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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三50-025

碧玉の巻 第10帖 (025)

 岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。

 岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時なのです。ナミの神が火【ひ(1)】の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもなのです。神界の十の卵(0~9を合わせた10の次元)を 現実界に八つ(8の次元のみを)生んで二つ残して行かれたのです。十二の卵を十生んだことにもなるのです。五つの卵を四つ生んだとも言えるのです。総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことなのですが、それでちゃんと道(道理)にはまっているのですよ。一ヒネリしてあるのです。天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々に判ってくるのです。↓



 夫神、妻神が、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理は、判るでしょう。
 その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのですが、それが一方的であることは云う迄もないことでしょう。妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育てなさったのですよ。この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う(天と地が一体となる)時節が来たのですよ。うれしうれしの時代となって来たのです。
 同じ名の神が到るところに現われて来るのです。名は同じでも、天と地ではレンズにより正反が入れ替わり逆の数列になっている(上の図を参照)ように、はたらきは逆なのです。この二つの陰陽の神達(同じ名であるが働きは逆の「天の神達」と「地の神達」)がそろって、その中心を含めると三つとなるのです。陰と、陽と、中心がある「三」が道ですと知らせてあるでしょう。
 時が来たのならば この千引の岩戸(中心の光)を倶にひらきましょうと云ってあるでしょう。
 次の岩戸しめは天照大神の時です。大神はまだ岩戸の中に座しておられます。
 ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましですと知らせてあるでしょう。
 いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神【太陽(ミロク)】という天の理(ミチ)をこの世に現す神達が、揃ってお出ましするのが近くなって来ました。
 次の岩戸しめは素盞鳴命である太陽達の導いた情報に総ての罪をきせてネの国に追いやった時なのです。素盞鳴命とは天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)のある『神ミロクのサイト』なのです。
 天ヶ下(あめがした)という宇宙から見た地上世界を太陽(ミロク)が説明していることは、神サタンの地球劇場という重きもの情報が積み重なって「終末と太陽の検証」として固まったものですからツミと見えるのであって、本当は万(よろづ)の天の神々が計画し神々の力が積もる(と言ふ)ツミ(積)の結果であることをよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったのです。太陽(ミロク)【命(みこと)】をアラブル神なりと云って伝えているのですが、アラブル神とは粗暴な神ではないのです。「都市攻撃」や「ノアの大洪水」を予言して、あばれ廻り、こわし廻る神ではないのです。アラフル(現生る)神すなわち現実界に降臨され、現在に生きている神なのです。天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるのです。取違いしていて本当に申しわけないでしょう。
 このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せないのです。
 太陽(ミロク)は、絶対の御力を発揮し給うナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神なのです。
 素盞鳴の命にも二通りあります。一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神(太陽のサイト)と二通りあるのです。間違えてはならないことです。
 神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なき迄の御働きをなされたからです。
 神の世から人の世への移り変りの事柄(真実)を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのですから、大きな岩戸しめの一つなのです。
 仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしていたのですが、仏教と共に仏魔がわたって来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのです。その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのです。これが五度目の大きな岩戸しめであるのです。


解説と補足説明

  • yuru63:2015/04/28
     岩戸開きが、天地一体となる事に対して、岩戸しめが一方的となる事となっています。
     地上世界が五度の大きな岩戸しめにより、天地と調和していない状態であるなら、岩戸開きが近づいているとすれば、少しでも天地と調和した状態になっていかなければ、存在が難しくなってくるのかもしれません。そういう意味でも、地上世界に居る我々は常に歪みに接することもあり、仮に歪みを受けても、少しでも直していくようにすることが必要になってきます。


年月日

昭和三十六年五月六日
 旧三月二十二日(1961年)

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