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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

磐戸の巻 第04帖 (240)

 太陽(ミロク)はこの世の人から見るとあく神とも現われるのです。さばきを下す閻魔とも現われるのです。アクと申しても臣民の申す悪ではないです。神には善も悪もないのです。審判(さばき)の時が来ているのにキづかないのですか。その日 その時さばかれているのです。早く太陽(ミロク)原理を理解して洗濯しなさい、掃除しなさい。理解した身魂の磐戸(ゐわと)はいつでもあくのです。善の御代が来ます。悪の御代が来ます。
 悪と善とをたてわけ・判別して、どちらも生かすのです。生かすとは太陽(ミロク)のイキに合すことです。太陽(ミロク)原理というイキに合えば悪情報は悪でないのです。つまり太陽(ミロク)原理とまつり合わせれば偽りの情報や神示の表面から真実の情報を見出せます。
 この道理をよく肚に入れて、太陽(ミロク)の心を 早くくみとりなさい。それが洗濯です。
 一月二日、 のひつ九のか三。


補足説明

太陽(ミロク)さんの説明

 前半は分かりにくいところがあります。岩戸開きの折りに、ミロクは人々を区別するのですが、見方によっては悪神のようにも閻魔大王のようにも見えることを説明しています。ただし、この悪とは人間が云うところの悪ではないと説明しています。なぜなら、神にとっては善も悪も無いからです。(善と悪の判断基準は何か?と考えれば、それは人間が勝手に決めた基準に過ぎないということに気が付けば良いのです。)そして、閻魔大王(閻魔大王えんまだいおう=地獄で生前の行いを閻魔帳を見ながら罪を決め、その最適の地獄へ送る)のようにも見えるということは現在・今の行いそのものを記録して、現在・今も裁いている説明しています。多くの人類にとっては裁くことは裁判所で判決を下してから刑が実行されると受け取るでしょうが、今・瞬時にその人間の行いをモニタ−している神達にとって、人間世界での裁判などは必要がないのです。その瞬間に判決が降りて、その人物の歩む未来が決定されているということです。

 ですから、岩戸開きの時に裁判して判決・刑が執行されるのでなく、今の行いで、刑が今実行されているということです。とは云え、神の意図するところでは人間の世界の善悪という水準での区別でないので、毎日の行いで心魂の掃除洗濯をすれば、その人物の未来・判決を変更してくれると説明しています。もともと、ミロクは慈悲の心でこの仕事に向かっているのですから、それぞれが良い方向へ進めばニコニコと見ているだけでしょうが、我欲の塊になり人間同士が共食い的な殺し合いをしたりすれば、その時は大魔人となってことごとく踏みつぶすのでしょう。踏みつぶすときの基準が閻魔帳の記録というところになりますので「閻魔にもなるという記述」の所以と考えられます。それを知らないと、自身の過去を都合良く忘れている人達にとっては裁いている姿をみたら悪神とも見えるのかもしれません。

 人間世界では証拠がなければ無罪ですが、心魂をモニタ−している世界ではその行いそのものが証拠であるというわけです。従って、隠れてコソコソとしても無意味で、心からの行いを正すことが必要であることを強調している帖です。


年月日

 昭和二十年一月二日
 旧十一月十九日(1945年)
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