先日から立体について考えていました。
この世界は立体の世界です。
そして立体の円の世界ともいえます。
立体に不可欠な3つの要素は、下の図の様に、「x軸」と「y軸」と「z軸」があります。
この世の物は全て陰と陽で成り立っているので、「x」方向があれば、すなわち「-x」方向が存在しています。
同様に「y」方向があれば「-y」方向がある。
「z」方向があれば「-z」方向がある。
整理すると。
「x」,「-x」,「y」,「-y」,「z」,「-z」の六つの要素があることは誰もが承知しているのです。
しかし「立体の円」を考えねばならないようです。
円を描こうとするとき、皆さんはどうしますか?
「コンパスで針を刺して、外側をぐるりと…」
針を刺したところは?
「円の中心」
という様に「中心」という要素が必要不可欠なのでした。
「中心」があれば「周り」があります。
つまり「内」と「外」、「球の中心」と「球の外面」という要素があったのです。
これで要素は八通りとなりました。
ここからが「神の数学」の本領発揮です。
佐藤氏の『「神の数学」サイト』ではこのように述べられています。
http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/syougen2.html
0の本質とはすなわち、完全になる、まったく瑕疵がない状態、すなわち、完全無垢な状態、完成された状態になって鎮まる、動きの無い中和された円満の姿、それが0の状態なのである。それが大完成の姿であり、完全究極の姿なのである。その姿が0(○)であり、球であり、古神道の神の?姿 (○チョン)と言うものである。 「陰の象」と「陽の象」を合わせると9と言う最大限界の数になり、それが同時に最小限界の0を示すことをすべてのもの(数)は物語っているのである。一体それは何を意味し、どのようなことを示唆し、教えようとしているのであろうか…!?。 それはまさに、古代インドの数学にある0の説明そのものであり、まったく同じものである。そこには「0とは無、空虚、エンプテイ、すなわち「何も無い」の意味をあらわすと同時に、もう一つの満タン、充満(プルナ-)、フルの意味を合い持っている」とはっきり記されているのである。何と言うこと…!!。それはまさに「神の数学」の0の姿であり、<0=9>の姿そのものではないのか…!!。 |
立体の円の「陰」と「陽」を含む全ての要素を和した「充満」という「空洞ではない球」の九つ目の要素があったのです。
「充満(九つめの要素)」は「特定の要素が何もない」ので「0」となるではありませんか(@@)。
つまり「9=0」が成り立ったのでしょうか。
立体の円の要素を整理すると、
立体の円の要素「x」,「-x」,「y」,「-y」,「z」,「-z」「中心」、「球の外面」、「充満」 |
「9=0」は自然そのものを表すのになぜか、現代科学の考え方では理解できない。
「0=9(9=0)」というものは、本当はすごく当たり前に存在していて、
なおかつ尊ぶべき仕組を示しているのだと思うのです。
『「神の数学」サイト』よりhttp://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/syougen2.html『ひふみ九九算表』の不可思議な「数の走り(リズム)」を見る
一体今まで誰がこのような不可思議極まりない「数の走り」に気がついたであろうか…!。まさにそれは、「神の手の業」であり、人為では到底及びのつかないものである。まずは心を無にして神の手さばきをじっくりと見てみよう、ここに流れる整然とした「数の仕組み」は一体何を物語っているのであろうか…?!、果たして、我々がそれをひも解き神の意中を知ることが出来るのであろうか…?!。我々は十分にこの中身を吟味し、そこにある真実を解明しなければならない。まさに人類の未来がかかっているものと言ってもいいものである…!!。 『ひふみ九九算表』図詳解<1> ≪天+地=0の証明≫ その① この図の中の中心線をはさんで天と地の位置にある相対的な各数列を加算する、するとすべては999999…となって大完成への道を告げるのである。また、999999…は定則<0=9>によりすべては0に収束収斂することになるのは今まで述べた通りである。 要するに、これらの0の表れとはすべては本質が0であることを示すものである。しかし残念ながら、今のところ0の本質とは何かについては誰も語ることの出来ず、全く不明な状態なのである。 今までの学者達の説明によると0になるということは「空」になる、「無」になって「なくなる」、「存在しない」との説明があるだけで、それ以上の説明は一切無い。しかし、それは部分的には誤りであり、不完全なものである。実際の象はそんなものではない、0の本質とはすなわち、完全になる、まったく瑕疵がない状態、すなわち、完全無垢な状態、完成された状態になって鎮まる、動きの無い中和された円満の姿、それが0の状態なのである。それが大完成の姿であり、完全究極の姿なのである。その姿が0(○)であり、球であり、古神道の神の?姿 (○チョン)と言うものである。 ⑤+⑥=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 ④+⑦=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 ≪天(陰)+地(陽)≫=0 ③+⑧=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 (すべては大完成の姿) ②+⑨=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 (判るかな…、??。) ①+⑩=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 《天=「あの世」、地=「この世」》 (0=9より)、 この大完成の本当の意味を知りたいならば、サイコロの目を用いて調べるがよい。そこにある●(ドット)はまさに数の初めの姿であり、原始の数そのものである。そしてそれは万国共通、いや、全宇宙自然世界の共通とも言ってもいい数象であり、普遍象形文字なのである。今、その面影を残しているもは今やただ「サイコロ」があるだけであり、どの時代、どの民族、どの人種を通しても理解出来る「数の認識文字」、「数のパタ-ン文字」と言うものである。ただし、現在のサイコロではまったく駄目であり、話にならないことを知ってほしい。なぜならば現在のサイコロは目が斜めの西洋式サイコロであり、自然の数のあり方、その基本の形などを完全に無視し、自然を逸脱したものだからである。 元来、何事でも西洋のものは見せかけや華美に流れ格好はいいが実質を伴わないものが多い。それに比べて古式を尊び、頑固一徹に道筋を踏み外さず守り通しているものが日本のものであり、その日常的にある姿なのである。 これらの次第と姿を日本式サイコロで次々と検証していくと、そこには現代物理学の最先端であるモ―リス・ディラックの「陽電子理論」を説明する最良のモデルともなることが分かるのである。少々そのあたりを述べておきたい、彼の「陽電子理論」とは電子と陽電子の関係とは凸と凹の状態にあるものであり、まさに「陰」と「陽」の二元論を地で行くものである。要するに、電子は球であり、陽電子とは電子の納まる容器、すなわち、孔(穴)のような存在と考えて理論を展開している。要するに、その二つが引き合い合一結合してピッタリとはまり込むと凸と凹は平坦になって見えなくなり「有るけど、無いもの」、すなわち、「空」、「無」、になると述べているのである。それと同じ状態をこの日本式「サイコロの目」が上手に語り、その姿や次第を巧みに演出しているのであるが、そのあたりは是非知るべきであり、考えて心に入れておくべきである。なぜなら<0=9>のと言う不可思議な事象さえも簡単に説明がつくからである。 面白いではないか、脈々と庶民の中で生き続けてきた日本式サイコロが現代科学も及ばない自然の真実事象を告げているとは…!!。それはまさしく古代日本の知の構図であり、そこに脈々として流れて止まない伝承の大いなる姿と言えるものであろう。
これはまさに古式ゆかしき日本発の叡智の発露であり、その伝承の奥深さを物語るものであろう。考えて見ると、たかが「サイコロの目」、されど「サイコロの目」と言われては来たが、それはまさに、「神の目」であり、「真実の目」の確かな存在を謳っているものである。古の人々は直観的な洞察力に優れ、すべてを見通す力があったのか、それとも遥か遠い超古代の「叡智」を引き継いで現在に至っているのか、恐らく、そのどちらかであろう。今はただただ恐れ入り、ただ畏まるだけである。 不思議なことはまだある、例えば、サイコロを二つ使い、それを転がしてその数の合計を見てものごとを決める、出た目は9であれば「カブ」と呼んで最高の数として有り難がり、10が出たならそれは最低の数としてさげずみ、「ブタ」と呼んで忌み嫌うのである。現代数学的な概念ではとても理解出来ない数の不思議な性質がそこにはあるのである。確か今でも大人達が「オイッチョカブ」とか「カブ来い来い」と叫んで興奮している風景が見られ、まさに数の原風景そのものが陰の存在として遊びの中で引き継がれているのである。まさにそれは現代日本の持つ不可思議な姿であり、表には無い奇妙な姿と言えるものである。 現代科学が追いかけている自然真実の世界、これから踏み込もうとしている「神の世界」、それは今までの日本人の生活の中に当たり前のように溶け込み、知らず知らずに伝承されていたのである。何と言う素晴らしいことであり、まさに日本古代文明の存在の確かさを髣髴させて止まないものである。 『ひふみ九九算表』図詳解<2> ≪天+地=0の証明≫ その② これからあなた方は大変な「神の秘密」、すなわち、確かなる「天地の序韻」の存在の確かさ、すなわち、確実な「正陰」と「正陽」の性質をもった「天地の理」の存在の素晴らしさを見い出して吃驚仰天することになるであろう。なぜなら、あまりにも自然とは緻密、精密な仕組みをもって創られ、整然とした姿をもって機能していることを否応なく知らされるからである。現代西洋科学文明知はそれらの事実をまったく知らない、その事実を少しも解せず、ただ人知を基準にした論拠のみで人間独自の科学文明を築き上げて来たのである。それは自然の理と交わりを持たない独自の世界であり、一つのロ-カル的な片輪の世界と言ってもいいものなのである。要するに、それは自然世界とは対話不能、まったく会話が成り立たない、つまり、自然世界の秘密を解き明かすことは出来ないものなのである。 さあ、次の事実だけは知った上で更なる次の検証を行なってもらいたい、それによりすべての正図形の持つ二つの対角線とはお互いに「天」と「地」の関係、すなわち、「陰」と「陽」の関係にあり、常に相対的な関係にあることを知ることになるはずである。残念ながら、この事実の存在をはっきりと検証し、その違いを説明出来た者は人類の長い歴史を通して誰もいなかったのである。せいぜい、その違いとしては天と地、昼と夜。男と女、などの単なる正と反の事象的な言葉を掲げてそれでよしとしているだけであり、その本質を突く真の論理や根拠などは何も無いのである。この数千年間これらの事情は何も変わらず、相変わらず同じ文字や文句を連ねて説明し、人を煙に巻いて来たのである。 その本当の「陰」と「陽」のあるべき姿を語り、その二つの本質的な姿を検証してその本質を解いているものが「神の数学」であり、ここにある「数の語り」なのである。しかも、それは「神の真実」の存在とその真実を如何なく示し、教えてくれるものである。心して学んでほしい、本当の「陰」と「陽」の本質の姿とその意義のあり方の如何を……。 ではこの「ひふみ九九算表」の示す「陰」と「陽」の存在の証として、その中にある「神の語り」を取り出して検証して見ようではないか、要するに、ここにある二つの対角線を取り出しそれらを加算して真実の如何を確かめようと言うのである。これらは図と数による完全な「神の語り」であり、「数の表す神の真実」と言うものである。まさにこれは誰も反論、否定などは出来ない聖なる「自然の数象図」である。下に掲げた例題によりその本筋と数の展開の姿をしっかり学んでほしい。 右下がり対角線(陰)…… 0140770410……014077041Σ=6 or 0140720580Σ=0 左下がり対角線(陽)…… +0850220580……0850220580Σ=3 or 7041008502Σ=0 まさに驚くべき「数の語り」であり、「現代の知」の中にはまったく存在しないものである。「陰の象」と「陽の象」を合わせると9と言う最大限界の数になり、それが同時に最小限界の0を示すことをすべてのもの(数)は物語っているのである。一体それは何を意味し、どのようなことを示唆し、教えようとしているのであろうか…!?。 それはまさに、古代インドの数学にある0の説明そのものであり、まったく同じものである。そこには「0とは無、空虚、エンプテイ、すなわち「何も無い」の意味をあらわすと同時に、もう一つの満タン、充満(プルナ-)、フルの意味を合い持っている」とはっきり記されているのである。何と言うこと…!!。それはまさに「神の数学」の0の姿であり、<0=9>の姿そのものではないのか…!!。 ≪詳細は「真実の数理」(5)、(7)を参照≫ |