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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

一二三の検証編太陽の検証

一二三50-021

碧玉の巻 第06帖 (021)

 わざわひと言ふものは無いのであるぞ、光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるのぢゃ、影がさすのぢゃ、禍とか悲しみとか言ふ くらい(暗い)ものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。この世の大泥棒をタカヤマぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。

 災い(わざわい)と言うものは無いのです。光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるのです。影がさすのです。禍とか悲しみとかいう くらい(暗い)ものがないのがマコトなのです。中心は無限・目に見えない【無】と云ってあるでしょう。
 中心は見えないから、判らないから、外のカスばかり見ているからつまらないことで、つまらないことが起ってくるのです。その見えぬ力が永遠の生命と現われるのです。見えるものは有限です。
 この世の大泥棒をタカヤマ(高い力による現れ)だと言って、この世を自由にさせておいてよいのですか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならないのです、そこから正さねば外側からばかり清めても何もなりません。


解説と補足説明

  • yuru63:2015/06/25
     「元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならない」
     これを実践することは大変有意義なことでしょう。
     この世の大泥棒の誤誘導に引っかからないための方法なのかもしれません。


年月日

昭和三十六年五月六日
 旧三月二十二日(1961年)

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