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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

「天」太陽の投稿記事

『終末と太陽の検証』より

予言と予言の検証 NO n110002

−−−−コメント 2012/04/18−−−−

{新11_予言と予言の検証_総論_天文解読_天動説と地動説_01}
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0546・世界の終わりから逃れたい:その時期は?:天動説と地動説:希なる宿に集まる:
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過日、夜空で次ぎのような直列配列の現象があった

2012年03月26日:金星−月−木星:直列配列
2012年03月27日:月−金星−木星:直列配列

この夜空の星を見つめながら、「しまった〜」と思った
何故に「しまった〜」と思ったかというと、予言では 星の配列・特定の位置に入るなどの表現があるとき、太陽系の地動説による配列を疑いもなく考える
しかし、現代の予言を除いて、そのほとんどは 天動説の時代に記述されている
加えて、1830年代に天王星が発見されるまで、人々の認識は 太陽、月、水星、金星地球、火星、土星、木星の8個で、太陽は別格で惑星的には 7星しかないのである
この7星も、内惑星は 水星と金星の2星で、外惑星は 火星と木星と土星の3星、である
今まで、現代の天文学での、水・金・地・火・木・土・天・海・冥の9星で黄道面上を公転することを前提にして解読の検討をしていたが、その内容からは 必要な時期が算出できても今までの実績的にはヒットしていない
もしかしたら、地上から見た、特殊な配列を考えなければならないのかもしれない
例えば、
2012年03月26日:地上から夜空を見上げると「金星−月−木星:直列配列」に見える
しかし、地上から見たからで、地動説的な惑星の黄道面での配列を見ると「金星−月−木星:直列配列」とはならないのである
望遠鏡でガリレオが星を見て地動説を確信して「宗教裁判」にかけられ、「それでも地球は動く」と言ったのは ノストラダムスが諸世紀を書いて以後にガリレオが生まれたわけである
したがって、地上から見た惑星の配列なのか、黄道面の公転の配置から見たのか、では まるで別のものとるのであるから、諸世紀の記述は 地動説の無い時代とある時代から考えると、天動説的な考察をしなければならないことがわかるのである

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少し予言的に月蔵経の中の記述について考察してみよう

{・・・・・
また28宿の星座、星宿の運行が狂う
妖星・彗星が現れたり、五星(水・金・地・火・木・土)に異変がおこり・・
・・・・・・}

このところの妖星・彗星とは 噂の惑星Xと考えればそれなりに合点がいく
次に問題となるのが、28宿で表す夜空の星々の位置、惑星どの運行が狂い始めるとすれば、これも容易に理解できる
重要なのは 五星(水・金・地・火・木・土)である
この五星とは 1830年台以後に天王星・海王星・冥王星などの外惑星は望遠鏡の発達したガリレオ没後のことであるから、地上から夜空を見ることによってのみ確認できる水準であることに気づくと思うのである
そうすると、今まで、五星(水・金・地・火・木・土)の黄道面の公転位置における直列の配列と考えていたが、そうではなく、地上から見ると、地球を除く五星(水・金・火・木・土)の配置を指摘していることになる
これらの地上の夜空で何方も五星(水・金・火・木・土)をいずれかの宿に集合するのを見ることができなければならいことにる
特に問題なのは 内惑星の水星と金星が一つの宿・明けの明星または宵の明星として同じ宿・位置にいなければならないことを意味していて、これだけでもまれなる配列ということになる
加えて、火星と木星と土星の3外惑星が、一つの宿・明けの明星または宵の明星の仲間に加わらなければならないと言うきわめて希配列にならなければならないことである
わかりやすく説明する
惑星の直列を終末の天兆と一般に考えるし、そのように検討してきた
しかし、5星が同じ宿に集まる異変であるから、地球から夜空をみて一カ所に直列的に見えることを条件にしていることがわかる
地球から見た組み合わせを見ると次のようになる

地球−月−金星−水星−火星−木星−土星
地球−月−金星−水星−火星−土星−木星
地球−月−金星−水星−土星−火星−木星
地球−月−金星−水星−土星−木星−火星
地球−月−金星−水星−木星−火星−土星
地球−月−金星−水星−木星−土星−火星

地球−月−水星−金星−火星−木星−土星
地球−月−水星−金星−火星−土星−木星
地球−月−水星−金星−土星−火星−木星
地球−月−水星−金星−土星−木星−火星
地球−月−水星−金星−木星−火星−土星
地球−月−水星−金星−木星−土星−火星

以上の組み合わせのポイントは 金星と水星が同じ宿・位置で、宵の明星か明けの明星にならなければならない希な位置と角度の関係になければらないことである
当然、五星が全て同じ宿に集まるのであるから、この宵の明星か明けの明星を作る角度の範囲内の地球から見た角度の中に角度的に集まるこを必要条件とする
この条件を満たす五星の配置をみれば解るが、いわゆる直列配列にならない
水星−金星−地球−月−火星−木星−土星
しかし、地上から見ると、この5星は 同じ宿・位置に直列例えば「月−金星−水星−火星−木星−土星」の様に直列配列に見えることである

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検討した配列・28宿のどれかの宿に集合して見えるのは 『月蔵経』の『法滅儘品(ほうめつじんぽん)と『仁王経(にんのうきょう)』の記述と関係があると考えられるので、その内容の一部を下記に案内する
この内容は 我々の説明する「ノアの大洪水」の事前の現象とその時の様子を示していることが解ると思う
蛇足だが、仁王経には 「仁王経に曰く『 大王、吾が今化するところの百億須弥、百億の日月、・・・」の説明がある
この大王とは日月神示の「弥勒」を意味していて、今化(ごんげ)は現れるの意であるから、百億須弥・諸々の天・幾百億の宇宙の文明を率いることを指摘している
ここにも、この宇宙には 数え切れないくらいの種族の文明があることを指摘していることが解ると思う
『その時虚空に大音響(オグミオン)が鳴り響き、大地震が起こり(破断音オグミオンの後の滑り回転に伴う振動)、あらゆるものは水車のように回り動いて(地球の表面が極移動のために回転を開始し海水は反動で回転海流となりあらゆるものは 回転する動きに翻弄される)崩壊するだろう』
−−−
『月蔵経』の『法滅儘品(ほうめつじんぽん)』

『その時虚空に大音響が鳴り響き、大地震が起こり、あらゆるものは水車のように回り動いて崩壊するだろう
城壁(都市の建物)は崩れ落ち、人家はことごとく壊れ、−− 略−−大飢饉によって地球上の全ての生物は死滅するだろう
空より土が降り、昼は夜のように暗くなり、太陽も月も星も輝きを失い、再び現れることはないであろう−−−』
−−−
『仁王経(にんのうきょう)』

「仁王経に曰く『 大王、吾が今化するところの百億須弥、百億の日月、−−略−−日月度を失い、時節反逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重現ずるを、一の難とす也
二八宿度を失い、金星、彗星、輪星、鬼星、−−以下、略−−−」

(吾が宇宙には、100億の世界があり、各世界には日があり、月があり、須弥山があり、−−略−−その恐るべき七つの難とは、日月の運行が狂って寒暑の時節が逆になり、赤い日、黒い日が出たり、2、3、4、5、と日が並んで出たり、或いは蝕けて日に光がなくなり、あるいは、1、2、3、4、5と月が重なって現れる恐ろしい現象が生じるのが第一の難である
また28宿の星座、星宿の運行が狂う
妖星・彗星が現れたり、五星(水・金・地・火・木・土)に異変がおこり、−−以下、略−−)

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結論としては 今まで天動説的な見方を無視していた
そのために、地動説的な惑星の配列のみ検討していた
しかし、地動説的な惑星の配列のみで、時期を推算してもなかなかヒットしなかった
2012年03月26日:金星−月−木星:直列配列:を見ながら、地動説的には 直列配列になっていないのに、地上から見たその日の星は 宿に集まり大凡直列に見えたことに、考え落ちがあったことに気がついた

調べてみると、ノストラダムスの「諸世紀」が書かれて、ノストラダムスが亡くなり、その後に地動説で宗教裁判で有名なガリレオが生まれた
現代の人類は すぐに太陽系の惑星の公転軌道を考えるし、パソコンの軌道のシュミレ−タ−をロックさんが幾つも調査して知らせていただいたが、それらの全ては天動説的な軌道のシュミレ−タ−だった
どうやら、地球から見て、全ての惑星・5星は 太陽側に集まっている配列であることと、そのままだと太陽の陰に隠れて地上から見ることができないが、幾らか太陽の真後ろから出た位置・水星や金星の宵の明星明けの明星として夕方か明け方に視認できる位置まで移動していて、かつ火星・木星・土星も視認できる狭い角度の金星と水星の角度の位置に居ると言う天文学的にもきわめて希な配列になる条件を指摘していることになる

「ひふみ」には 「・・・宵の明星が東に現れる・・・」とあるが意味がわからなかったが、以上の気づきに原因があればそれは 「・・・宵の明星が明けの明星として現れる・・・」と指摘しているとになり、明けの明星側の宿に配列が集まることを指摘していることになる
それは 5星の全ての惑星が全て太陽側に集まり、太陽の引力に全ての惑星の力の蓄積が加わる形になりことを説明していることになる

とりあえず、これらの関係の再検討を開始しているが、かなり時間がかかりそうである
何か良い情報があれば連絡をお願いいします


===NO n110002:参考文献の目次===

001:ガリレオ・ガリレイ
002:天動説
003:地動説
004:7.月蔵経の予言:その1
005:釈迦の予言
006:ノストラダムスの預言と宗教の預言NO1:良い宇宙人と悪い宇宙人:NO1079
007:この世界は「 確定未来形 」である

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===NO n110002:参考文献の目次詳細===

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ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

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誕生
ユリウス暦1564年2月15日、イタリア トスカーナ大公国領ピサ
死没
グレゴリオ暦1642年1月8日、イタリア フィレンツェ郊外アルチェトリ
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国籍
イタリア
学問
研究分野
天文学、物理学、哲学
研究機関
ピサ大学、パドヴァ大学
母校
ピサ大学(中退)
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主な業績

天体観測に望遠鏡を導入
地動説への言及
木星の衛星の発見
金星の満ち欠け及び大きさの変化を発見
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署名
テンプレートを表示 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)はイタリアの物理学者、天文学者、哲学者である
パドヴァ大学教授
その業績から天文学の父と称され、フランシス・ベーコンとともに科学的手法の開拓者としても知られる
1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた
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目次
1 生涯
1.1 名前
1.2 家族と生い立ち
1.3 年譜
2 業績
2.1 天文学
2.2 物理学
2.3 科学革命
2.4 有名な失敗
2.5 その他の主な業績
3 ガリレオ裁判
3.1 第1回の裁判
3.2 第2回の裁判
3.3 裁判以後
3.4 裁判の影響
3.5 裁判の検証
3.6 ローマ教皇庁の対応
4 後世の文学への影響
5 主な著書
6 脚注
7 文献
7.1 参考文献
7.2 伝記・研究文献
8 関連項目
9 外部リンク
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生涯
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名前

トスカナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある
ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名づけられたのも長男ゆえと考えられる[1]
イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名で呼ぶ習慣がある(他にも、ダンテ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、等)ため、名である「ガリレオ」と呼称されることが多い
ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[2]
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家族と生い立ち

ガリレオの父は1520年フィレンツェ生まれの音楽家ヴィンチェンツォ・ガリレイ (Vincenzo Galilei) で、彼は呉服商もいとなんでいた
母はペーシャ生まれのジュリア・アンマンナーティ (Giulia Ammannati)
2人は1563年に結婚し、翌年イタリアのトスカーナ大公国領ピサで長男ガリレオが生まれる
この後、ガリレオには弟4人、妹2人が出来た
1591年に父が死んでからは、家族の扶養や妹の持参金の支払いはガリレオの肩に掛かることになる[3][4]
マリナ・ガンバ (Marina Gamba) との間に2女1男をもうけた
ガリレオは敬虔なローマ・カトリック教徒であったが、家柄が違いすぎたため正式な結婚はしなかった
娘のヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei 、1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia 、1601年 - 1659年)は幼くしてアルチェトリの聖マッテオ修道院に送られた
ヴィルジニアは1616年修道女になりマリア・チェレステ (Maria Celeste) と改名した
マリア・チェレステ尼は父ガリレオに多くの手紙を送り、124通が残っている
リヴィアは1617年修道女になりアルカンジェラと改名した
息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio 、1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ (Sestilia Bocchineri) と結婚した
1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学
1582年ごろからトスカナ宮廷付きの数学者オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する
1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた
1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた
この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている
ガリレオは、科学分野で実験結果を数学的に分析するという画期的手法で高く評価されている
彼以前にはこのような手法はヨーロッパには無かった
さらにガリレオは科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することに寄与し、「科学の父」と呼ばれることになる
しかしそれゆえに敵を増やし、異端審問で地動説を捨てることを宣誓させられ、軟禁状態での生活を送ることになる
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年譜

1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)
1585年 ピサ大学退学
家族でフィレンツェに移住
1586年 最初の論文『小天秤』を発表
1587年 初めてローマを訪問
当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う
1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)
1591年 父ヴィンチェンツォ死去
1592年 ピサ大学の職が任期切れになる
(ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される)
ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住
この頃、落体の研究を行ったとされる
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す
1599年 パドヴァ大学教授に再任
この頃、マリナ・ガンバと結婚
2女1男をもうける
(1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる)
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)
(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争)
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去
ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作
以後天体観測を行う
1610年 木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける
これを『星界の報告』として出版、発表する
この頃から、地動説へ言及することが多くなる
(ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する)
ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る
1611年 リンチェイ・アカデミー入会
1613年 『太陽黒点論』を刊行
1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる
1613年頃 2人の娘を修道院に入れる
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける
コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる
1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される
1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む
1632年 『天文対話』をフィレンツェで刊行
ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く
1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)
シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される
アルチェトリの別荘へ戻ることを許される
(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)
1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)
1637年 片目を失明
翌年、両眼を失明
以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる
1638年 オランダで『新科学対話』を発刊
口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った
晩年 振り子時計を発明
図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる
1642年 アルチェトリにて没
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業績

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天文学
ガリレオのものとされる望遠鏡のレプリカ(グリフィス天文台)
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた[5]
これを用いて1609年月に望遠鏡を向けてみたガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた[6])があることを発見した
現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている
月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった[7]
また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見
その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている
これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius )として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)
この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)
そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した
晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった
金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した
当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、大きさは決して変化しないはずであった[8]
さらに、望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人となった
ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽黒点を観測していた可能性もある
形や位置を変える黒点は、天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れないとする天動説には不利な証拠になった
これは、アリストテレス派の研究者と激しい議論となった
なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡で太陽を直接見たためだと考えられている[要出典]
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中で既に地動説を信じていると記している[9]が、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった
主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった
その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した[10]
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物理学

ピサの大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている
ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である
この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった
ガリレオはまた、落体の法則を発見した
この法則は主に2つからなる
1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである
2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである
この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている
この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い[11]
このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる
よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である
斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである
この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった
ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている[12]
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科学革命

ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である
ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている
また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)
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有名な失敗

彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある
同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった
ここでは主なものをあげる
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている
その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった
ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった[13]
地動説の証拠として潮汐をあげた
実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった
ガリレオ自身は潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった
もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる
ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した
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その他の主な業績

「小天秤」
幾何学的・軍事的コンパス
関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた
また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた
ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた[14]
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ガリレオ裁判

ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である
このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた
しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている[要出典]
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第1回の裁判

ガリレオが地動説について言及しはじめると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた
この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿(Francesco Romulo Roberto Bellarmino )だった
ベラルミーノはガリレオをフィレンツェからローマに呼び出した上で無罪の判決を下し、署名入りの判決文をガリレオに手渡した[15]
教会の布告は教会の敷地内でのみ有効であるという解釈だった
ただしこれは文字通りの意味ではない
神や天地創造と地動説を結び付ける発言をしなければ問題はない、という意味である
ベラルミーノはこの直後、他人を刺激するような言動は控えたほうがよいと、友人として忠告した

この直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、
天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された
ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた
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第2回の裁判

1630年、ガリレオは、地動説の解説書、『天文対話』を執筆した
この書は、天動説と地動説の両方を、あくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人による対話という形をとり、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書かれていた
ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた[16]
『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された

翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた
被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった[17]
ガリレオが、あえてこの書をローマではなく、フィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが、事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた
ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており[18]、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は、正規のフィレンツェの異端審問官であった
さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた
ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった[19]

裁判で、ガリレオはベラルミーノ枢機卿の無罪の判決文を提出して反論した
しかし、検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した
この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった[20]
しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた判決文は無効とされた
第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった[21]
この結果、ガリレオは有罪となった
検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオの持つ無罪の判決文には教えることの是非についての記載はなかった[22]
裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた
ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている[23]
1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった[24]

1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿 (Maffeo Vincenzo Barberini) がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった
一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある[25]
この説には物証がないが、当時から広く信じられている
さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した事も、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる
そして結果的にはガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながっている

1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない
残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった
もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている
ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている[26]
なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった[27]

有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた[28]
その後につぶやいたとされる"E pur si muove"(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言した事実は無いと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らによって後付けで加えられた説が有力である[29][30]
また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言ったという説もある
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裁判以後

ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった[31]
しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた
すべての役職は判決と同時に剥奪された
『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった[32]

死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった
ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した
しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた[33]
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裁判の影響

この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された

フランスのルネ・デカルトは、ガリレオ裁判の報が、自然科学に関する自説の出版をためらわせたことを『方法序説』(1637年刊)に記している

当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった
ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある
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裁判の検証

この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた[34]
第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること
第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである

Giorgio di Santillana らによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった
もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている[35]
ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある

このほか、次のような説もある
1. そもそも、1616年の裁判は存在しない
これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている
この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった
その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という[36]
2. 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)
ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない
また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない
3. 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった
しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった
ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた[37]
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ローマ教皇庁の対応

1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった[38]
最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した
ガリレオの死去から実に350年後のことである[39]
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマト大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った
2008年1月16日の毎日新聞によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、90年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった
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なお、その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている[40]
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後世の文学への影響

ドイツの作家ベルト・ブレヒトは1947年に、戯曲『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫)を書いている
『戯曲ガリレオ 英語版』(笠啓一訳、績文堂出版、2009年)もある
 イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(邦訳みすず書房刊)や『カルヴィーノの文学講義』(邦訳朝日新聞社刊)などにおいてガリレオを文人(詩人)としてとらえ、その文体を賞賛している
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主な著書

『星界の報告』(1610年)
 山田慶兒・谷泰訳、岩波文庫
『太陽黒点論』(1613年)
 同上、訳名は「太陽黒点にかんする第二書簡」
『贋金鑑識官』(1623年)
 山田慶兒・谷泰訳、『世界の名著 ガリレオ』中央公論社/新版中公クラシックス、2009年
『天文対話』もしくは『二大世界体系にかんする対話』(1632年)
 青木靖三訳、岩波文庫(上下)
『新科学対話』(1638年)
 『静力学について ガリレオ・ガリレイの「二つの新科学対話」』 加藤勉訳、鹿島出版会、2007年
『レ・メカニケ』(執筆:1599年頃、仏訳出版:1634年、原本出版:1649年)
豊田利幸解説・訳、『世界の名著 ガリレオ』中央公論社
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脚注
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[ヘルプ]
1.^ 佐藤 (2000) p78
2.^ シーア、アルティガス (2005) p3
3.^ マクラクラン (2007) p24
4.^ 青木 (1965) p24
5.^ マクラクラン (2007) p54
6.^ この黒い部分は現在でも“月の海”(lunar mare 、mareは“海”を意味するラテン語)と呼ばれている
ヨハネス・ケプラーも同様の考えを持っており、最初にmareと命名した
7.^ マクラクラン (2007) p61
8.^ マクラクラン (2007) pp.62-63
9.^ 青木 (1965) p42
10.^ マクラクラン (2007) p51など
11.^ ファントリ (2010) p61によれば、現代の伝記作者の多くは、この実験は伝説だと考えているが、ドレイクは真実だとしているという
また、佐藤 (2000) は、ガリレオがピサ大学時代に行った、ということにしている
マクラクラン (2007) は、『新科学対話』の記述から、少なくとも1回は実験を行ったと述べている
一方、この実験が行われていないという主張を広めたのはアレクサンドル・コイレである(コイレ (1988) pp.466-467)
青木(1965) pp.20-22も、ヴィヴィアーニの記述は真実ではないとしている
12.^ マクラクラン (2007) pp.26-27
13.^ シーア、アルティガス (2005) p74
14.^ マクラクラン (2007) pp.32-33
15.^ ファントリ (2010) pp.229-230
16.^ ファントリ (2010) pp.337-338,343
17.^ 青木 (1965) p160
18.^ ファントリ (2010) pp.340-341
19.^ シーア、アルティガス (2005) pp.217-218
20.^ マクラクラン (2007) p116
21.^ 青木 (1965) p160
22.^ 青木 (1965) p165
23.^ シーア、アルティガス (2005) p245
24.^ ファントリ (2010) p423
25.^ シーア、アルティガス (2005) pp.189-190
26.^ シーア、アルティガス (2005) p255
27.^ ファントリ (2010) p481
28.^ ファントリ (2010) p450
29.^ 佐藤 (2000) p99
30.^ シーア、アルティガス (2005) p257
31.^ シーア、アルティガス (2005) p257
32.^ ファントリ (2010) pp.499-500
33.^ シーア、アルティガス (2005) p264
34.^ ファントリ (2010) p222
35.^ ファントリ (2010) p222,259,260によれば、偽造したものだと唱える人物として、ヴォールヴィル(Wohlwill)やベレッタ(Beretta)がいる
ファントリ自身は、この文書は真正なものだとしている
36.^ ファントリ (2010) pp.229-231
37.^ ファントリ (2010) p222
38.^ ファントリ (2010) p506
39.^ マクラクラン (2007) pp.143-144
40.^ 当該説教の日本語翻訳文がカトリック中央協議会、教皇関連ページの教皇ベネディクト十六世の2008年12月21日の「お告げの祈り」のことばに掲載されている
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文献

参考文献
青木靖三 『ガリレオ・ガリレイ』 岩波新書、1965年
ISBN 4000038621
佐藤満彦 『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿』 中公新書、2000年
ISBN 978-4121015488
W・シーア、M・アルティガス 『ローマのガリレオ 天才の栄光と破滅』 浜林正夫、柴田知薫子訳、大月書店、2005年
ISBN 4272440322
アンニバレ・ファントリ 『ガリレオ コペルニクス説のために、教会のために』 大谷啓治監修、須藤和夫訳、みすず書房、2010年
ISBN 4622075121
ジェームズ・マクラクラン 『ガリレオ・ガリレイ 宗教と科学のはざまで(オックスフォード科学の肖像)』 野本陽代訳、大月書店、2007年
ISBN 978-4272440436
『学習漫画 世界の伝記 〔26〕 ガリレオ・ガリレイ』 集英社、1992年
ISBN 9784082400262
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伝記・研究文献

『ガリレオの弁明』 トンマーゾ・カンパネッラ、澤井繁男訳、ちくま学芸文庫 2002年
『ガリレオの生涯』<全3巻> スティルマン・ドレイク、田中一郎訳
共立出版、1984-85年 ISBN 4320008189, ISBN 4320008197, ISBN 4320008200 『ガリレオ 庇護者たちの網のなかで』 田中一郎、中公新書 1995年 ISBN 412101250X
『ガリレオの迷宮 自然は数学の言語で書かれているか?』
高橋憲一、共立出版、2006年 ISBN 4320005694 『人類の知的遺産31 ガリレオ』 伊東俊太郎編・解説
講談社 1985年 −著作の訳が一部ある
『ガリレオ研究』 アレクサンドル・コイレ、菅谷暁訳
叢書ウニベルシタス・法政大学出版局、1988年 『「知の再発見」双書140 ガリレオ はじめて「宇宙」を見た男』
ジャン=ピエール・モーリ、田中一郎監修、遠藤ゆかり訳 創元社、2008年  『ガリレオの娘 科学と信仰と愛についての父への手紙』
デーヴァ・ソベル 田中一郎監修、田中勝彦訳 DHC 2002年 ISBN 4887242646 『ガリレオの生涯』 アルフレッド・エンゲルベルトヴィッチ・シテクリ
松野武訳、東京図書 1977年、新版1986年
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関連項目

エヴァンジェリスタ・トリチェリ - 真空実験で有名、ガリレオの晩年の弟子である
ガリレオ・ガリレイ国際空港 - ガリレイの名を冠したピサの空港
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外部リンク




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天動説

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC

天動説の図
天動説(てんどうせつ)とは、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説で、コスモロジー(宇宙論)の1つの類型のこと
大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある
単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い
現在では間違いとされる
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目次

1 概要
2 天動説の歴史 2.1 エウドクソスの同心天球
2.2 アポロニウスの周転円
2.3 プトレマイオスの体系
2.4 プトレマイオス後の展開
2.5 ヨーロッパでの受容と展開
3 地動説
4 他文明と天動説
5 現代の宇宙観
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
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概要

2世紀にクラウディオス・プトレマイオスによって体系化された、地動説に対義する学説である
地球が宇宙の中心にあるという地球中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory) (=地球を中心とした構造模型)」の訳語として不適切だとの指摘もある
なお中国語では「地心説」という
後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される(しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観の全てが天動説であると誤解されることが多い)
13世紀から17世紀頃までは、カトリック教会公認の世界観だった

古代、多くの学者が宇宙の構造について考えを述べた
古代ギリシャでは、アリストテレスやエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは地球も太陽も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、原著は失われたが紀元前280年頃アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた(古代ギリシア以外の宇宙観については後述)
ガリレオ・ガリレイはコペルニクスの事を太陽中心説の発明者ではなく「埋もれていた仮設を復活させて確認した人」と書いている

それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのがプトレマイオスである
ヒッパルコスの説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない
地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、惑星の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的に全てを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、プトレマイオスの天動説とも呼ばれる

天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含め全ての天体は約1日かけて地球の周りを公転する
しかし、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた
天球という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含む全ての天体を包み込んでいる
恒星は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた
惑星や恒星は、神が見えない力で押して動いている
あらゆる変化は地球と月の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした

天動説は単なる天文学上の計算方法ではない
それには当時の哲学や思想が盛り込まれている
神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからである
地球は宇宙の中心であると共に、全ての天体の主人でもある
全ての天体は地球のしもべであり、主人に従う形で運動する
中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世キリスト教神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観と見なされていた
14世紀に発表されたダンテの叙事詩『神曲』天国篇においても、地球の周りを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた

更に天動説は、当時においては観測事実との整合性においても地動説より優位に立っていた
すなわち、もし地動説が本当であれば、恒星には年周視差が観測されるはずである
しかし、当時の技術ではそのようなものは見当たらなかった
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天動説の歴史

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エウドクソスの同心天球

紀元前4世紀、古代ギリシアのエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる
いちばん外側の天球には恒星が散りばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)
太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)
太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその南中高度が変わり、季節が説明される
恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた
地球から見て惑星は星座の中をゆっくりと動くように見える
これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、逆行といって一時期だけ逆に動くことがある
逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した
これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない
エウドクソスの同心天球はアリストテレスの宇宙像に組み入れられた
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アポロニウスの周転円

詳細は「従円と周転円」を参照

紀元前3世紀頃のアポロニウスあるいは紀元前2世紀のヒッパルコスは、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた
この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ
感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い
コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える
これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた

全ての惑星が同一平面上にある太陽を中心とした円軌道を等速運動しているのであれば、地球から見た惑星の運動は、円軌道と1つの周転円のみで記述することができるはずである
しかし、現実の惑星の運動はそのようにはなっておらず、惑星の運動を天動説で正確に記述するためにはより複雑な体系が必要になる
そのためヒッパルコス以降、プトレマイオスを始めとしてさまざまな天動説モデルが提唱され、最終的には地動説のコペルニクス、ケプラーを経てニュートンの万有引力の法則に基づく宇宙モデルに至ることになる
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プトレマイオスの体系

プトレマイオスによる惑星の運動
離心円の中心Xは地球の中心とは異なる
離心円の回転は、エカント点(・)から見る角速度が一定となるように動く
2世紀にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは周転円を取り入れつつ、離心円とエカント (equant) を導入、体系化した
恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)
周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている

図は比較的簡単な例であるが、これでも図示されている大きな離心円と小さな周転円のほかに、離心円の中心Xの運動、恒星球の日周運動、エカント点を中心とする角度など、この1つの惑星の運行に5つの動きが絡んでいる

プトレマイオスの体系では地球から惑星までの平均距離にほぼ相当する離心円の径をどう採っても、視方向が同じである周転円を作ることができる
とりあえず各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった
その外側を恒星球が取り囲む
この宇宙像は、エウドクソス、アリストテレスの同心天球の拡張形とも言える

プトレマイオスの体系は当時としては非常に優れたものであり、地球を中心と仮定して惑星や太陽の運動を説明するには、これ以上のものは無いと言ってもよい
仮に(そんな事はあり得ないが)太陽系の惑星の運動が全て円運動であったのなら、プトレマイオスの体系でほぼ完璧に説明ができたであろう
しかし後に明らかになる通り、実は惑星は太陽を焦点の1つとした楕円運動をしており、それ以降の天動説の発展は、楕円運動を円運動で説明せんがための発展であった
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プトレマイオス後の展開

プトレマイオスの体系をまとめた『アルマゲスト』は、中世イスラム世界を経て中世ヨーロッパへ引き継がれ、およそ1500年にわたって教科書的な権威を持ち続けた

一方、6世紀インドのアリヤバータ (Aryabhata) は太陽中心の地動説に基づいたと思われるいくつかの計算を残している
インドには古代ギリシアの天文学が入ってきており、その影響が指摘されている
彼の著作は8世紀にアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されている

8世紀にアッバース朝が建設した都バグダードは、ヘレニズム文明、文化の継承とインド文明などが出会う「るつぼ」であり、イスラム科学の中心地となった
9世紀頃シリア地方で活躍したバッターニーは、詳しい観測を行い、プトレマイオスの体系を継承発展させた

14世紀マムルーク朝のダマスカスに居たイブン・アル=シャーティル (Ibn al-Shatir) は、天動説の立場に立ちながらエカント点を排除する、コペルニクスと数学的にそっくりの系を考えた
円運動から直線往復運動を作り出す手法はシャーティルに先だって13世紀のナスィール・アル=ディーン・トゥースィー (Nasir al-Din Tusi) によって編み出されている(トゥースィーの対円、Tusi-couple)
彼らの業績がコペルニクスの説に影響を与えた可能性も指摘されているが、証拠は認められていない
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ヨーロッパでの受容と展開

十字軍遠征やイベリア半島におけるレコンキスタ、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした
11-13世紀にかけて、イスラム科学の成果はシチリア王国の首都パレルモ、カスティーリャ王国の首都トレドなどで精力的に研究され、翻訳が成された(→12世紀ルネサンス)
アリストテレスなど古代ギリシアの文献も、アラビア語訳からの重訳という形でヨーロッパにもたらされた
それまでのカトリック教会の神学はアウグスティヌスなどラテン教父による、ネオプラトニズムを基盤にしたものであった
1210年にパリの聖職者会議がアリストテレスを教えることを禁止するなど、新しく流入した知識を採り入れることに抵抗はあったものの、13世紀後半に活躍するアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスらにより、結局はアリストテレスの哲学はスコラ学の主流となる

プトレマイオスの体系も受け入れられて、13世紀にカスティーリャ王国のアルフォンソ10世のもとで編纂された『アルフォンソ天文表』は、その後の補正を受けながらも17世紀までヨーロッパで使われていた
15世紀のドイツでプトレマイオスなどの研究をしたレギオモンタヌス(ヨハン・ミューラー)の業績は、彼の死後1496年に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた
この頃になると、『アルマゲスト』もアラビア語からの重訳ではなく、ギリシア語原典に当たることができていた

16世紀のヨーロッパでニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた
コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であると共に、エカント点を排除して全ての運行を大小の等速円運動で記述した
しかしながらコペルニクスの説も、円運動を前提にしているという点においては、従来の天動説と同じであった
本当であれば楕円運動をしている惑星の運動を円運動で説明するために小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった
地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ(年周視差)が認められなかったことも、コペルニクスの説が直ちには受け入れられなかった理由である
コペルニクスの説を受け継いで、エラスムス・ラインホルトが、『プロイセン星表』を作成したが、周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、さらに計算を煩雑にしてしまった

ティコの太陽系

動かぬ地球を中心に、他の惑星を引き連れた太陽が回転する
コペルニクス説の影響を受けて、17世紀のティコ・ブラーエは、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた
ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える
プトレマイオスの体系でも太陽系というものが全く存在しなかった訳ではない
内惑星である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった
しかし外惑星は別扱いされた
内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む

プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた
この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる
しかし、ティコはこれらを同じにした
周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる
この系では太陽の回りを水星、金星が回る
さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する
しかし、元々 離心円の径 > 周転円の径 であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる
すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった
元のプトレマイオスの体系でも離心円同士は重なっていたのだから、周転円同士の重なりを回避するのは不自然な要請だったのかもしれない

16世紀にニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた
新星が観測されたことは、恒星の中にも変化が見つかったことになる
月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった
さらに、ティコ・ブラーエが彗星を観測し、この天体が月より遠方にあることを証明した
これは激しい論争を生んだ
多くは彗星を気象現象として考えようというものだった
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地動説

17世紀になって望遠鏡が発明され、天動説に不利な観測結果が次々ともたらされる
しかし当時は望遠鏡を錬金術師が使う非科学的な呪具であると考える者が多く、また依然として残る宗教的圧力によって天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった
天動説の優位性は、太陽の周りを地球が公転するなら月は軌道を保てずに飛んで行ってしまうであろうという批判に対し、当時の地動説が反証できなかった点にあった
しかし、1610年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を用いて木星に衛星があることを発見した
この発見により、天動説は木星の月が飛んでいってしまわない理由の説明に窮した
さらに、ヨハネス・ケプラーが惑星の運動は楕円運動であること(ケプラーの法則)を発見する
ケプラーの説は天動説やそれ以前の地動説モデルよりも遥かにシンプルに天体運行を説明でき、しかもケプラーの法則に基づくルドルフ星表の正確さが誰の目にも明らかになり議論は収束に向かった
恒星の年周視差が未だ観測できないという地動説モデルの弱点は、この大発見の前には些事でしかなかった

ニュートンは、ケプラーの法則を支持する慣性の概念を始めとした運動の法則、および万有引力の法則という普遍的な法則を導きだした
これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力及び月が飛ばされない理由に回答を与えた
さらに、惑星に限らず、石ころから恒星まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった
これらの圧倒的な功績によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった
慣性の概念と万有引力の法則は、太陽を全宇宙の中心とする旧来の地動説をも葬り去ることになった
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他文明と天動説

他文明において、古代ギリシア・古代ローマ文明と同等の天動説は未だ発見されていない
メソポタミア文明では、詳しい惑星の位置観測結果が粘土板として出土しているが、この文明がどのような世界観を持っていたのかは不明である
ただし、多くの文明は、観測者がいる大地を中心とした宇宙観を持っていた
古代インドでは、須弥山説(ヘビの上にカメが乗り、その上にゾウが乗って、その上に人間の住む世界があるという世界観)が唱えられ、古代中国では、蓋天説や渾天説が唱えられた
ただし、これらの文明と古代ギリシア文明とは、学問の上で大きな接触があったとはいえず、これらの説や天動説が互いに影響を与えたかどうかについては詳しい研究はない
中国独自の無限宇宙論といえる宣夜説の形成には、天動説が影響したと考える研究者もいるが、確証はない
古代ギリシア・古代ローマ文明のように、惑星の明るさの変化や逆行について円運動で説明しようという試みは皆無であった

前述した通り、その後、天動説は古代ギリシア・ローマからアラビア文化圏を経て中国に渡り、アラビアと中国で独自の発展を遂げた
これらの文化圏が既に持っていた世界観との乖離は、特に問題とはならず、その地の知識人は抵抗もなくこれらの学説を受け入れた
しかし、アラビア、中国での天動説の発展は主に観測精度の向上で、体系の発展はあまりなかった
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現代の宇宙観

現代の一般的な宇宙観では、全ての物質は各々相対的に運動しているのであって、宇宙のどこかの物質に中心があるという考えを支持しない
但し、天体の運動を近似計算するために、数学的に座標の中心を設定する手法はよく使用されている

ニュートンの万有引力の法則は、太陽が宇宙の中心ではない可能性を示唆するものでもあり(ニュートン自身も太陽が宇宙の中心であるとは述べてはおらず)、実際に太陽は宇宙の中心ではなかった
現在では太陽は銀河系を構成する無数の星の1つとして、他の星々と共に銀河系の中心の周りを回っていることが知られており、その銀河系もまたこの宇宙で移動し続ける、無数の銀河の1つに過ぎないことが知られている
すなわち、古典的な地動説(太陽中心説)は間違いとされている
大きなスケールで見ると、宇宙には特別な場所も方向も存在しない
この考え方を宇宙原理という
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参考文献

スワンテ・アーレニウス 『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』 寺田寅彦訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1951年12月
ISBN ISBN 4-00-339301-5
スワンテ・アーレニウス 『宇宙の始まり 史的に見たる科学的宇宙観の変遷』 寺田寅彦訳、第三書館、1992年11月1日
ISBN 978-4-8074-9226-8

安野光雅 『天動説の絵本――てんがうごいていたころのはなし』 福音館書店、1979年8月
ISBN 4-8340-0751-0

ガリレオ・ガリレイ 『天文対話』上下巻、青木靖三訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1959年、1961年
上巻: ISBN 4-00-339061-X、下巻: ISBN 4-00-339062-8

コペルニクス 『天體の囘轉について』 矢島祐利訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1953年
ISBN 4-00-339051-2

プトレマイオス 『アルマゲスト』上下巻、薮内清訳、恒星社厚生閣、1958年
プトレマイオス 『アルマゲスト』 薮内清訳、恒星社厚生閣、1982年3月
NCID BN01292971

プトレマイオス 『アルマゲスト』 薮内清訳、恒星社厚生閣、1993年7月
ISBN 4-7699-0754-0

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関連項目

宇宙論
クラウディオス・プトレマイオス
地動説
橋本凝胤
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外部リンク

天動説と地動説
プトレマイオスの天動説
『宇宙の始まり 史的に見たる科学的宇宙観の変遷』:新字新仮名 - 青空文庫




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地動説

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC

地動説(ちどうせつ)とは、地球が動いている、という学説のこと
ニコラウス・コペルニクスが唱えた、天動説に対義する学説である
太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある
現在では主に正しいとされる

地動説の図

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目次

1 歴史
1.1 古代の地動説
1.2 天動説の優勢
1.3 大航海時代
1.4 コペルニクスの登場
1.5 コペルニクス以降の学説
2 コペルニクスの地動説
2.1 理論
3 コペルニクス後の地動説
4 古代中国の「地動説」
5 中世イスラム世界の地動説
6 地動説と日本
7 地動説のもたらしたもの
8 ガリレオ裁判
9 ガリレオ裁判以降
10 地動説と宗教
10.1 迫害されたとされる理由
10.2 反論
10.3 地動説が批判された理由と考えられているもの
11 出典
12 参考文献
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歴史

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古代の地動説

古くアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた
しかし、コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた
有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた
また、プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた
加えてレオナルド・ダ・ヴィンチもまた地動説に関する内容をレスター手稿に記している
特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである
彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた
彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことだ
これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである
ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している
紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった[1]

広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る
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天動説の優勢

2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化し、以後コペルニクスが登場する16世紀までこれが支持された
プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだ
こうして日常的な生活に関する限り、天動説があれば特に不自由はなくなった
とはいえ、おかしなところは存在した
例えば
5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる[2]
惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭
地球から見た時、火星の奇妙な動きを説明しづらい
惑星の位置予報にも誤差がある
などが挙げられる
しかし、これらの現象を説明し、精密な惑星の位置予報を出来る新説はなかなか現れなかった
また、ヨーロッパでは古代ギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる
後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である
こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀に至るまでずっと、天動説は支持された
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大航海時代

天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた
大航海時代以前、航海は沿岸航海であり陸地が見える場所しか船を運航しなかった
何も目印のない大海原では行き先が分からず、航行できなかった
羅針盤の登場がこれを可能にし、方位磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである
しかし当時の星表には問題がかなりあった[3]
特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった
さらにもう1つ問題が生じつつあった
1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである
この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた
キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題があった
この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた

当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年(回帰年)の定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である
しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で[4]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった
クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった
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コペルニクスの登場

カトリック教会の司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した
彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった
コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した
1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる
コペルニクスは1543年の没する直前、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した
そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した
こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした
コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行なったためである[5]
またこの業績について、ガリレオ・ガリレイから「太陽中心説を復活させた」と評された[1]
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コペルニクス以降の学説

その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は利用されなかった(ただしプトレマイオスの天動説も使われてはいない)
しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた(コペルニクスの月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もある)
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コペルニクスの地動説

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理論

コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない
地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している
また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている
各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)
同様に、地球と各惑星の距離も算出できる
これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである
プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった
また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう[6]
これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である
この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い

コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する
惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である(この時代、天王星や小惑星はまだ発見されていない)
公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている
ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、コペルニクスの著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われた
実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった(実際にはコペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった)
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コペルニクス後の地動説

コペルニクスの後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった
しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる
支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった
コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである
計算に必要な値も、著書のあちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であった
当時の多くの天文学者が欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった

その後、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した
しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説と大して変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)
惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた
ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している

それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった
似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった
しかし、コペルニクス説を使用しても、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性は大きく揺らいだ

ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた
最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった
ケプラーはブラーエの共同研究者であり(助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない)、ブラーエの膨大な観測記録から1597年、「宇宙の神秘」を公刊
コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した
これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた
当時、コペルニクス説の発表から50年以上経っていたが、はっきりと地動説を支持した天文学者は、結局、ケプラーとガリレイの2名のみであった
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古代中国の「地動説」

古代中国においても、独特な「地動説」が存在した
『列子』の「杞憂」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけな物にすぎない」(夫天地、空中一細物)とあり、当時すでに、宇宙的スケールの中では「天地」でさえ微小な存在だという認識があったことがわかる(ただし、古代中国人は「天地」が実は「地球」であることを知らなかった)
漢代に流行した「緯書」でも、素朴な地動説が散見される
例えば『春秋』にこじつけた緯書には「天は左旋し、地は右動す」(天左旋、地右動)、「地動けば則ち天象に見(あら)わる」(地動則見於天象)とある
『尚書』(書経)の緯書に載せる「四遊説」は、大地は毎年、東西南北および上下に動いている、という奇怪な地動説であるが、「大地は常に移動しているのだが、人間は感知できない(原文「地恒動不止、人不知」)
それはちょうど、窓を閉じた大船に乗っている人には、船が動いていることが知覚できないようなものだ」とあわせて説いている点が注目される
唐の柳宗元も、こうした中国独特の地動説をふまえて漢詩を詠んでいる(「天対」)[7]
上述のとおり、西洋のHeliocentrism(太陽中心説、現代中国語では「日心説」)の訳語として「地動説」は不適切であるとする意見もある
古代中国の「地動説」は、Heliocentrismとは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説であった
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中世イスラム世界の地動説

ウマル・ハイヤームの時代のイスラムの天文学者は、すでに「太陽中心説」(地動説)を知っていたが、それを公言することはイスラム教の正統主義から攻撃される危険があったので黙っていた、と推測する説がある[8]
その根拠の一つは、ウマル・ハイヤームの四行詩(ルバイヤート)の中の次の一首である[9]

廻るこの世にわれらまどいて
思えらく そは廻転提灯の如しと
太陽は灯にして世界は提灯の骨
われらその内に影絵の如く右往左往す

この他、コペルニクスの地動説も、実はイスラム世界の天文学にその原型があったと推測する学説すらある[10]
一方、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年 - 1048年)は、その著書「マスウード宝典」にて地動説を記載している
また、(地動説かどうかは不明だが)アッバース朝のマアムーンの時代に、アル=フワーリズミーがユーフラテス川の北、シンジャール平原やパルミラ付近で地球が球体であるとの前提で経緯度及び子午線弧長の測量を行っている(その測量結果からすると、地球の周長は39000キロメートル、直径は10500キロメートルとなる)
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地動説と日本

徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した
本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した
画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った
医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした
幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた
渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた
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地動説のもたらしたもの

地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた
地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している
“常識をひっくり返す(証明されている)新説”を「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である
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ガリレオ裁判

詳細は「ガリレオ・ガリレイ#ガリレオ裁判」を参照
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた
代表的なものは木星の衛星で、この発見はもし地球が動くなら、月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった
また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測
これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった
またガリレオは太陽黒点も観測
太陽もまた自転していることを示した
ガリレオはこれらを論文で発表した
これらはすべて、地動説に有利な証拠となった
ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された

ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した
地動説を唱えたガリレイは、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた
この時の「それでも地球は回っている」の呟きは、実際にそう呟いたという確固たる証拠は存在しないが、伝説として現在に至るまで語り継がれている
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ガリレオ裁判以降

たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力は事実上なかった
ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった
コペルニクスの説はその主張に反して周転円を含む不完全なものであったので、ケプラーは観測記録などからこれを楕円軌道に修正した
さらに『ルドルフ表』(ルドルフ星表)を作り、1627年、公刊した
それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった
しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた
これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった
ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである
ただ、その証明を確固とするには、ジェームズ・ブラッドリーの光行差の発見も必要となる
蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である
しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった
ガリレオの死から359年が経過していた
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地動説と宗教

地動説の解説の際、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害された、という主張がされるが、これには異議をとなえる意見もある
このため、両論を併記する
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迫害されたとされる理由

ニコラウス・コペルニクスは、迫害を恐れ、説の完成後も30年に渡って発表をためらった
発表も死の直前であった
『天体の回転について』は、迫害を恐れる印刷業者によって、「純粋に数学的な仮定である」という但し書きが著者に無断でつけられて刊行された
発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった
明らかに正しいはずの地動説に対して天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである
マルティン・ルターは、コペルニクス説について、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を否定した
結果、プロテスタントでも、地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象となる
地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは、1600年に火刑に処された
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために迫害された
1616年にローマ教皇庁は地動説を禁じた
1633年に時のローマ教皇ウルバヌス8世は、自らガリレオ・ガリレイに対する第2回宗教裁判で異端の判決を下した
この背景には三十年戦争によるカトリック勢力の回復策が要求されていた事が挙げられる
『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から禁書にされた(後述するがこれは誤り)
以上の諸点では、二つの論旨が入り交じっている
「地動説が教会から禁止された」ということと、「教会が実際に地動説を信じる者を迫害した」ということだ
前者は正しいが、後者は必ずしも正しくない
教会は地動説を蹴落とそうとしたが、実際に蹴落とすためには蹴落とすための権力を要する
以上の諸点では、この二つのことが混同されている
そのせいで、論旨としては、必ずしも正しいものではない
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反論

これに対し、地動説への迫害と思えるものは、単にガリレオがイタリア内での権力闘争に巻き込まれたためで、ガリレオを迫害するために地動説が理由に使われただけだという主張もされる
この理論の根拠は次のとおり
コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである
コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前に発禁・焚書になるはずである
コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない
『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある
当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである
グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した(もちろん、他の学者の数値も使用した)
プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである
ルターが地動説を批判した理由は、たんに地動説を唱えたコペルニクスがカトリック教会の司祭だったからである
またルターは総じて人文主義などの古典や自然学の研究には批判的であった
『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである
プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった
これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる
地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである
その証拠に、ヨハネス・ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた
ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである
また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)
ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽はその他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、また宇宙には特定の中心はなく、その意味で地球も特別な星でないと述べた部分である
もちろんブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった
ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである
その証拠に、地動説を唱えて異端とされた人物は、ガリレオ以後、誰もいない
またガリレオ以前にもいない
(ブルーノの有罪容疑にははっきり地動説とは書いてない)この時代、ローマ教皇庁が地動説を禁じたのは事実であるが、これはガリレオを有罪にするために、先に理由をつける必要があったためである
ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学の問題については教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した
この事がガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながったと言われる
実際、時の教皇ウルバヌス8世は当初はガリレオを支持していたが、その後は掌を返したようにガリレオを非難する声明を何度も発した
『天体の回転について』が、ローマ教皇庁異端審問所から禁書に指定されたという事実はない
この書は、1616年、ガリレオ裁判の始まる直前に、閲覧一時禁止の措置がとられただけで、数年後には「純粋に数学的な仮定である」という但し書きをつけて閲覧が再許可されている
一般的に考えて、ローマ教皇への献辞がある書物を数十年後にローマ教皇庁が禁書にすることはありえない
ただし、地動説を元にした本が数冊禁書になったのは事実である
この中にはケプラーの『コペルニクス天文学概要』が含まれるが、コペルニクスの著書は含まれない
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地動説が批判された理由と考えられているもの

聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのは神の偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、神の偉大さを否定することになると考えたとされる
1539年にマルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した
ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した
ガリレオ裁判の最高責任者だったロベルト・ベラルミーノ枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた
アリストテレスの流れをくむスコラ学の学者は、天動説を唱えたアリストテレスの理論が否定されるのを問題視したとされる
カトリック教会が、ガリレオの『天体対話』の中で、地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者はローマ教皇・ウルバヌス8世をあてこすったものだと考えたとされる
カトリック教会は太陽が教皇の象徴だと考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかったとされる
教皇庁が1620年にコペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたと言われている
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出典

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1.^ a b カール・セーガン著 木村繁訳『コスモス 下』 P.49 史上初の地動説 ISBN 4-02-260270-8
2.^ アルマゲスト
3.^ 高橋訳『天球回転論、誰も読まなかったコペルニクス』
4.^ アルマゲスト
5.^ 世界大百科事典
6.^ 『コペルニクス革命』
7.^ 加藤徹著『怪力乱神』pp.274-280
8.^ 陳舜臣著『オマル・ハイヤーム ルバイヤート』(2004年,集英社)pp.126-127
9.^ 陳舜臣訳
10.^ ハワード・R・ターナー著, 久保儀明訳『図説 科学で読むイスラム文化』pp.138-140, ISBN-10: 4791758641
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参考文献

渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社〈講談社ブルーバックス〉
D・C・リンドバーグ&R・L・ナンバーズ 著&編『神と自然 歴史における科学とキリスト教』みすず書房




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7.月蔵経の予言:その1

http://r-tao.com/newmakkyou/text/getuzou1.htm

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仏教の予言の中では前回までに見た「法滅尽経」よりもさらに著名なものとして「月蔵経」が挙げられる
日本の仏教界を代表する法然や親鸞、日蓮といった大宗教家にも大きな衝撃を与えた経典、それが今回紹介する「月蔵経」である
「月蔵経」の正式な名称は「大方等大集月蔵経」で、中でもその20番目に説かれている「法滅尽品」に、終末を暗示する予言が記されている

ところで、仏教には先にも記したとおり、「三時説」があり、世界のタイムテーブルを仏教の盛衰に置き換えている
釈迦入滅後の千年を正法時代、その後の千年を像法時代、その後の千年が末法時代と呼ばれる
また、この月蔵経には「五堅固説」があり、三時説同様、釈迦入滅後5百年周期で時代が変遷するとするもので、最初を「解脱堅固」(覚悟のできる時期)、次を「禅定堅固」(禅定を保持できる時期)、その後順次「多聞堅固」(仏法を聞き精進することができる時期)、「造寺堅固」(寺や塔だけが盛んに建立される時期)、「闘争堅固」(各宗派が争いを繰り返す時期)時代と称している

これらは、三時説をより細分化した表現といえるが、釈迦入滅後2千5百年を経た今が、最終の時代に入っていることだけは間違いない
ただ、一説には三時説の「末法時代」を1万年とするものもあるが、釈迦が仏法を説かれた時代に比し、現在は時の流れが極端に速くなっていることに気づかねばならない
特に戦後50年間の変化は、それまでの時の流れを一気に変えてしまったと言っても過言ではない
「10年一昔」と いう表現は死語となり、「日進月歩」は「秒進分歩」という表現に変わった
「長期的な視野に立って」と言う場合の「長期」は2〜3年先程度が限界である
ある人が「江戸時代の10年は明治の1年」と言ったそうだが、現代は当然、それ以上の違いである
末法を短絡的に1万年と考え、安閑とするのは実に危険である
すでに末法を過ぎ、「法滅尽」の時代に突入していることを我々は知らねばならない
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さて、本論の「月蔵経」であるが、今回はその一節を紹介することにしよう

「末法時代に入ると太陽も月もその光が見られなくなり、星の位置が変わってくる
白い虹が太陽を貫くような不吉な前兆があると大地は振動し、水は枯渇し、時ならぬ暴風雨が起こる
農作物が完全に実らなくなり、水たまりがあると思うと日照りが続いて土地がひびれてしまう
餓死するものが後を絶たず、政治家は為すすべを知らない
父母と子とが争い、人民は司政者と対立する
ようやく手に入れた食物も毒を含むようで美味しくない
悪質な病気次々に流行し、町全体が焼け跡となってしまう
人間と人間が殺し合うようになるとその隙に外国が攻めてくる
寺は破壊され、僧侶は殺害される」

すでに我々の身の回りにある光景もあり、まだ見ぬものもある
しかし、いずれにしても極移動による天変地異、気象異変による食糧不足や疫病の多発が、人心を蝕み、世界最終の戦争へと駆り立てるようである
それは、一人一人の我欲が生み出す業の集積が、本来、共存共栄すべき大自然から、逆に淘汰を余儀なくされてしまった姿にも映る

参考文献:釈迦の予言(菊村紀彦著)
封印された釈迦の秘予言(福島裕鳳著)




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釈迦の予言

http://www.emcjp.com/e74.htm

「2500年前の予言」
『月蔵経』『法滅尽経』これはれつきとして教典です
しかしこの名を聞いた事のある人は少ないでしょう
それは、ごく一部の専門家たちの間だけで密かに読みつがれてきたものだからです
しかし、最近になってこのお経に関心を持つ人が急に増えてきました
それはこのお経の内容が現代の混乱した世の中を見事に予言の通りに言い当てていることと、とりわけ日本の将来について一種の予言が述べられているからなのでしょう

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『月蔵経』(がつぞうきょう)『法滅尽品』
「大方等大集経巻第五十六/大集経月蔵分第十二法滅尽品第二十」より抜粋
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原   文

時須臾頃 大地普震動 於其虚空中 出大悪音声
四方起大悪 火爨数百千 火幢大可畏 現住在空中
当時虚空中 大声震於地 一切皆遍動 猶如水上輪
城壁砕落下 屋宇悉圻 樹林根枝葉 花葉果薬尽
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読み下し文

是の時、須臾の頃(あひだ)、大地、普(あまね)く、震動し、其の虚空(こくう)中に於いて、大悪音声を出し、
四方に大悪起こり、火爨(かさん)数百千、火幢大いに畏(おそ)るべし
現住して空中に在り
時に当たり虚空中に、大声あり地を震(ふる)ふ、一切皆遍(あまね)く、動き、なお水上の輪の如し
城壁砕け落下し、屋宇(おくう)悉く?圻(いき)し、樹林の根、枝葉、花葉、果薬尽く
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大方等大集月蔵経 『法滅尽品』

大乗仏教では、「三時説」による終末論を唱えた
これは、釈迦牟尼が入滅した以降の歴史を正法・像法・末法の三期に区切ったものである
現代は末法の時代ということで、最も詳しく書き残しているのが、『大方等大集月蔵経』というお経の中の「法滅尽品」である

「東西南北の国王が互いに戦争をし、侵略を行う
人民・僧侶を殺戮し、女は犯し、町は焼き払い、寺院を壊し、寺宝を盗む」

「虚空中に大音声が響き渡り、大地が震える
すべてのものが揺れ動き、その様子は水に広がる輪のようである
城壁は砕けて落下し、家屋はことごとく折れ、へし曲がる
樹木の根も実も折れ尽きる」

「やっと手に入れた食べ物も毒を含むようで、味もなければ栄養もない
悪疾が次から次へと流行する」

「太陽と月は光を失い、星の位置が変わる
白い虹が太陽を貫く凶兆があると、大地は振動し、水は涸れ、不時の暴風が起こる」

「農作物は成熟せず、打ち続く日照りで、わずかばかりの水溜まりも干上がり、土地はひび割れる
餓死者はあとを絶たないが、偽政者は権力争いに終結して、互いに傷つけあい、損ねあうことしかしない」

「人は求道のためにではなく、生活のために出家する
僧となって以降は、ひたすら名利を追い求め、学問修行はせず、経より娯楽の雑書を好み、戒律を捨てて女性と戯れ、衣服を着飾り、名利のためには俗塵にまみれた営業も厭わない・・・」

「法が滅す時、五逆の罪を犯す者が多く現れ、世が濁り、魔道が興り、盛んになるだろう」

「悪魔が僧侶となり、仏道を乱し、破壊するだろう
魔僧は俗人の服を着て、袈裟も五色のものを好んで着るようになるだろう」

「下男が比丘となり、下女が比丘尼となるから、道徳もあるはずはない
これらの人は淫乱で、男や女の区別をしないだろう
半月ごとの布薩の日に、戒経・戒本の読誦ながら行い、怠けて聴こうとしないだろう
経典を習わず、たとえ読める人がいたとしても、その字句の意味を知らないだろう」

「役人は道理に適わない税を取り立てようとする
このため人々は反乱を起こし、その機に乗じて利を得ようとする
悪人は海中の砂のごとく多く、善人は非常に少なく、ひとりかふたりしかいなくなるだろう」

「法が滅す時、女人は精進し、男子は怠けて仏の教えを用いず、目に僧侶を見ること、糞土を見るがごとくで、信心などはまったくないだろう」

「世界がなくなろうとする直前に日月が短くなるだろう
このため、四十歳で頭が白くなる
男子は長生きしても六十歳だが、女子の寿命は長く、七,八,九十歳、あるいは百歳になるだろう」

「法が滅尽しようとするその時、諸々の天は涙を流し、悲しむだろう
雨が降らないため、五穀は実らない
病気が流行し、死する者は多く、人々は苦しむだろう」

「大水がにわかに起こり、終わる事がないだろう
世の人々は仏法を信じないため、この世は永遠にあると考えるだろう
富める者、賤しい者を問わず、すべての者が水に溺れ、漂い、魚などに食べられてしまうだろう」

「時に、菩薩・びゃく支・阿羅漢(三乗)は、多くの魔僧に追い立てられ、仏教の集まりにもあずかれない、このため、三乗は山の中に福徳の地を求め、そこで自分たちだけで法を守り、それを喜びとするだろう
この人々の寿命は延び、諸々の天が守護するだろう」

「一方、月光菩薩が世に現れ、五十二年間、仏法を興すであろう」

「首顎厳経や般舟三昧経が人々を教化し、やがて滅し去るだろう
次いで十二部経が現れるが、次第に滅し、その文字さえ見る事ができなくなるだろう」

「法が滅す時は、たとえてみれば油燈の油がなくなるときに、炎が一瞬明るく燃え上がるようなものである
これから後は説くことができない」

大正新脩大蔵経 第13巻 大集部 全(大正新脩大蔵経刊行会1924)より

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「法滅尽経」(ほうめつじんきょう)

私は、このように聞きました
ある時、世尊はクシナガラという所におられ、ちょうどお亡くなりになる前でありました
たくさんの修行僧たちと書き尽くせないほどの大衆が、世尊のもとにお集まりしていました
世尊は静かにしておられ、教えを説こうともせられず威光も現われず、ただ黙っておられました
阿難は、世尊に礼拝してお尋ねになりました
「世尊は、いつでも説法をお聞かせ下り、いつもは威光が現われていらっしゃいます
こうして、大衆が集まりましたのに、今は光明も現われません
これには何か深い理由があると存じますが、どうぞ、その心をお聞かせ下さい」
このように申し上げました
世尊は、阿難に次のようにおっしゃいました
「私が亡くなった後の事であるが、仏法が滅しようとする時、重罪を犯す者が多くなり、魔道が盛んになるであろう
魔類が僧侶の格好をして教団や仏教徒の中に入り込み、仏法を内から乱し破壊していくだろう
魔僧は、俗人の衣服を着て、袈裟も定められた以外の服を喜んで着るようになる
魔僧は酒を飲み、肉をむさぼり食らい、生き物を殺して美食を追求する
およそ慈悲心など全くなく、仏の弟子たる僧たち同士、お互いに憎んだり妬んだりする
そんな末法の世の中でも、まともな菩薩・聖者と呼ばれる人たち・尊敬に値する人たちが出現し、精進修行して徳を修めるであろう
世の中の人々は、皆、彼らを敬いあがめたてる
すべての人々を平等に教化し、貧しい人を哀れみ、老人を労い、頼るべき人がない者を救済し、災難に会った人を養うであろう
まともな菩薩らは、常に経・仏像をもって、人々に奉仕することの大切さを教え、仏さまを礼拝することを教える
  菩薩は、多くの功徳を行い、その志と性質は仏法にかなっており、人に危害を加えない
自分の身を犠牲にしても人を救おうとし、忍耐強くて人にやさしい
もし、まじめに仏の教えを実践している人がいるとすれば、魔物の身代わりの僧たちが、皆、これを妬み、非難し、悪口を言う
そして、世間に彼の欠点をほじくり出して吹聴し、お寺から追い出す
菩薩の道を実践する僧たちが目の前からいなくなれば、魔の僧たちは寺を荒れ放題にしておくだろう
魔僧は、自分の財産や金銭をむさぼり貯える事ばかり努め、福徳など全然行わず、衆生を傷つけ、慈悲心など全くなく道徳などもない
彼らは淫乱な事をし、男女の区別なく悪業を働く
仏法が衰えていくのは、彼らの仕業である
徴兵や税金の取り立てから逃れる為に僧侶となることを求め、修行僧の格好をしていても実は修行なぞしていない
お経を習わず、例え読める人がいたとしても字句の意味も分からない
よく分かっていないのに有名になりたがり、他人から褒められようとし、智慧や徳もないのに容姿だけは堂々と歩いて見せ、人から供養される事ばかりを望む
こういう魔僧は、死後に無間地獄に落ちる
仏法が滅す時、女人は精進して常に徳を積むが、男子は怠けて信心がない
仏法が滅ぶ時、天の神々はみな涙をこぼし、泣き悲しむ
作物という作物は実をつけなくなり、疫病が流行し、死んでいく者も多くなって人々は苦しむ
税金は重くなって、道理に合わない税のかけ方をする
悪人が海の砂の数より多くなり、善人は一人か二人になる
世界が最後になる寸前には、日月が短く、人の寿命も段々と短くなって四十歳で白髪になる
男子は淫乱にして、精も尽き若死にするようになり、長生きしても六十歳ぐらいであろう
女子の寿命は八・九十歳、あるいは百歳となる
時に、大水がにわかに起こり、富める者も卑しい者も水中に漂い魚の餌食となるであろう
菩薩や聖者たちは、魔僧たちに追い立てられ、福徳の地へ行く
菩薩や聖者たちは、しっかりと教えを守り、戒めを守り、それを楽しみとする
その人たちは寿命が延び、諸天が守って下さる
そして、世に月光菩薩が出て五十二年の間、仏法を興す
しかし、段々と滅していき、その文字を見ることも出来ないのだ
修行僧の袈裟の色も白に変じる
仏法が滅す時は、例えば油燈の灯が油のなくなる寸前、光が盛んになるのと同様である
これ以上は、説いて聞かせることが出来ない
その後、数千万年たってから、弥勒菩薩が下ってきて仏となる筈である」

阿難は、世尊に礼拝して、「このお経は何と名付けられますか」とお尋ねいたしました
世尊は、「阿難よ
この経の名は法滅尽経となす
誰にでも説いてよろしい
そうすれば、功徳は計り知れない」とおっしゃいました

世尊の説法を聞いた人たちは、皆、悲しみ沈みました
だからこそ、今のうちに無上の道を修めようと発心した
そして、皆、世尊を礼拝して退座していった

『将来我が法滅尽せんとする時、我が法中に於て出家した比丘比丘尼達が戒行を修めず、在家の人達と同様に我児の臂を牽いて、酒楼より酒楼へ遊びまわり、淫事をなすであろう・・』

参考 『大悲経』 重文 正暦寺

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『大集月蔵経』に依れば、
仏陀入滅後の五百年は、もろもろの比丘、智慧を研いて仏教が維持される解脱堅固の時期であり、第二の五百年は、禅定堅固であり、第三の五百年は、多聞堅固であり、第四の五百年は造寺堅固であり、第五の五百年は、白法隠没して、諍訟のみ、ただ微しく善法が残るといつた闘諍堅固の時期なりといふのである
                  (『大集経』取意、伝教大師『末法燈明記』参考)

そしてこの第一の五百年を正法の時代、第二第三の一千年を像法の時代、第四以下の一万年を末法の時代として、正・像・末の三時を区分するのである

「我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし、道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ」といふ『大集経』(聖典三三八頁)の予言の如く、末法の今は、戎・定・慧三学の行を修して証をうるもののいない時代である
従って、末代の凡夫に与えられた白法は、願生浄土の一法のみである
されば支那の道綽禅師は、当今は末法なり
この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なりと末代の私共を策動されるのである
(『安楽集』聖典三三八頁)




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ノストラダムスの預言と宗教の預言NO1:良い宇宙人と悪い宇宙人:NO1079

http://www51.tok2.com/home/slicer93190/5-1079.html

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ももいちたろうさんの説明NO79

ももいちたろうさんがなぜノストラダムスの予言を重視するかを述べておられます
{説明 1}
わたしは、ノストラダムスの「諸世紀」の予言集を今まで重視しています
理由は、ノストラダムスによって書かれた「諸世紀」が極最近(500年前)の予言集であること
もう一つの理由は、著者が現代の水準からみても相当の「医学者であり科学者である」 ことによります
ノストラダムスの生きていた時代のヨーロッパにはペスト(黒死病)が大流行していました
医者であったノストラダムスは彼の予知能力で知った未来の防疫情報を使ってそのペストからヨーロッパの人々を救っています
他の予言者の方々は、ほとんど科学者でありません
そのために、説明の内容が、科学的にみて理解しにくい表現となっています
また、3大宗教ができた頃、予言者の造った予言集が、宗教の中に、ほとんどと言えるほど取り込まれました
しかしそれらは宗教的色彩を帯び偏向してしまっています
この偏向した予言は、検討する場合、宗教の偏向を取り除くのに、大変に注意を要しますし疲れます
その点で「諸世紀」は、第一章の冒頭からキリスト教の神を排除していますので解読が容易です
ところが「諸世紀」を解説された方達のほとんどが、キリスト教関連の方達で、「諸世紀」で言われている神はキリスト教の神であると誤解しています
私のような既存の神の概念を認めず科学的説明を要求する者からすれば不思議なことです
わたしは無神論者ですから、ノストラダムスが、明らかにキリスト教の神を認めていない事が理解できるのです
従って、私はノストラダムスの「諸世紀」の予言集しかメインに取り上げていません
ただ、他に似たような予言が無いことはありません
しかし、多くの予言と予言者が宗教と密接に関係しています
そこで、わたしはそれらに積極的に接近する意欲はないのですが、皆様の参考までに取り上げてみました
以下のものは3大宗教で言われている未来の予言です
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{説明 2 キリスト教関連}

キリスト教には「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」の三大予言書があります
その他に、20近くの予言書があります
ところがそれらを書いているのが科学者ではありません
その結果、科学的意味の不明なものばかりです
ただ、共通しているのは、人類の終末を取り扱っています
このホームページの全体を真面目に受取り、これらの予言書を再度、解析・解読すると新しい視点から理解できるかも知れません
例えば「ヨハネの黙示録」の場合ですと、西暦200?年の来襲による都市破壊、そしてその後に襲って来る「ノアの大洪水」のことを主に説明しています

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☆ 第6章第1ー17節が有名です

この中の「子羊」を特定の人間(雄羊の皮袋)と置き換えて、全体を解読してみれば何か理解できるかもしれません
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☆ 第8章6ー7節、第10章1ー7節の場合

7天使=7星(金星、木星、土星、天王星、海王星、月、太陽)の宇宙における会合の配列
ラッパ=マントル境界層の破断音
天使が起こすもの
7雷の事は秘めておけ
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☆ 第12章7ー12節 宇宙に於ける解放戦争

竜=堕天使サタン
竜の使い=月人達
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☆ 第1章1ー18節

「獣=堕天使サターン」
666=西暦200?年、地球の都市を攻撃しにくる月人に憑依した「堕天使サタン」=人間の姿をした獣(月人の神は、自らに似せて人々を創造した)
この攻撃で人類の皆さんの前に初めて姿を現し、人類の絶滅を示す
そして「子羊が指名せし者の他は、消えていく」 等です
その他「マタイ伝」には、全宇宙の隅々から集めて宇宙連合軍を編成すること
宇宙連合軍の解放戦争の最終戦闘が「ノアの大洪水」の開始を合図に始まっている模様が説明してあります
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☆ 第24章29〜31節

「・・・天使達は 天の果てから果てまで・・・四方から呼び寄せ・・・・」
「・・・大きなラッパ(マントル境界層の破断音)を合図に・・・」
等参考になるでしょう
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{説明 3 仏教関連}

仏教の中にも予言と思われる物があります
「大方等大集経」の46巻〜56巻の「大方等大集月蔵経」と「阿毘達磨倶舎論」等に記載されています
例えば「月蔵経」の中に「ノアの大洪水」に至る過程と、発生の模様の説明は、次のようです
悪龍=「堕天使サターン」
悪夜叉=「堕天使サターンの配下の月人の神々と名のる者達」
と置き換えると良いでしょう
日、月、五の星(金星、木星、土星、天王星、海王星)は、希なる宿(位置)に入り・・・・
妖星、彗星、・・・現れ、28宿の星、位置定まらず(極回転により揺れ・移動する)・・・、不吉な前兆現れ、その時、虚空に大音響が鳴り響き(地下のマントル層の境界の破断音)、大地震が起こり、あらゆる物(地球表面に在る全ての物・者・生命・山々・海水)は、水車のように回り動いて(地球の極回転)崩壊する
城壁(全てのビル等の建造物)は砕け崩れ落ち、人家はことごとく壊れる
・・・(大洪水の大津波によって、地表の全ての物は根こそぎにされる)樹木の根も、葉も、花びらも、果実も、それらの持っている薬味も全て尽き果てる・・・・・宿曜の星の位置が変わる(天空の星、太陽、月等の位置が変わる==地表の極回転により、北極と南極が入れ替わる)・・・・・等です
つづく



戻り


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この世界は「 確定未来形 」である

http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kakurega-12-kakuteisekai-1.htm

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これまで我々が棲んでいる世界について、様々な考察を重ねて来ましたが、ここで一つの重大な疑問に突き当たります
それは『旧約聖書』の「天地創造」に記されている内容が、この世界の「究極の過去」の出来事であるとしたときに、それでは逆に「究極の未来」の出来事も、同様にして知ることが可能なのであろうかということです
そして、どうやらそれが可能であると考えられることから、「初めに、神は天地を創造された」という冒頭の一文を、「この世界の全体の設計図(プログラム)がまず創られた」と解説したのであり、またその設計図には、「この世界の結末までもが書き込まれている」と申し上げたのです
つまり未来予知は、可能であるということです
そして、「究極の未来」の出来事までも、知ることが出来るということです
ただし何の根拠も示さずにこう言っても、誰も信用しませんから、以下、順次説明して行くことにします
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(一) 未来予知は可能か

お話の順序として、まず「近未来」の出来事の予知に関して申し述べることにします
よく知られているものとして、「予知夢」というものがあります
以前夢で見たことが、後で、現実の出来事になるというものです
一般的には「正夢(まさゆめ)」と言われるものです
これはけっこう多くの人たちが、実際に体験しています
ことに身内の人たちの不幸が、そうした夢になって現われる場合が多いようです
ある時、遠く離れて暮らしているおじいさんやおばあさんの夢を見たら、その数日後に、訃報が届いたという事例は枚挙にいとまがありません
自分自身のことに関しても、夢の中で偶然、旧友と出会う夢を見たら、現実にそれと同じ事が起きて驚いたことがあります
その時は、突然の出会いによる驚きよりも、不思議に対する驚きがありました
ですから正夢と言う現象は、疑う余地がありません
従って、この場合の夢は、フロイトの言う「願望の充足」ではなく、「予知夢」と考えるのが妥当です
なぜなら無意識的にでも身内の人の死を願っているような人は、まずいないからです
これは夢というものが持っている、もう一つの側面と考えるべきです
ですから未来予知という現象は、これだけでも確かに存在すると言えるわけです
ただし明確な根拠が示せないために、ただの不思議な偶然と思っている人たちが多いのです
易や、占いによる予言も、けっこう当たることがあります
易や占いについては、これを統計的な判断の一つとする見方があります
もし手相や占星術や姓名判断を、多くの統計数字から割り出した一定の指針と捉えるならば、それを否定する根拠がなくなります
むしろそれは科学的な根拠に基づく予測といえます
従って、将来発生するかもしれない出来事に関しても、そうした一定の確率と考えるならば、やはり否定する必要がなくなります
つまり過去の統計結果で、貴方の場合は将来こうした出来事が発生する確立が高いので、充分に注意しなさいという忠告には、大いに耳を傾けるべきであるということです
ただしここで問題となるのは、易断や占星術といったものが、その人の特殊な能力によって行われた場合です
要するに、予言者の能力に基づく予言です
これは統計や、確率に基づくものではありません
その人の「直感」によるものです
言うなれば第六感からのメッセージであり、一種のインスピレーションです
そこには科学的な根拠は、何も見当たりません
それにも関わらず、かなりの確率で当たることがあるのです
その代表的な例として、一時期大騒ぎされた、ノストラダムスの予言を上げることが出来ます
彼の場合は、詩文の文章がどうとでも取れるような内容であることから、解釈をめぐって様ざまに意見が分かれました
中には、そのすべてを、インチキ呼ばわりする人もいたほどです
しかしながら、彼の予言が幾つかの重要な出来事を、かなり正確に言い当てていたいたことは確かです
ここでその確率を計算しても意味がありませんが、かなり高い的中率を示しています
中にはまったく疑いを差し挟む余地が無いほど、正確に言い当てているものもありました
そのために例の「終末予言」が、大きくクローズアップされてしまったのです
ただし彼の場合は、宇宙的な規模の異変を察知する能力は無かったのです
従って、身近な出来事の予言が、間違った解釈により、本来の真相が歪められてしまったと考えるのが妥当です
おそらく後で、ふと気が付いた時に、これがあの終末予言と間違われたのかというものがみつかるはずです
ですから彼の場合は、すべてをひっくるめて総合的に判断するならば、やはり特殊な能力による予知現象が起きていたと考えられるのです
要するに、未来予知という現象は、確かに存在すると言わなければならないのです
ところで、この「未来予知」という現象に関係して、どうしても外せない事例があります
それは日本国内で起きた有名な出来事です
例の酒呑童子号の遭難事故の一件です
この事件は新聞やテレビでも大きく報道されましたから、ご存知の方も多いと思います
船長の諸井清二さんが単身で乗り込んだヨット酒呑童子号が、海で嵐に遭って遭難し、一時は絶望視されたものの、数ヵ月後に無事救出されたという出来事です
今でも時々、ご夫妻でテレビに出演して、その時の状況を語り伝えています
これは、それほど有名な事件です
その概略を説明すると、およそ次のようなものです

『環太平洋ヨットレース』に参加するために、自分のヨット酒呑童子号に乗り込んだ諸井清二さんが兵庫県西宮港を出発したのは、1994年(平成6年)二月十一日のことでした
ところが大しけのために、ヨットが破損し、諸井さんは遭難してしまいます
無線での連絡も取れなくなりました
そして、ついに四月八日には新聞に、諸井さん遭難の記事が載りました
そうした状況の中で、奥さんの千恵子さんは、ある時、不思議な夢をみます
夢の中で目を覚ました千恵子さんは、食卓の前に、夫の清二さんが座っているのを見つけます
そこで千恵子さんが、いつ帰ってきたのかと聞くと、清二さんは、六月七日に帰ってきたと答えました
このことから千恵子さんは、船の捜索を是非とも六月七日までは続けるようにと、各方面に依頼したということです
これは五月十一日に起きた出来事です
後で分かったことは、諸井清二さんは船の中から、奥さんが起きる直前の時間帯を見計らって、自分が無事でいることを知らせるために毎日、テレパシーを送っていたということです
後日、テレビで紹介された日誌には、そのことが詳しく記されていました
そして、運命の日であるその六月七日に、韓国の釜山港から、夫の諸井清二さんが無事救出されたという知らせが、自宅に居る奥さんの許へ届いたのです

この事例は、未来予知という現象が、確かに存在することを示すものです
この場合は、いわゆる夢枕に立つという現象ですが、それによって約一ヶ月も先の、夫の清二さんが救出される正確な月日が知らされたのです
おそらく諸井清二さんが船の中から送ったテレパシーも、何らかの形で影響したものと思われます
もしかしたらこれは、夫婦という強い心の結びつきがあって生じた現象かもしれません
ともかく諸井さんの奥さんの千恵子さんがみた夢の中で、一ヵ月後の六月七日という日付けが、明確に提示されたのです
そして実際に、夢の中で見たとおりのことが起きたのです
ですからこれこそは、劇的な正夢であったといえるわけです
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて、以上は「近未来」の出来事についての予知ですが、それでは「究極の未来」の出来事については、どうなのかということになります
究極の未来ということは、この世界の終わりの時という意味です
ただしその前に、この世界には、終わりが有るのか、無いのかということが問題となります
そこでこのことに触れる前に、最新の宇宙理論では、この世界の終わりをどのように考えているかを整理しておくことにします
前にも少しだけ触れましたが、現代宇宙理論ではこの宇宙は「閉じられた宇宙」なのか、或いは「開かれた宇宙」なのかという大問題が提起されています
閉じられた宇宙というのは、この宇宙はいずれは自分の重力によって、「収縮」へと向かうというものです
また開かれた宇宙というのは、このままどこまでも果てしなく「拡散」を続けて行くというものです
そして、そのことを調べるためにブラックホールの質量や、ダーク・マターと呼ばれる未知の物質の存在を想定して、壮大な計画のもとに、コンピューターを駆使した膨大な計算が行われているということです
ただし結論が出るのは、まだまだ先のことになるということです
ですからはっきり言ってしまえば、科学的には、何も分かっていないということです
ここに現代科学の限界があると言えるわけです
ところが、驚いたことに仏教の世界では、この難問に対する答えが、すでに用意されているのです
仏教の世界観によると、この世界は「成劫」「住劫」「壊劫」「空劫」という四つの宇宙周期を繰り返しているということです
これは現代語に訳すと、次のようになります

   「 成劫 」 ⇒ 宇宙が形成されていく時期
   「 住劫 」 ⇒ その宇宙が持続される時期
   「 壊劫 」 ⇒ 宇宙が消滅していく時期
   「 空劫 」 ⇒ 何もなくなった状態が継続される時期

(一劫が四三億二千万年で、全体の百七十二億八千万年が、「大劫」であるということです)
つまり、これを現代宇宙論的に見れば、「閉じられた宇宙」であると言っていることになります
「成劫、壊劫」という言葉が示すように、「創造と破壊」とが、何度も繰り返されていることになるからです
従ってこの世界は、一回限りで終わる世界ではないということです
これは『具舎論』という書物に記されているそうです

ところで、不思議なことに「アーユルヴェーダ」でも、これと同じような考え方がなされているということです
アーユルヴェーダというのは、インドに古くから伝わる伝承医学のことです
青山圭秀氏の『理性の揺らぎ』という本の中から、その一部分を抜き出して紹介しておくことにします

『−−−宇宙は創造され、維持され、破壊される
これが繰り返し行われるというのがヴェーダの宇宙観である
 これはビックバンよって一点から始まった宇宙が、条件によってはある時点で収縮に転じ、ついにまた一点に戻るだろうという、現代物理学の理論と似ている
ただし、物理学は、その前後については一切口をつぐむ−−−』

(『理性の揺らぎ』(三五館) 第八章 生命の科学・アーユルヴェーダより)

この「アーユルヴェーダ」と「仏教思想」との関係は定かでありませんが、ほとんど同じ様な考え方がなされているのは、非常に興味深いことです
さて、以上のことが、もし何らかの真理を物語っているとすれば、現在我々が棲むこの宇宙は「閉じられた宇宙」であり、いずれは収縮へと転じるであろうということになります
従って、これをそのまま信用してしまえば、現代宇宙論の大問題はいとも簡単に解決することになります
莫大な経費をかけて、研究を続ける必要が無くなります
ただし、そう簡単には行かないのが、科学的思考方法というやつです
なかなか厄介です
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
上に紹介したように、「仏教思想」と「アーユルヴェーダ」は、いずれも我々が棲んでいるこの宇宙は「閉じられた宇宙」であり、いずれは収縮へと転じるであろうと言っていることになります
ところで、こうした観点に立ったときに、実は、これまではなにが何だかよく分からなかったものが、一定の方向性が示されたことにより、かなり明確になって来るものがあります
それは次のようなものです
仏教には、「末法思想」というものがあります
なんでも「末法」の世に入ると、とんでもない危機的な状況があらわれるのだそうです
そして、この世界は、すでにその末法の世に入っているのだそうです
この思想の中心をなすものが、『月蔵経(がつぞうきょう)』という書物に記されている出来事です
正式名称は『大方等大集月蔵経(だいほうどうだいじつがつぞうきょう)』といいます
ただしちょっと困ったことに実は、この経典は封印されているために、経典の現物はもとより、参考資料も詳しいものがほとんど出されていないのです
実際に私が以前、図書館で調べたときにも、資料と言えるようなものはまったく見つかりませんでした
そうした意味からすると、次に紹介する本は、けっこう貴重なものと言えるかもしれません
ようやく手に入れることが出来た、唯一の資料だからです
それは、『封印された釈迦の秘予言』(福島裕鳳著 日本文芸社)という本です
以下の引用文は、この本の中からのものです

ところでこの「末法思想」については、いろいろと面倒な解釈が成り立つそうなのですが、我々にとっての最大の関心事は、最終的には一体、どのような出来事が生じるのかということです
つまり我々としては、結論の部分が知りたいわけです
そして、この本の説明によると、『月蔵経』の『法滅儘品(ほうめつじんぽん)』には、次のような記述がしてあるということです

『その時虚空に大音響が鳴り響き、大地震が起こり、あらゆるものは水車のように回り動いて崩壊するだろう
城壁(都市の建物)は崩れ落ち、人家はことごとく壊れ、−− 略−−大飢饉によって地球上の全ての生物は死滅するだろう
空より土が降り、昼は夜のように暗くなり、太陽も月も星も輝きを失い、再び現れることはないであろう−−−』
これを一読しただけでも、なにやらとんでもない事態が発生することが分かります
しかも、これとは別の『仁王経(にんのうきょう)』という経典の中には、次のような記述がしてあるということです
私としては、むしろこっちの方が凄いと思うんですが・・・
ただし次に紹介するものも、やはりお経の原典からではなく、日蓮の『立正安国論』の中から抜き出したものだそうです
直接原典に当たれないのが残念ですが、日蓮という人は、『月蔵経』についてくわしく研究した人であり、その内容にもかなり精通していた人であったそうですから、大筋において違いは無いと言えるでしょう

「仁王経に曰く『 大王、吾が今化するところの百億須弥、百億の日月、−−略−−日月度を失い、時節反逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重現ずるを、一の難とす也
二八宿度を失い、金星、彗星、輪星、鬼星、−−以下、略−−−」

これだけでは、何がなんだかさっぱり分かりません
現代語の訳文を紹介すると、次のようになります

(吾が宇宙には、100億の世界があり、各世界には日があり、月があり、須弥山があり、−−略−−その恐るべき七つの難とは、日月の運行が狂って寒暑の時節が逆になり、赤い日、黒い日が出たり、2、3、4、5、と日が並んで出たり、或いは蝕けて日に光がなくなり、あるいは、1、2、3、4、5と月が重なって現れる恐ろしい現象が生じるのが第一の難である
また28宿の星座、星宿の運行が狂う
妖星・彗星が現れたり、五星(水・金・地・火・木・土)に異変がおこり、−−以下、略−−)

これでもまだ分かり難い内容です
しかしいずれにしても、とんでもない大異変が生じると言っていることは間違いありません
こうした驚くべき内容からして、これらの経典が封印されることになったのも大いにうなずけるものがあります
さて、そうした時に、
○『あらゆるものは水車のように回り動いて崩壊する』
○『空より土が降り、昼は夜のように暗くなり、太陽も月も星も輝きを失い、再び現れることはない』
○『日月の運行が狂って寒暑の時節が逆になり、赤い日、黒い日が出たり、』
○『28宿の星座、星宿の運行が狂う、妖星・彗星が現れたり、』
こういった記述によって表わされているものが、具体的には、何を意味するかということです
これらが尋常一様の天変地異でないとことは、その内容からも明らかです
つまりこれらは地球規模の異変というよりは、むしろ全宇宙的な規模の異変と考えるのが妥当であろうということです
要するにこれ等の記述を、上に述べたような宇宙の収縮の始まりの時の出来事と関連させて捉えると、いろいろな点で辻褄が合ってくるということです

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて、これを単独で紹介しても、あまりにも漠然としていて、結局は、ただのお話の世界になってしまいます
傍証の一つに過ぎません
従って、確かな方向性を指し示すものにはなり得ません
ところが実は、『聖書』の中からも、これと同じような内容の記述を見つけだすことが出来るのです
そうなるとこれは、ただのお話の世界ではなくなります
上に紹介した内容が、にわかに現実味を帯びてきます

『聖書』のマタイによる福音書・24の中には、イエス・キリスト自身が語った言葉として、次のようなものが記されています
ある時、イエス・キリストが、弟子達から尋ねられたことに対して答えたものです
これとほぼ同じ内容のものが、他の弟子達の福音書の中にも記されていますから、どうやらこれは大衆の面前で語られたもののようです

イエスは、まず、 『−−これらすべての物を見ないのか
はっきり言っておく
一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』

こう言って、その後に起こる悲惨な状況を、いろいろと説明します
ただしあまり具体性が無いために、それが実際にどのようなことを指すのかよくわかりません
これは釈迦のときと同じです
弟子達がもっとよく確認しながら聴いておいてくれればいいのにと、いまさらグチってもしょうがないのですが
どうして偉い人の取り巻きってのは、いつもこうなんだろう
まったく!!(--;)

さて、多くの部分は、それが何を意味するのかよく分からないのですが、しかし、その中に、次のようなものがあります

    『 その苦難の日々の後、たちまち
     太陽は暗くなり、
     月は光を放たず、
     星は空から落ち、
     天体は揺り動かされる』

これは大いに注目しなければならない部分です
先ほどの釈迦の言葉と同じように、全宇宙的な規模での異変が生じると言っているからです
『星は空から落ち、天体は揺り動かされる』というのは、当然のことながら地球的な規模の異変ではありません
「天体」という言葉が示すように、全宇宙的な規模で生じる大異変を指します
しかもイエスは、さらに次のように続けるのです
『−−はっきり言っておく
これらのことがみな起こるまでは、この時代は 滅びない
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない』

ここでは明確に、「天地は滅びるが、−−」と言っています
要するに、この世界は間違いなく滅びると言っているのです
世界が滅びるということは、すなわち無くなるということです

このようにして、釈迦が言ったこととイエス・キリストが言ったことを並べてみて気付くことは、両者とも「全宇宙的な規模で生じる異変」について語っているということです
また釈迦にしてもイエス・キリストにしても、彼らにはその時の様子が、かなりはっきりと見えていたようだということです
従って、釈迦もイエス・キリストも「究極の未来」で生じるところの、同一の出来事を見ていたのではなかろうかと考えられるわけです
つまりこれこそは拡散・膨張を続けているこの宇宙が、いずれ収縮へと転じた時に生じる出来事ではなかろうかというこということです
このように考えると、宗教上の思想と最先端の宇宙理論とが、はからずも一致して来ることになります
ただし現代科学のほうは、ようやくその足元に辿り着いたにすぎないといった状態なのです



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====参考文献終わり====






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