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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三488

青葉の巻 第19帖 (488)

 此の度の岩戸開きに御用に立つ身魂ばかり選(え)り抜きて集めて行さして御用に使ふのであるから、他の教会とは天地の違ひであるぞ、今度は人民の心の底まであらためて一々始末せねばならんなり、誰によらん、今迄の様なゼイタクやめて下されよ。せねばする様せなならんなり、世界のハラワタ腐り切って居るのであるから愈々を致さねばならんなり、愈々をすれば人民愈々となるから、神()がくどう気つけてゐるのざぞ。此処へは善と悪とどんな身魂も引寄せてコネ廻し練り直す所であるから、チットモ気緩(ゆる)しならん所であるぞ。ここの仕組は天の仕組と地の仕組と、カミとなりホトケとなり結び と和し雲(〇)と顕れ動き、鳴り成りてマコトの世「みろく」の代と致して、この世を神()の国と致す仕組ぢゃ。今迄は天の神()ばかり尊んで上ばかり見て居たから、今度は地は地の神()の世と致すのぢゃ、天の神()は地ではお手伝ひざと申してあろが、下見て暮らせ、足元に気付けと申してあらうが、皆 地の神()尊び斉き祀りて弥栄ましませ。天の教許りではならず、地の教許りでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワとなってゐたのざぞ、カタワ悪ぞ、今度は上下(うえした)揃ふて夫婦和して、天と地と御三体まつりてあななひて、末代の生きた教えと光り輝くのざぞ。八月九日、ひつ九のかミ。

 此の度の岩戸開きに御用に立つ身魂ばかり選り抜きして集めて行をさせて御用に使うのですから、他の教会とは天地の違いなのです。今度は人民の心の底まであらためて一々始末せねばならないのです。誰によらず、今迄の様なゼイタクをやめて下さい。
 せねばする様にせねばならないのです。世界のハラワタが腐り切っているのですから愈々を致さねばならいのです。愈々のことをすれば人民は愈々となりますから、太陽達がくどく注意しているのです。
 ここへは善と悪とどんな身魂も引寄せてコネ廻し練り直す所ですから、チットモ気緩(ゆる)しならない所なのです。
 ここの仕組は天の仕組と地の仕組とで、中の雛型がカミとなりホトケとなり太陽達と結び と和し現実界に鏡の様に雲と顕れ動き、鳴り成りてマコトの世「みろく」の代(世)と致して、この世を中心と丸が調和した神()の国と致す仕組です。
 今迄は天の神ばかり尊んで上ばかり見て居たから、今度は地は地の神の世と致すのです。天の神は地ではお手伝いですと云ってあるでしょう。下見て暮しなさい。足元に気付きなさいと云ってあるでしょう。皆 中心力である地の神(太陽)を尊び斉き祀りして弥栄ましませ。
 天の教許りではならず、地の教許りでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワ(片輪)となっていたのです。カタワは悪です。今度は上下(うえした)揃って夫婦和して、天と地と和合した天地(あめつち)の御三体となりそれを掲載し支えにして、末代の生きた教と光り輝くのです。
 八月九日、ひつ九のかミ。


解説と補足説明

  • ゆるむぞー(yuru63):2023/07/11
     ・カタワ(片輪)の状態

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    ・天地(あめつち)の御三体イメージ(天・レンズ・地)


年月日

昭和二十二年八月九日
 旧閏六月二十三日(1947年)

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