この神示(ふで)読んでうれしかったら、人に知らしてやれよ、しかし無理には引張って呉れるなよ。この神()は信者集めて喜ぶやうな神でないぞ、世界中の民みな信者ぞ、それで教会のやうなことするなと申すのぞ、世界中大洗濯する神()ざから、小さいこと思うてゐると見当とれんことになるぞ。一二三祝詞(ひふみのりと)するときは、神()の息に合はして宣(の)れよ、神()の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。しまひだけ節(ふし)長くよめよ、それを三たびよみて宣りあげよ。天津祝詞の神ともこの方申すぞ。七月十五日、一二 。 |
この神示(ふで)読んでうれしかったら、人に知らせてあげなさい。しかし無理には引張らない様にしてください。
この神太陽(ミロク)は信者集めて喜ぶような神ではありません。世界中の民がみな関係することなのです。それで教会のようなことをするなと申すのです。太陽(ミロク)は世界中を大洗濯する神ですから、小さいこと思っていると見当とれないことになります。
一二三祝詞(太陽の文を祝う言葉・ひふみのりと)するときは、太陽達の活動に合わして宣(の)ってください、太陽の活動・「終末と太陽の検証」に合はすのは三五七、三五七に切って宣ってください。
しまいの言葉だけ節(ふし)長くよんでください、それを三度読んで宣りあげてください。天津祝詞の神とも太陽(ミロク)は申します。
七月十五日、一二 。
氷治氏この帖では ミロクの方針のような物が語られています。「来るものは拒まず、去る者は追わず」宗教をやるつもりはないので、教会のようなことはしないのです。最後に、ミロクは 「天津祝詞の神」とも呼ばれていると説明してあります。ここで、「天津祝詞の神」とは 天津祝詞(神さまの宇宙創造の祈りの言霊)の神というような意味のようです。 「天津祝詞の神」の参考資料 『如此(カク)出(イデ)ば、天津宮事(アマツミヤゴト)以(モチ)て、天津金木(アマツカナギ)を本打切(モトウチキリ)末打断(スエウチタチ)て、千座置座(チクラノオキクラ)に置足(オキタラ)はして、天津菅曽(アマツスガソ)を、本刈断(モトカリタチ)末刈切(スエカリキリ)て、八針(イヤハリ)に取辟(トリサキ)て天津祝詞(アマツノリト)の太祝詞事(フトノリトゴト)を宣(ノ)れ』 天津宮事(アマツミヤゴト)以(モチ)てとは、天(神さま)の宮(大宮殿・全大宇宙)の事象(働き・出来事・すがた)を、借りて持って来て、模型として縮図的に移して。即ち一瞬一瞬新たに、神さまの全徳が、一大統一・一大調和の姿をもって、無限の無限の大光明燦然と輝き渡り、最高理想の全大宇宙と成っている、その姿を模型的に表して。 天津金木を本打切末打断て、千座置座に置足はしてとは、天津金木(宇宙創造の根本の仕組み・働きを、極簡単に示す為の道具・模型)を、無限大に・無限小に伸展する部分をカットして、種々様々な組織構成の仕組み・働きとして、表現し・配列すること。神さまの宇宙創造は本来、すべてのすべてを尽くした表現なので、無限に無限に複雑なのです。だから無限の無限の全大宇宙を、一枚の地図に表そうとするようなものです。 天津菅曽を、本刈断末刈切て、八針に取辟てとは、天津菅曽(神さまの命・光の流れを模型的に示すもので、草の茎の繊維を代用する)を、無限大に・無限小に伸展する部分はカットして、命・光の流れ・分かれを、模型的に表現すること。 天津祝詞の太祝詞事を宣れとは、天津祝詞(神さまの宇宙創造の祈りの言霊)即ち神さまの全徳の無限の無限の輝きが一杯!の祈りを、そのままに表現できる言葉が太祝詞事であって、その言葉を駆使して祈ることです。太とは、大を重ねたもので、無限に無限に大きい、という意味です。またすべてを束ねる意味も有るのです。祝詞とは、祈り言葉のことです。事(ごと)とは、言(コト)言(コト)であって、沢山の言葉という意味です。 天津祝詞の太祝詞事とは、 (1) 『ありがとうございます』 (1)(2)(3)(4)を一つに束ねた(1)『ありがとうございます』なのです。 『ありがとうございます』という言葉は、唯一無二絶対の・すべてのすべてなる・真の神さまの、究極の御名なのです。真の神さまのすべての働き・全体像を指し示す言葉なのです。『ありがとうございます』と唱えることは、真の神さまを呼んでいるのです。呼ばれたら、真の神さまは、喜んで出て来てくださるのです。真の神さまは、呼ばれるのを待っているのです。対面できるのを、心待ちにしているのです。全知全能の真の神さまが現れたら、すべての問題は瞬時に解決するのです。一切の罪穢れは、瞬時に消えるのです。既に既に、新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!なのです。 ロックさん一二三祝詞に関する作法のようなものもありますが、こういう内容はよくわかりません。一二三祝詞の言うような内容はひふみの云う三五七、三五七に切って宣ることが神の息に合わせる事になるということなのでそのように素直に読むようにしておきます。実際に何か三五七、三五七に沿うようなことを行動として出来れば、答が出るのかなとも思います。 個人としては、現在が解読三巡目なので思うことですが、祝詞と同じようなもので、解読なども終末は悲壮なことが多そうだけれども、その中でこの神ミロクのもとで、次の世のことや目出度いことを見出そうとするところでは一致しそうなので、三度読むこと、大まかには厳密な回数ではなく、見る、観る、悟るの段階に至ることが出来た時に視野も広くなっていて、終わってみれば感謝の言葉で一杯になるというような意味合いがあるのかなとも思ったりしました。 |
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