されるのである

AD4〜2599年の表

基本的にはJのみ閏日があれば差分は1日広がる

年範囲 差分
2500〜2599 17
2400〜2499 16
2300〜2399 16
2200〜2299 15
2100〜2199 14
2000〜2099 13
1900〜1999 13
1800〜1899 12
1700〜1799 11
1600〜1699 10
1500〜1599 10
1400〜1499 9
1300〜1399 8
1200〜1299 7
1100〜1199 7
1000〜1099 6
900〜 999  5
800〜 899  4
700〜 799  4
600〜 699  3
500〜 599  2
400〜 499  1
300〜 399  1
200〜 299  0
100〜 199 -1
4〜 099  -2

45BC〜AD8年の表(伝統的な説)

基本的にはJのみ閏日があれば差分は1日増え、Gのみ閏日があれば差分は1日減る

ユリウス・カエサルは3年平年を続けたら1年閏年を入れるように定めたのだが、彼が44BCに暗殺されてしまってから、後継者たちは誤って3年ごとに閏年を入れてしまった
その誤りに気づいたのがオクタヴィアヌスで、彼は調整のため以後3回にわたり閏年を入れないことを定めた
このため746AUC〜760AUCまでは平年が続いたのである

年 閏G 閏J 差分 (AUC)
8 AD8 G J -2 761auc この年から正常運用
7 AD7 -2 760auc
6 AD6 -2 759auc
5 AD5 -2 758auc
4 AD4 G -2 757auc
3 AD3 -1 756auc
2 AD2 -1 755auc
1 AD1 -1 754auc
0 1BC G -1 753auc
-1 2BC 0 752auc
-2 3BC 0 751auc
-3 4BC 0 750auc
-4 5BC G 0 749auc
-5 6BC 1 748auc
-6 7BC 1 747auc
-7 8BC 1 746auc
-8 9BC G J1 745auc
-9 10BC 1 744auc
-10 11BC 1 743auc
-11 12BC J 1 742auc
-12 13BC G 0 741auc
-13 14BC 1 740auc
-14 15BC J 1 739auc
-15 16BC 0 738auc
-16 17BC G 0 737auc
-17 18BC J 1 736auc
-18 19BC 0 735auc
-19 20BC 0 734auc
-20 21BC G J0 733auc
-21 22BC 0 732auc
-22 23BC 0 731auc
-23 24BC J 0 730auc
-24 25BC G -1 729auc
-25 26BC 0 728auc
-26 27BC J 0 727auc
-27 28BC -1 726auc
-28 29BC G -1 725auc
-29 30BC J 0 724auc
-30 31BC -1 723auc
-31 32BC -1 722auc
-32 33BC GJ-1 721auc
-33 34BC -1 720auc
-34 35BC -1 719auc
-35 36BC J-1 718auc
-36 37BC G -2 717auc
-37 38BC -1 716auc
-38 39BC J-1 715auc
-39 40BC -2 714auc
-40 41BC G -2 713auc
-41 42BC J-1 712auc
-42 43BC -2 711auc
-43 44BC -2 710auc
-44 45BC G -2 709auc ユリウス暦開始
-45 46BC -1 708auc 混乱の年

−−−
45BC〜AD8年の表(新説)

「3年平年のあと1年閏年の所を誤って3年に1度閏年を入れた
オクタヴィアヌスがそれに気づき、以後3回閏年を飛ばした」という歴史書の記述に関しては、古来多くの解釈が行われた
前節にあげたのは、この文章をもっとも自然に解釈したもので、1583年にJoseph Scaligerが提唱して以来、多くの人の賛同を得てきたものである

しかしその後、41BC年は閏年であったとする記述が古文書に見つかり、また1999年に発見されたエジプトのパピルス文書に24BCの天文暦が書かれており、そこからその年の日付が明らかになった
これらのことから下記のような閏年の入り方であったのではないかとの説が浮上した
つまり「3回閏年を飛ばした」というのを今まで「5BC,1BC,AD4」というように4年ごとの3回とみんな思ったのだが、実は「5BC,2BC,AD2」という3年ごとの3回だったのではというわけである

ただ、この説でいくと、オクタヴィアヌスの命令により3回閏年が抑制された後の最初の閏年がAD5年ではなくAD4年から始まっているのが不自然な感じもする
また伝統的な説では、オクタヴィアヌスの調整の結果、暦のずれはユリウス・カエサルの時代と同じ値に復帰しているのに、この新説では2日ずれてしまっているのも問題である

年 閏G 閏J 差分 (AUC)
8 AD8 G J -2 761auc この年から正常運用
7 AD7 -2 760auc
6 AD6 -2 759auc
5 AD5 -2 758auc
4 AD4 G J -2 757auc
3 AD3 -2 756auc
2 AD2 -2 755auc
1 AD1 -2 754auc
0 1BC G -2 753auc
-1 2BC -1 752auc
-2 3BC -1 751auc
-3 4BC -1 750auc
-4 5BC G -1 749auc
-5 6BC 0 748auc
-6 7BC 0 747auc
-7 8BC J 0 746auc
-8 9BC G -1 745auc
-9 10BC 0 744auc
-10 11BC J 0 743auc
-11 12BC -1 742auc
-12 13BC G -1 741auc
-13 14BC J 0 740auc
-14 15BC -1 739auc
-15 16BC -1 738auc
-16 17BC G J -1 737auc
-17 18BC -1 736auc
-18 19BC -1 735auc
-19 20BC J -1 734auc
-20 21BC G -2 733auc
-21 22BC -1 732auc
-22 23BC J -1 731auc
-23 24BC -2 730auc
-24 25BC G -2 729auc
-25 26BC J -1 728auc
-26 27BC -2 727auc
-27 28BC -2 726auc
-28 29BC G J -2 725auc
-29 30BC -2 724auc
-30 31BC -2 723auc
-31 32BC J -2 722auc
-32 33BC G -3 721auc
-33 34BC -2 720auc
-34 35BC J -2 719auc
-35 36BC -3 718auc
-36 37BC G -3 717auc
-37 38BC J -2 716auc
-38 39BC -3 715auc
-39 40BC -3 714auc
-40 41BC G J -3 713auc
-41 42BC -3 712auc
-42 43BC -3 711auc
-43 44BC J -3 710auc
-44 45BC G -4 709auc ユリウス暦開始
-45 46BC -3 708auc 混乱の年


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:旧暦-西暦の相互変換:

案内 
翻訳 
原稿 http://can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html

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1.西暦から旧暦へ変換
2.旧暦(和暦)から西暦に変換
3.西暦年から旧暦年・十干十二支・九星・仏暦・浄土宗何周年を求める

旧暦(和暦)の元年を書きあげると次のようになります

年号 読み 元年の西暦〜
天応 てんおう 781〜
延暦 えんりゃく 782〜
大同 だいどう 806〜
弘仁 こうにん 810〜
天長 てんちょう 824〜
承和 じょうわ・しょうわ 834〜
嘉祥 かしょう 848〜
仁寿 にんじゅ 851〜
斉衡 さいこう 854〜
天安 てんなん 857〜
貞観 じょうがん 859〜
元慶 がんぎょう・げんけい 877〜
仁和 にんな 885〜
寛平 かんぴょう 889〜
昌泰 しょうたい 898〜
延喜 えんぎ 901〜
延長 えんちょう 923〜
承平 じょうへい 931〜
天慶 てんぎょう 938〜
天暦 てんりゃく 947〜
天徳 てんとく 957〜
応和 おうわ 961〜
康保 こうほう 964〜
安和 あんな 968〜
天禄 てんろく 970〜
天延 てんえん 973〜
貞元 じょうげん 976〜
天元 てんげん 978〜
永観 えいがん・えいかん 983〜
寛和 かんな 985〜
永延 えいえん 987〜
永祚 えいそ 989〜
正暦 しょうりゃく 990〜
長徳 ちょうとく 995〜
長保 ちょうほ 999〜
寛弘 かんこう 1004〜
長和 ちょうわ 1012〜
寛仁 かんにん 1017〜
治安 じあん 1021〜
万寿 まんじゅ 1024〜
長元 ちょうげん 1028〜
長暦 ちょうりゃく 1037〜
長久 ちょうきゅう 1040〜
寛徳 かんとく 1044〜
永承 えいしょう 1046〜
天喜 てんぎ 1053〜
康平 こうへい 1058〜
治暦 じりゃく 1065〜
延久 えんきゅう 1069〜
承保 じょうほう 1074〜
承暦 じょうりゃく 1077〜
永保 えいほ 1081〜
応徳 おうとく 1084〜
寛治 かんじ 1087〜
嘉保 かほう 1094〜
永長 えいちょう 1096〜
承徳 じょうとく 1097〜
康和 こうわ 1099〜
長治 ちょうじ 1104〜
嘉承 かじょう 1106〜
天仁 てんにん 1108〜
天永 てんえい 1110〜
永久 えいきゅう 1113〜
元永 げんえい 1118〜
保安 ほうあん 1120〜
天治 てんじ 1124〜
大治 だいじ 1126〜
天承 てんしょう 1131〜
長承 ちょうしょう 1132〜
保延 ほうえん 1135〜
永治 えいじ 1141〜
康治 こうじ 1142〜
天養 てんよう 1144〜
久安 きゅうあん 1145〜
仁平 にんびょう 1151〜
久寿 きゅうじゅ 1154〜
保元 ほうげん 1156〜
平治 へいじ 1159〜
永暦 えいりゃく 1160〜
応保 おうほ 1161〜
長寛 ちょうかん 1163〜
永万 えいまん 1165〜
仁安 にんあん 1166〜
嘉応 かおう 1169〜
承安 じょうあん 1171〜
安元 あんげん 1175〜
治承 じしょう 1177〜
養和 ようわ 1181〜
寿永 じゅえい 1182〜
元暦 げんりゃく 1184〜
文治 ぶんじ 1185〜
建久 けんきゅう 1190〜
正治 しょうじ 1199〜
建仁 けんにん 1201〜
元久 げんきゅう 1204〜
建永 けんえい 1206〜
承元 じょうげん 1207〜
建暦 けんりゃく 1211〜
建保 けんぽ 1213〜
承久 じょうきゅう 1219〜
貞応 じょうおう 1222〜
元仁 げんにん 1224〜
嘉禄 かろく 1225〜
安貞 あんてい 1227〜
寛喜 かんぎ 1229〜
貞永 じょうえい 1232〜
天福 てんぷく 1233〜
文暦 ぶんりゃく 1234〜
嘉禎 かてい 1235〜
暦仁 りゃくにん 1238〜
延応 えんおう 1239〜
仁治 にんじ 1240〜
寛元 かんげん 1243〜
宝治 ほうじ 1247〜
建長 けんちょう 1249〜
康元 こうげん 1256〜
正嘉 しょうか 1257〜
正元 しょうげん 1259〜
文応 ぶんおう 1260〜
弘長 こうちょう 1261〜
文永 ぶんえい 1264〜
建治 けんじ 1275〜
弘安 こうあん 1278〜
正応 しょうおう 1288〜
永仁 えいにん 1293〜
正安 しょうあん 1299〜
乾元 けんげん 1302〜
嘉元 かげん 1303〜
徳治 とくじ 1306〜
延慶 えんきょう 1308〜
応長 おうちょう 1311〜
正和 しょうわ 1312〜
文保 ぶんぽ 1317〜
元応 げんおう 1319〜
元亨 げんこう 1321〜
正中 しょうちゅう 1324〜
嘉暦 かりゃく 1326〜
元徳 げんとく 1329〜
元徳(南朝) げんとく 1331〜
正慶(北朝) しょうきょう 1332〜
建武(北朝) けんむ 1334〜
暦応(北朝) りゃくおう 1338〜
康永(北朝) こうえい 1342〜
貞和(北朝) じょうわ 1345〜
観応(北朝) かんおう 1350〜
文和(北朝) ぶんな 1352〜
延文(北朝) えんぶん 1356〜
康安(北朝) こうあん 1361〜
貞治(北朝) じょうじ 1362〜
応安(北朝) おうあん 1368〜
永和(北朝) えいわ 1375〜
康暦(北朝) こうりゃく 1379〜
永徳(北朝) えいとく 1381〜
至徳(北朝) しとく 1384〜
嘉慶(北朝) かきょう 1387〜
康応(北朝) こうおう 1389〜
明徳(北朝) めいとく 1390〜
応永(北朝) おうえい 1394〜
正長 しょうちょう 1428〜
永享 えいきょう 1429〜
嘉吉 かきつ 1441〜
文安 ぶんあん 1444〜
宝徳 ほうとく 1449〜
享徳 きょうとく 1452〜
康生 こうしょう 1455〜
長禄 ちょうろく 1457〜
寛正 かんしょう 1460〜
文正 ぶんしょう 1466〜
応仁 おうにん 1467〜
文明 ぶんめい 1469〜
長享 ちょうきょう 1487〜
延徳 えんとく 1489〜
明応 めいおう 1492〜
文亀 ぶんき 1501〜
永正 えいしょう 1504〜
大永 たいえい 1521〜
享禄 きょうろく 1528〜
天文 てんぶん 1532〜
弘治 こうじ 1555〜
永禄 えいろく 1558〜
元亀 げんき 1570〜
天正 てんしょう 1573〜
文禄 ぶんろく 1592〜
慶長 けいちょう 1596〜
元和 げんな 1615〜
寛永 かんえい 1624〜
正保 しょうほ 1644〜
慶安 けいあん 1648〜
承応 じょうおう 1652〜
明暦 めいれき 1655〜
万治 まんじ 1658〜
寛文 かんぶん 1661〜
延宝 えんぽう 1673〜
天和 てんな 1681〜
貞享 じょうきょう 1684〜
元禄 げんろく 1688〜
宝永 ほうえい 1704〜
正徳 しょうとく 1711〜
享保 きょうほう 1716〜
元文 げんぶん 1736〜
寛保 かんぽう 1741〜
延享 えんきょう 1744〜
寛延 かんえん 1748〜
宝暦 ほうれき 1751〜
明和 めいわ 1764〜
安永 あんえい 1772〜
天明 てんめい 1781〜
寛政 かんせい 1789〜
享和 きょうわ 1801〜
文化 ぶんか 1804〜
文政 ぶんせい 1818〜
天保 てんぽう 1830〜
弘化 こうか 1844〜
嘉永 かえい 1848〜
安政 あんせい 1854〜
万延 まんえん 1860〜
文久 ぶんきゅう 1861〜
元治 げんじ 1864〜
慶応 けいおう 1865〜
明治 めいじ 1868〜
大正 たいしょう 1912〜
昭和 しょうわ 1926〜
平成 へいせい 1989〜


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:ノストラダムス予言(1900,90,9,7の月) :2005/9/12(月):

案内 
翻訳 
原稿 http://blogs.yahoo.co.jp/poleshift1958/10778266.html

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ノストルダムスは1999年7月といったのだろうか
問題の予言詩を見よう

1999 7番目の月 (L'mil neuf cent nonante neuf sept mois)
天から恐怖の大王が降りてくるだろう
アンゴルモアの大王が復活するだろう
火星を前後して幸福に支配するだろう
第1行目には審判の日であり2,3行目には2人の大王の出現、4行目は審判の後の世界についてだということがわかる
ノストラダムス自身のフランス語の原文ではL'mil neuf cent nonante neufとなっているが多くの研究者はこれを1999年と訳している
もちろんそうだとするとこの予言は間違っていたことになる

問題の箇所だがフランス語では99は40×2+10(quatre vingts dix neuf)という表記の仕方をする
また、neufという単語は「9」という意味以外に「新しい」という意味もある
1行目を日本語的に正確に書けば「1900,90,9,7の月」という意味なる
ここでノストラダムスがこのように誰にでもわかるような確実な表記を使わなかった理由は何なのかを知る必要がある

ノストラダムス自身息子のシーザーにあてた手紙の中に次のように書いている
私は世の中の不義のために、口をつぐんで私の著作をあきらめようとした
私がこれから迫り来る出来事を明確に書けば現在権力のある人たちや宗教指導者は、彼らが信じているものとあまりにも違うと責めるだろう
私はそのまま記録することができず秘密めいた謎のように書くしかなかった
また将来起こることが人々を驚かせたり怒らせたりしないようあいまいに記した
学者や賢人、権力者には理解できず、平凡で謙遜な人々が理解できるようにした
そして神から予言的な直観力を受けた預言者にもわかるだろう

易学の象数原理によると9と7は分裂の最終段階を表す数である
9は分裂作用の終わりを示し7は分裂の最終段階での火の気運の作用を表す数である
すなわちこの1節は1999年7月を指すのではなく、成長過程=先天を閉じる直前まで続く人類文明と大自然の「分裂の最終段階」を示したものである

次に2行目の恐怖の大王とは何かを考える
これは東洋の循環法則によって理解できる
恐怖の大王というのは宇宙1年において先天=夏の時代から後天=秋の時代に移るとき宇宙の秋殺の気運に乗ってやってくる「審判の主宰者」を意味する
即ち天地に満ちている夏の火の気運が秋殺の気運に変わるとき人間の魂を捉えていく開闢の最高責任者のことである
即ち地上の不浄な人間と魂の掃除をする権能者である

それでは救済をするのは誰なのか
これは3行目のアンゴルモアの大王であるがこれはノストルダムスがよくする手法でモンゴリアMongolias の順序を変えてAngolmoisとしたのである
モンゴリアは黄色人種を表すが特に東洋人を指すことが分かる
アンゴルモア族とは人類救済の主宰者の出る民族を意味する

4行目の解釈であるが火星は戦争や艱難を意味する
これは現在世界各地で起こっている戦争や艱難を意味する

しかしノストルダムス研究の第一人者であるアメリカのジョンホーグ氏は世紀末以前に生じ全世界に花咲く新しい宗教に対する肯定的意見を述べている
彼は現在のキリスト、イスラム、ユダヤ、仏、ヒンズー教とは次元の異なる新しい宗教の出現をはっきり予言している


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:西暦:

案内 
翻訳 
原稿 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9A%A6

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西暦(せいれき)とは、イエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である
欧文表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語のA.D.又はADが使われる
A.D.又ADとはアンノドミニ (Anno Domini) の略である
アンノドミニとは、キリスト教で「イエス・キリスト」が君臨する時代と言う意味
今年は2013年 (UTC) である
19世紀ごろからキリスト教国家を中心に、世界で最も広く使われている紀年法である

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目次

1 歴史
 1.1 誕生
 1.2 受容
 1.3 正教圏
2 西暦元年とイエス生年のズレ
3 紀元前
4 表記
5 中立的な表現
6 西暦と各国の紀年法の関係
 6.1 日本
 6.2 中国
7 日本語の過去の用法
8 出典・脚注
9 関連項目

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歴史

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誕生

西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された
525年、ディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世の委託を受けてキリスト教の移動祝日である復活祭の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位を紀元とする)に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した
これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その名を残す事を嫌ったからである

聖書の記述によると、イエスが復活した日はユダヤ教の過越の祭り(春分の頃の最初の満月の日)の前日から三日目の日曜日(主日)であり、伝承では「ユダヤ暦でニサンの月の14日」(ユリウス暦の3月25日)とされていた
ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した
そこで、ここから復活祭(過越の祭りと同日)の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、イエスの復活した年を求め、その時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、更に31年遡った年がイエスの生誕年に当たるとした
これにより「ディオクレティアヌス紀元248年=キリスト紀元532年」として復活祭暦表に記載した
532年から記載されたのは、改定前の復活祭暦表にはディオクレティアヌス紀元247年までの復活祭が記載されていた為である

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受容

西暦1年から531年までは概念上の存在であり、実際の紀年法として使用されたことはない
その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、10世紀頃にようやく一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降のことであるという

西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである

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正教圏

東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元
(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準
西暦紀元前5508年を元年とする)
が使用されていた
現在も正教会の幾つかの教会で使用されている
西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である

また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた
現在でもアトス山、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会などがユリウス暦を使用している
他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁、ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している

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西暦元年とイエス生年のズレ

ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれている
現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えられている
これは、新約聖書の2つの記述 「大規模な人口調査が行われた年にイエスがベツレヘムで誕生した」という記述がルカ福音書2章にあり、人口調査は紀元前4年に行われたとされている
「救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ二歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した」という記述がマタイ福音書2章にある

が根拠となっている

これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年と確定しているので、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている
(史的イエス#十字架での生年と没年も参照)

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紀元前

詳細は「紀元前」を参照

西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う
これは17世紀フランスの神学者ドニ・プト(フランス語版)による案で、18世紀末になってようやく一般化した

日本では、通常「紀元前××××年」と言う
日本での欧文表記は、英語の“Before Christ”の略であるB.C.又はBCである

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表記

日本では西暦年での表記が増えており、「2013年」、あるいは下2桁のみで「13年」と表記する事が多い
元号と区別する為には、「西暦2013年」と、「西暦」を年の前に付ける
「西暦+下2桁」(例えば、西暦13年)とは書かない(詳しくは#西暦と各国の紀年法を参照)

キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する
「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、明治期から太平洋戦争終了までは神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた

英語では、2013または13と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD 2013" と書く
紀元前ならば "123 BC" と書く

英語のADは、ラテン語の Anno Domini(主(イエス・キリスト)の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない[1]
たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味するApres Jesus-Christ / Avant Jesus-Christ(を略したもの)を使う

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中立的な表現

キリスト教に基づく表現であるAnno Domini、Before Christを、より中立的に、たとえば英語ではCommon Era、 Before Common Eraと言い換える動きも見られる
あえて日本語に訳せば「共通年代前」などとなる
背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダードになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある

たとえば、Unicode Standard ではceとbceを使っている

一方で、キリスト紀元であることには変わりがないのだから言い換えたところで同じである、キリスト紀元を common と言い切ることは傲慢である、キリスト教の産物を無自覚のうちに使わされてしまう、などの反論もある
これらの立場の者の中には、西暦を Christian Era(略号では同じ C.E.)と呼ぶ者もいる
とはいえ、キリスト教暦は教派によって異なるので必ずしも適切であるとは言えない

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西暦と各国の紀年法の関係

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日本

日本においては西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で明治5年(1872年)に天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まってから(経緯の詳細は「グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入」参照)のことであり、日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである

日本の公の機関が作成する公文書における年の表記には、元号法制定時の政府見解[2]にも拘らず、基本的に元号のみが用いられており、西暦による記載はほぼ排斥されている
元号法は元号の制定手続きを定めているが、「政府機関は元号を用いねばならない」とは定められていない[3]
許認可の証明書(発行日、有効期限など)、法令、判例でも、全て元号のみに統一されており、西暦による記載は行われていない

ただし、気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示の一部のように、西暦を使用する法令も存在する
また一部の白書は、西暦主体の表記となっている

今日の日常生活では、元号よりも西暦を使うか、元号を用いる際にも「嘉永3年(1850年)」「明治23年(1890年)」「大正9年(1920年)」「昭和15年(1940年)」「平成12年(2000年)」のように西暦と併記することが格段に増えている
主要なマスメディア(新聞・テレビ等)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している
インターネットにおいても、元号より西暦が使用されるケースの方が多い

西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元(皇紀、神武紀元)が存在する
明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀もよく用いられたが、現在では殆ど使用されていない
但し、現在でも有効である閏年の置き方に関する勅令(閏年ニ関スル件、明治31年5月11日勅令第90号)では、神武天皇即位紀元が使用されている

西暦に対応して元号のことを和暦のほかに、邦暦と呼ぶこともある[4]

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中国

中華民国では、辛亥革命勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元(中華民国暦)を採用した
中華民国では宣統の次の元号のように「民国」という表記で扱われている
中華民国が台湾に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公式に使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている

1949年10月に成立した中華人民共和国では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている
歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)

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日本語の過去の用法

この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、キリスト紀元(基督紀元)や西洋紀元ともいい、また西洋紀元を略して西紀(せいき)とも呼ばれる
元来[いつ?]、「西暦」は西洋の暦法であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦)を指しており、「西紀」が西洋の紀年法であるキリスト紀元というように分けて指していたが、後に混同され、現在では「西洋の暦法」「西洋紀元」が一緒に「西暦」と呼ばれている

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出典・脚注

1.^ たとえばウィクショナリー「AD」(英語版)を参照
2.^ 元号法案(趣旨説明)での答弁 参議院会議録情報 第087回国会 本会議 第13号、1979年(昭和54年)4月27日
3.^ 一方で西暦には元号法のような法律規定は存在しない
4.^ 邦暦の使用例 新潟県庁:新潟県の教育統計:図説「新潟県教育20世紀のあゆみ」:教育史年表(教育法制・教育改革)

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関連項目

グレゴリオ暦
紀元
紀元前
クリスマス
コンプトゥス
元号
世紀
年表


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====参考文献終わり====



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