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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第11帖 (388)

 

 霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得るのです。
 同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通しています。
 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのですから、そのままにして通ずるのです。
 しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえません。
 それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよいです。
 またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのです。
 即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人が如何なるものなのかは、直ちに判明するのです。
 霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様でありますが、その表現は相違しています。
 故に、霊人と地上人とが会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならないのです。
 しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのであります。
 原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立している行為となり、且つ一つの独立している生きものとなって現われ、行為し、生命するからなのです。
 言葉そのものが弥栄であり、生命なのです。
 また総てであるということは、地上人には理解できないでしょう。
 それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であるということは、理解するのに極めて困難なのです。
 だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのですから、理解することは困難ですが不可能ではないのです。
 霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもありますが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得るのです。
 歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵しています。
 故に、柔らかくして連続的であり、太陽の (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができます。
 また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵しています。
 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせます。
 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせます。
 また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出しています。
 また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられています。
 そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっているのです。
 しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の ゝ をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのです。
 霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的であります。
 それは、言葉そのものが このような内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現であるが為です。
 またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっています。
 即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としていますが、その補助律としては、千変万化であります。
 言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっているが如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのです。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)
 
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