本文へスキップ

フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

天空編情報天使のつぶやき4689

終末と太陽の検証

石ものいう〜関連の帖+石、木、草が含まれる帖 

julaさんのメール

jula です。

石だけだと色々と意味やら何やらがクロスオーバーしていそうで、一つに特定断定はできません。


川の石

神石

御神石

まもりの石

草、木、石

石ものいうとき

それぞれ意味とか違っていそうです。

ただ、石ものいう〜の時は特定の用法であったりタイミングと関連していそうです。

ですので、石ものいう〜関連の帖+石、木、草が含まれる帖に絞り込んでみました。


下つ巻 第03帖 (045)

下つ巻 第16帖 (058)

天つ巻 第27帖 (134)

地つ巻 第15帖 (152)

日の出の巻 第01帖 (214)

日の出の巻 第16帖 (229)

磐戸の巻 第11帖 (247)

松の巻 第05帖 (296)

松の巻 第28帖 (319)

夜明けの巻 第05帖 (325)

雨の巻 第17帖 (351)

黄金の巻 第047帖 (558)

黒鉄の巻 第25帖 (643)

春の巻 第02帖 (659)

春の巻 第10帖 (667)

春の巻 第30帖 (687)

月光の巻 第07帖

月光の巻 第13帖 (800)


ひふみ神示 第二巻 下つ巻 第三帖(45)

昭和十九年七月十三日、

旧五月二十三日(1944年)

この神のまことの姿見せてやる積りでありたが、人に見せると、びっくりして気を失ふもしれんから、石にほらせて見せておいたのにまだ気づかんから木の型をやったであろうがな、

それが神の或る活動の時の姿であるぞ、

神の見せ物にしてはならんぞ、

お山の骨もその通りぞよ、

これまで見せてもまだ分らんか、

何もかも神がさしてあるのぞ。

心配いらんから慾出さずに、

素直に御用きいて下されよ、

今度のお山開き まことに結構であるぞ、

神が烈しくなると、神の話より出来んことになるぞ、

神の話 結構ぞ。

七月の十三日、

ひつ九のかみ。


知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、

さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、

さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、

イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。

日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。

今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。

神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、

悪の神わたりて来てゐるから、

いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。

神の国ぞと口先ばかりで申してゐるが、

心の内は幽界人(がいこくじん)沢山あるぞ。

富士から流れ出た川には、

それぞれ名前の附いてゐる石置いてあるから縁ある人は一つづつ拾ひて来いよ、

お山まで行けぬ人は、その川で拾ふて来い、

みたま入れて守りの石と致してやるぞ。

これまでに申しても疑ふ臣民あるが、

うその事なら、こんなに、くどうは申さんぞ。

因縁の身魂には神から石与へて守護神の名つけてやるぞ。

江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。

てん四様を都に移さなならん時来たぞ。

江戸には人住めん様な時が一度は来るのぞ。

前のやうな世が来ると思うてゐたら大間違ひぞ。

江戸の仕組すみたらカイの御用あるぞ。

いまにさびしくなりて来るぞ。

この道栄えて世界の臣民みなたづねて来るやうになるぞ。

七月の二十一日の夜、ひつ九のか三。

下つ巻第16帖 (058)


石物いふ時来るぞ、

草物いふ時来るぞ。

北おがめよ、

北光るぞ、

北よくなるぞ、

夕方よくなるぞ、

暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、

五六七(みろく)の世となるぞ。

慌てずに急いで呉れよ。

神々様みなの産土(うぶすな)様 総活動でござるぞ、

神々様まつりて呉れよ、

人々様まつりて呉れよ、

御礼申して呉れよ。

九月十二日、

一二か三。

天つ巻 第27帖 (134)


神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、

学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、

くどう申しているのざぞ。

臣民物言はなくなるぞ、

この世の終り近づいた時ぞ。

石物言ふ時ぞ。

神の目には外国もやまともないのざぞ。

みなが神の国ぞ。

七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、

一つの王で治めさすぞ。

てん詞様が世界みそなはすのざぞ。

世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、

盲つんばばかりと申してもあまりでないか。

九月の二十三日、ひつ九のか三。

地つ巻 第15帖 (152)


日の出の巻 第01帖 (214)

春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、

草木許りでないぞ、

何もかも もえ出づるのぞ、

此の方の申す事 譬(たとへ)でないと申してあろが、

少しは会得(わか)りたか。

石もの云ふ時来たぞ、

此の道 早く知らして呉れよ、

岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、

那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、

天照大神の時、

神武天皇の時、

仏来た時と、

大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、

その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。

愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場ざぞ、

否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ。

十二月一日、一二

日の出の巻 第01帖 (214)


ひふみ神示 第七巻 日の出の巻 第十六帖(229)

昭和十九年十二月十九日、

旧十一月五日(1944年)

悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様御出でましぞ。

此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、

容赦(ようしゃ)は無いのざぞ、

それまでに型さしておくぞ、

御苦労なれど型してくれよ。

ヤの身魂 御苦労、

石なぜもの言はぬのぞ、

愈々となりてゐるではないか、

春になりたら何んな事あるか分らんから今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ、

神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、

気つけておくぞ。

十二月十九日、一二


ひふみ神示 第八巻 磐戸の巻

第十一帖(247)

昭和二十年一月十三日、

旧十一月三十日(1945年)

心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、

神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、

判らんと申してあまりであるぞ。

ゴモク吐き出せよ、

其の儘にしておくと段々大きくなりて始末にゆかんことになりて、

しまいには灰にするより、手なくなるぞ、

石流れて、木の葉沈むと申してあろが、

今がその世ざぞ。

改心してキレイに掃除出来たら、千里先にゐても、ひつきの神とたのめば何んなことでもさしてやるぞ、

この神は世界中何処へでも届く鼻もってゐるのざぞ、

この世つくりたこの神ざ、

この世にわからんこと一つもないのざぞ、

神の御用さへつとめて下されたら、

心配ごとが嬉し嬉しのこととなる仕組ざぞ、

日本臣民ばかりでないぞ、

何処の国の民でも同様に助けてやるぞ、

神にはエコがないのぞ。

一月十三日、

の一二か三。

使用された特殊文字 


ひふみ神示 第十一巻 松の巻 第五帖(296)

昭和二十年六月二十一日、

旧五月十二日(1945年)

この先どうしたらよいかと云ふ事は、

世界中 金(かね)の草鞋(わらじ)で捜しても九九(ここ)より他 分からんのざから、

改心して訪ねて御座れ。

手取りてよき方に廻してやるぞ。

神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、

もの活かせば、経済も政治も要らんぞ。

金もの云ふ時から、

物もの云ふ時来るぞ。

誠もの云う時来るぞ。

石もの云ふ時来るぞ。

六月二十一日の朝、

アメのひつ九のかみ神示。


保食(うけもち)の神祀らづに、いくら野山拓いたとて、物作ることは出来ないぞ。

煎(ゐ)り豆 花咲く目出度い時となってゐるのに何して御座るのぞ。

いくら人民の尻叩いて野山切り拓いても食物三分むつかしいぞ。

神々まつれと申してあろが、

野拓く時は野の神まつれ。

物作る時は保食の神まつれ。

産土の神様にもお願ひしてお取次願はな何事も成就せんぞ。

人民の学や智ばかりで何が出来たか。

早よ改心第一ぞ。

山も川も野も人民も草も木も動物虫けらも何もかも此の方の徳であるぞ。

それぞれの御役あるのざぞ。

学や智捨てて天にむかへ。

地にむかへ、

草にむかへ、

生物にむかへ、

木にむかへ、

石もの云ふぞ。

草もの云ふぞ。

七月十八日、

あめのひつくのかみ。

松の巻 第28帖 (319)


何もかも神示読めば判る様になってゐる事 忘れるでないぞ、

此の仕組 云ふてならず、

云はねば判らんであろうなれど、

神示読めば因縁だけに判るのざぞ。

石物云ふ時来たぞ。

山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、

型せと申してあらうが、

いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、

早よ型してくれよ。

型結構ぞ。

何もかも神人共にするのざぞ。

夜明けたら、何もかもはっきりするぞ、

夜明け来たぞ。

十理(トリ)立てよ。

七月二十八日、

あめのひつくのかみ神示書。

夜明けの巻 第05帖 (325)


天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、

王の王はタマで御現はれなされるのざぞ。

礼拝の仕方 書き知らすぞ、

節分から始めて下されよ、

先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、

又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言(こと)高くのれよ、

又キ整へてひふみ三回のれよ、

これはこれは喜びの舞、

清めの舞、

祓の歌であるぞ。

世界の臣民 皆のれよ、

身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、

身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、

終って又キ整へて一二三四五六七八九十、

一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ、

神気整へて天(アメ)の日月の大神様弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、

これは祈るのざぞ、

九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、

終りて八拍手せよ、

次に雨の神様、風の神様、

岩の神様、

荒の神様、

地震の神様、

百々(もも)の神様、

世の元からの生神様、

産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、

終りてから神々様のキ頂けよ、

キの頂き方前に知らしてあろがな、

何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、

病なくなる元の元のキであるぞ、

八度繰り返せと申してあろ、

暫くこのやうに拝めよ、

神代になる迄にはまだ進むのざぞ、

それまではその様にせよ、

此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、

さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、

大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。

新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ。

神の心となれば誠判るぞ。

誠とはマとコトざぞ、

神と人民 同じになれば神代ざぞ、

神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ。

雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ何して御座るのぞ、

自分のものとまだ思ってゐるのか。

御恩とは五つの音の事ざぞ、

御音(恩)返さなならんのざぞ、

此の事よく考へて間違はん様にして下されよ。

此の巻は雨の巻ぞ、

次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれよ、

事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよいぞ。

役員皆に手柄立てさしたいのぢゃ、

臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、

待たれるだけ待ってゐるのぢゃ、

一人で手柄は悪ぢゃ、

分けあってやれよ、

手握りてやれよ。

石もの云ふぞ、

十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ。

神の仕組の世に出でにけり、

あなさやけ、

あな面白や、

五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄。

十二月十九日、

ひつ九のかミ。

皆出てござれ

それぞれにうれしうれしの御用いくらでもあたえてとらすぞ

この巻かぜの巻 

ひつ九のかみ 

十二月十六日

雨の巻 第17帖 (351)


ナルとは成る言(コト)ぞ。

成るは表、

主(曰(シ)ゆ)ぞ。

ウムとは(ウム)のこと。

生むは裏、従(二ゆ)ぞ。

ナルは内、ウムはソト。

ナルには内の陰陽合せ、

ウムにはソトの陰陽合せよ。

成ると生むは同じであるぞ。

違ふのぢゃぞ。

成ることを生むと申すことあるぞ。

生むこと成ると見ることあるぞ。

ナルとは(ナル)こと、

自分が大きく成ることぞ。

自分の中に自分つくり、

内に生きることぞ。

ウムとは自分の中に自分つくり外におくことぞ。

このこと判れば石屋の仕組判る。

(十一月裏四日)

一二十

黄金の巻 第047帖 (558)


ひふみ神示 第二十六巻 黒鉄の巻 第二十五帖

昭和二十五年一月二十二日、

旧十二月五日(1950年)

心は草にも木にも石にもあるぞ。

天にまたたく星にもあるぞ。

ただ薄いか厚いかの相違であるぞ。

の中のに悪は入れんのであるぞ。

外のの中に、外の智の中に悪が入るのぢゃ。

人間の智の中には悪も善も入るぞ。

入るからこそ、これは善ぢゃ、これは悪ぢゃと判るのぢゃ。

人間の自由は其処にあるのぢゃ。

自由なければ発展ないぞ。

弥栄ないぞ。

霊を信ずる者は霊と語り、肉を信ずる者は肉と語り得るのぢゃ。

人間そのものから湧き出づる喜びは無いぞ。

よく心得なされよ。

(一月二十二日),黒鉄の巻 第25帖 (643)

使用された特殊文字 


カミヒトと申すのは、

神の弥栄のため、

世の弥栄のため祈り、

実践する人のことであるぞ。

神のため祈れば神となり、

世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。

自分のためばかりで祈れば迷信、

われよしの下の下ぞ。

誰でも霊かかりであるぞ。

石でも木でも土でも霊かかりぞ。

これは一般かみかかりであるぞ、

特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。

九分通りしくじるのぢゃ。

太陽の光集めること知っているであらうが。

神の理(ミチ)をよりよく、

より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。

理(ミチ)であるぞ。

世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。

悪かみかかりに迷ふでないぞ。

サニワせよ。

外はウソが多いぞ。

内の声ウソないぞ。

旧、元旦、

日月神。

春の巻 第02帖 (659)


一切のものは(ウズ)であるぞ。

同じことくりかへしているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、

一段づつ進んでいるのであるぞ。

木でも草でも同様ぞ。

前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな。

行き詰りがありがたいのぢゃ。

進んでいるからこそ、行きあたり行きつまるのぢゃ。

省みる時与えられるのぢゃ。

さとりの時与えられるのぢゃ。

ものは、はなすからこそ掴めるのぢゃ。

固く握って戸しめていてはならんのう。

扉あけておけと申してあろうが。

着物ぬいで裸体となること つらいであろうなれど、ぬがねば新しい着物きられんぞ。

裸になってブツカレよ。

神様も裸になって そなたを抱いて下さるぞよ。

重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。

春の巻 第10帖 (667)


ひふみ神示 第二十七巻 春の巻 第三十帖

昭和二十七年二月一日、

旧一月六日(1952年)

宇宙のすべてがつながりであるぞ。

石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。

手と頭のようなもんぢゃ。

拝み合へよ。

親しみ合へよ。

和せよ。

和すと自分となるのぢゃぞ。

自分 大きく、明るくなるのぢゃ。

豊かにうれしうれしぢゃ。

赤いものの中にゐると赤くなって行く。

理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。

神の光がいただけるのぢゃ。

二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。

神は解らん。

体験せねばならん。

一方的では何事も成就せん。

もちつもたれつであると申してあろう。

春の巻 第30帖 (687)


月光の巻第七帖(794)

大奥山は神人交流の道の場である。

道は口で説くものではない。

行ずるものである。

教は説かねばならない。

多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。

投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。

世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。

それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。

人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。

ぢゃと申して独裁ではならん。

結果から見れば神裁ぢゃ。

神裁とは神人交流によることぞ。

(十二月二十五日)

神はうそつきぢゃと人民申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、

こらえられるだけこらえてゐるのである。

もう、ものばかりでは治まらんこと、キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、

気の毒が来ぬ前に改心結構。

遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。

よくこの神をだましてくれたぞ、

この神がだまされたればこそ、

太神の目的なってくるのぢゃ。

細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。

区別すると力出るぞ、

同じであってはならん。

平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。

天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。

霊かかりもやめて下されよ。

人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。

科学を更に浄化弥栄させねばならん。

空間、時間が霊界にないのではない。

その標準が違うから無いと考えてよいのである。

奥山は奥山と申してあろう。

いろいろな団体をつくってもよいが、何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。

奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。

奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。

大き一つではあるが別々ぞ。

今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。


月光の巻第十三帖(800)

木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。

人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。

宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。

一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。

裏ばかりのものもない道理。

数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。

順序が判れば初段、和に徹すれば名人。



 >>戻る