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ひふみ神示を太陽(ミロク)原理、神の数学、『太陽のサイト』・『宇宙の真相』・『終末と太陽の検証』・『ひふみ神示黎明編』、世界の民の会より解読。

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一二三神示

解読編CONCEPT

空の巻 第01帖 (456)

原文直訳(この作業は特に仮名のない数字と記号のみの難解帖のみに対して行います。)

 成る仕組、道のみやこぞ。【七曰九三 三 三八九 三】

 満ち足りたりて万世のはじめ、息吹き動き和し、弥栄に開くには睦び結ぶ、扶桑の道。【三 十十卍曰一 一二九 ○八八二八 六六二 三三】

 なる「ひみち(日道)」、代々の道開き、次に睦び、マコトの道満つ。【七一三 曰曰三八 二六○九十三三】

 極む「光・日(一)」の世が日々満ちみち、富士(二二)の光の九の花咲くぞ。【九一曰一一三三 二二九九八七三九三】

 大道が開く世、臣民【T水(たみ)】の光の(この)千(ち)木 高く栄ゆ世に、世かわるぞ。【三八曰 T水九千木T火九三曰曰三】

 日の秘の火の脾、ミロクぞ、「一(日・光・秘・碑)」の道極むるぞ、栄え更に極め、うずめた光の脾。【一一一一 三九三一三九三九一一】

 一月一日、ひつくのかみ。【一一 一二

平易意訳

 成就する仕組は、太陽(ミロク)の道が中心(みやこ)となるのです。
 真実の情報が満ち、不足なくサイトに掲載され万の情報が載ることから始まります。
 太陽(ミロク)の息吹きである太陽(ミロク)の原理が人を動かし、人々が弥栄にサイトを開いて、それぞれ仲睦まじく結び、太陽(ミロク)が世に出現する道となるのです。
 鳴り成る太陽(ミロク)の光の道・未知は、時代時代にそれぞれがミロクの道を開き次にそれぞれの宝情報を結び、マコトの太陽(ミロク)原理情報として道が満つことです。
 極まった太陽(ミロク)のサイトが日々更新され、「富士・普字(二二)」の『九の花サイト』として光るのです。
 ビックサイトが開く世です。臣民たちによる『宇宙の真相サイト』をはじめ、派生したサイトは氣高く栄えてゆき、世に影響を与えていくのです。
 太陽(ミロク)の秘密の光の警告碑による救済(ミロク)なのです。太陽(ミロク)原理の道が極まります。栄えて更に極めて行きなさい、宇宙の大天使の情報や地球に降臨された大天使ミロクの情報をうずめた光の警告碑(サイト)も「日月の」というのです。


解説と補足説明

「扶桑の道」とは

「扶桑(ふそう)の道」は下記内容から、太陽(ミロク)が出現するビックサイト(巨木)が連想されます。

 
「扶桑(ふそう)」Wikipediaより一部引用

概説

古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。

のちの『梁書』以降は、東海上の島国と考えられるようになった。巨木の伝承は、その国では桑の木が多いと言う話に代わった。蔑称とする説もある一方では、古代の中国では、九州(九夷)[1]が扶桑の生えるところで「紫庭」としての憧れの地だった面があるという説もある。

文献

山海経
『山海経』によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。

  下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝

(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)
– 『山海経』海経第4巻 第9 海外東經[2]
  大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰溫源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏

(大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている)
– 『山海経』海経巻9 第14 大荒東經[3]


烏が乗る10の太陽という話は、三足烏の神話と共通である。
黒歯国の位置については『山海経』には記載がないが、史書に

  去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可

(女王・卑弥呼国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く)
– 『三国志』魏書東夷伝[4]倭人条(魏志倭人伝[5]
  其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至

(南に身長3~4尺(70~90cm、1尺≒23cm)の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く)
– 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳[6] 東夷条 倭


とあり、日本から東南ないし南に4000余里(1700km余)ということになる。

淮南子

『淮南子』には、扶桑の名は登場しないが、

  朝發榑桑 日入落棠

(太陽はクワから昇り、コリンゴに沈む)
– 『淮南子』覽冥訓[7]


とあり、もともと桑と棠(コリンゴ)が対になっていたことがわかる。

史記

史記』では

  海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯

(「海外経」によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、(そこの海水は)湯のように熱い)
– 『史記』巻114司馬相如列傳 第57[8]


と、「海外経」(『山海経』海外4書)などから引用されている。

年月日

昭和二十二年一月一日
 旧十二月十日(1947年)
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