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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

解読編CONCEPT

地震の巻 第02帖 (379)

 

 天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜しています。
 その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのです。
 何故ならば、自らの段階的秩序を破るからです。
 秩序、法則は、神そのものですから、神自身もこれを破ることは許されません。
 しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能です。
 それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様です。
 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うつことはできない。
 分類しては、生命の統一はなくなる。
 其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、反面では、平面的には割り切れない神秘の働き(用)が生じてきます。
 一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。
 分離していながら分離せず、統合していながら統合していない、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められています。
 ゝ については一つなのですが、 ○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜することになる。
 一は一のみにて一となっておらず、善の表れは善のみにて善と表れておらず、また、真は真のみにて真となり得ないですね。
 神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しません。
 しかし、大歓喜にまします太神の ゝ は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄します。
 それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在だからです。
 霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人なのです。
 生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式です。即ち、死後は生前の形式により定まります。
 形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われます。そうして、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜のない所に形式はなく、存在は許されません。
 愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しません。
 これら二つが相関連しない場合を外の真と云います。
 外の愛も外の真も共に生命しています。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されているのを見れば判るでしょう。
 本来は表面的なものの動きも、内面的なものと関連性をもつのです。故に現実を見れば、外部的にまげられたる働きがあり、その行為が許されてあるのを知ることができるでしょう。
 許されてはいますが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそなのです。
 浄化し弥栄してゆくための悪は悪でなく、偽は偽ではない。
 動かない善は善でなく、進展しない真は真ではない。
 更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし(利用し)弥栄させることを歓喜と云います。
 歓喜は神であり、神は歓喜であります。
 一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つでなのです。
 生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄えます。
 故に本質的には善悪のないことが知られるでしょう。
 死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がないです。
 先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできます。
 夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのです。
 霊界は、想念の世界ですから、時間はなく、空間もなく、想念のままになるのです。
 しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづきません。
 何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからです。
 そうして、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいていますから、外部的のもののみが強く打ち出されます。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれますが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのです。
 内分と外分とは、互に相反しますが、霊人の本態は内分にあるのですから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのです。
 生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られませんが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれます。
 生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのです。
 偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのです。
 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのです。
 この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮します。故に、同一の環境には住み得ないのです。
 こうして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになります。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜なのです。

年月日

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)

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