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フミのミクラマ二『一二三解読・太陽の検証・文(ふみ)の御蔵』

フミのミクラマ二

一二三神示

メール58「神の数学」・一二三

5次方陣と四次元の高度な世界(その2)

yuru63の記

4次元とは3次元で現れた物質世界と霊性を加えたもの【4=3+1】と考えられます。
「ひふみ九九算表」からすると四次元の世界の数列とは「0483726150」という4の倍数を持つものです。この「4の倍数」が意味するものとは、物の一つには四方向の側面を併せ持つという「天津金木の法の仕組み」と同様の世界観を訴えているのかもしれません。
その四方向性というのは、「縦・横・正・反」という性質に分類され、この分類の仕方というのは、物質を超えた概念であり、意識・心を中心とする世界観でもあります。

ここに至るのに必要な数列は、「ひふみ九九算表」が示す通り、0次元から数えて5番目となります。
つまり五つの次元を経ねば四次元世界は現れないということなのです。

ひふみ九九算表(メール50より)

 0次元 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
 1次元 0 1 2 3 4 5 6 7 8 0
 2次元 0 2 4 6 8 1 3 5 7 0
 3次元 0 3 6 0 3 6 0 3 6 0
 4次元 0 4 8 3 7 2 6 1 5 0
 5次元 0 5 1 6 2 7 3 8 4 0
 6次元 0 6 3 0 6 3 0 6 3 0
 7次元 0 7 5 3 1 8 6 4 2 0
 8次元 0 8 7 6 5 4 3 2 1 0
 9次元 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0


ここでも神示の云う「五」と「四次元」がつながりました。

このように「ひふみ神示」は言葉の表現を変え、様々な角度からある一つの重要なことを伝えようとしています。一見、相矛盾しているかの様な説明をしているようですが、矛盾は無く、伝えたいのは、「0」の概念であるということです。
つまり、マコト【〇九十】である「神の心」からの行動を伝えているようです。
心と言葉と行が一致しているものがいかに偉大なものであるかということです。

 よい言葉ならば、たとえ悪神が語ってもよいではないかと言うものもあるのですが、それは理屈です。「甘ければ砂糖でなくサッカリンでもよいではないか」と言うことと同じです。
 『太陽のサイト』の文のような、真の善言真語は、「心」、「言」、「行」、が一致しているのですから直ちに力するのです。言葉の上のみ同一であっても、心、言、行、が一致しておらないと力しません。
 偽りの言葉は、落ちついてきけばすぐ判るのです。同じ「ハイ」と言う返事でも、不満をもつ時と喜びの時では違うでしょう。

竜音の巻 第14帖 (073)より


なぜここまでくどく伝えられているのかというのは、現代人の考え方というものが、
言葉はわかるが、その奥にある「心・意識」が解らないという状態になってしまっているようなのです。

これにより、上手いこと云う人と、マコトを云う人の区別がつかない様なのです。

自分自身にも問いかけて、今の私は「マコト(〇九十)」なのだろうかと自問自答するのもよいかもしれません。

もし、自身がマコトとなれば、世の中で蔓延する情報から、マコトと偽りを判別できるような力がついてくるのかもしれません。

日本人は「心」を大切にする民族だと思いますので、神から期待されているからこそこのような難問を与えられているのだと思います。

至恩の巻 第03帖 (101)

 判るように説いて聞かすから、今迄の智を一先づすてて、生れ赤児となりて聞いて下されよ。天之鈿女(あめのうづめ)の命が天照大神に奉った巻物には12345678910と書いてあったのぞ。その時はそれで一応よかったのであるなれど、それは限られた時と所でのことで永遠のものではないぞ。

至恩の巻 第04帖 (102)

 この時代には一二三四五六七八九十の数と言葉で、死者も甦る程の力があったのであるなれど段々と曇りが出て来て、これだけでは役にたたんことになって来たのぞ。岩戸開きの鍵であったが、今度の岩戸ひらきには役にたたんようになったのであるぞ。始めに がなくてはならん(初めに「0」がなくてはなりません) は神ぞ。(「0から始まる数について」→メール55参照)

(つづく)


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